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恋とセックスで幸せになる秘密

拙著『あたらしい「源氏物語」の教科書』(通称・源氏本)を担当してくれた

イーストプレスのMさんからご本が送られてきました。


この本は、二村ヒトシさんの恋愛論『すべてはモテるためである』

(現在は『モテるための哲学』として文庫化)のリアルなファンだった

Mさんの熱望の結果、長い期間をかけ、ようやくカタチになった作品です。

自分も完成と聞いて、本心から「おめでとう!」って言葉が出たくらい。







さっそく届いた本を読ませていただきましたが、

恋愛に悩んでるヒトが読んだら泣いちゃうんじゃないかな。



この本で、二村さんは「あなた」と読者にむかって語りかけ、

恋愛に苦しむ「あなた」のあり方を、まず肯定してくれます。

これは大きいです。



この本はとても暖かくて、やさしいと感じました。

本作のキーワードの一つは「自己肯定」なんですが、

それも父性的とも母性的ともつかないカタチで、読んでるヒトを

まず、包み込んでくれるのです。









僕も恋愛論的なモノを歴史や古典をベースにして時々、書くんですけど、

ダメ出し的な視点しか出せないのに対し、

二村さんの文章には、色んな意味で、愛情が感じられるんですよね。

それがこの本の魅力の一つになっていると思います。



そして第二のキーワードといえるのが、

親の責任であろうが、なかろうが、誰もが成長と共に

抱えてしまう「心の穴」の問題です。



それを、本当は幸せになれる方法とはまた別の方法を

「あえて選んで」埋めてしまう。

でもそれは、応急処置であって、本当に埋めたことにはなっていない。



または、自分にダメ出しする相手を好きになるけど、

結局それは相手があなたを支配しようとしているだけだったり、

相手のストレスのはけ口(あるいはサンドバッグ)になっている、だけ。



でも、ある種のヒトは自分への評価が低いからこそ、

ムチこそがホントの愛だと信じ込みたいわけです。



自分で自分を愛せず、罰したいと考えてるヒトがどれだけ多いことか!



でも彼といても自分を受け入れてもらっていないし、

コンプレックスを刺激されつづけますから

限界が来ます。

愛が憎しみに変わったのではなく、最初から憎しみでしかなかった・・・

というようにこの本はリアルな恋のリアルにイタい部分を、

穏やかな口調ですが、的確に指摘してきます。



それら「不幸」のあり方について、

この本は「自己肯定」ができていないことが

問題と説いています。

さらに現代にあふれる「愛されなんちゃら」というような

「モテ」を渇望させる幻想の数々にも

二村さんは警鐘をならしています。



男性も結局同じで、

「モテるか、モテないか、

それが運命の分かれ道だ」というスローガンに

突き動かされています。



「ヤリチン(プレイボーイ)はセックスオタク」であるとも二村さんは

看破しています。これはさすがに鋭いですねー。





結局、自己肯定が出来てないヒトばかり。

愛はどんどん遠ざかっていきます。

二村さんは現代を自己肯定するシステムが

壊れた時代とも言っています。

さらに二村さんがいうように、他人には上から目線なのに、

理想とする自分との距離を感じつづけて

疲弊していく「ナルシシズム」。

それに囚われた「ナルシスト」ばかりなのかもしれません。



本当の意味での自己肯定とは・・・・・・

つまり、自分がどんな人間で、どうなれば幸せなのか。

その問いに自分で、作り笑顔でもなく、

背伸びするでもなく答えられるように

なれるか、ということでもあります。



ホントは、「自我」の根本であるはずなのに、いつのまにか

見えなくさせられてるんです。

プライドとか見栄とか、怯えとか。

いろんなもので我々は目隠しされてしまうのです。



全然、自分から自由じゃないのです



二村さんも「恋を通じて自分を知ることができる」

というようなことをいっていました。



いわば恋は道(ルート)だったんだなぁと

今、僕は思います。

恋のあとに愛がくる・・・・・・わけでも必ずしもないのが

しょっぱいんだけど(むしろ、かなりレアケースだと思うけど)。



この本を読んでいて、

少し思いだしたのが、美輪明宏氏の言葉で

「愛とは許すこと」でした。



美しい言葉ですが、実際は

「愛とは許せること」くらいがリアルなんだと思います。

もちろん、その人のことも、

その人を愛してる自分も許せるという。



「愛情」(ココロの愛、カラダの愛を問わず)って、

人生を揺るがす大問題だと思います。

爆弾みたいなもの。しかもいったん破裂したら

自分のイメージすら元には戻せなくなります。

誰にでも、時期が来たら公平に

分配されるっていうものでもない。

また愛を得たからといって幸せになれるとも限らない。



だからこそ、真摯に向かい合いたいですね。



不用意な「モテ」は、愛の幸せどころか、

結局、自分を見失うことにしか

ならないと僕も思います。

色んなコンプレックス・・・たとえば

「自分はヒトに愛されない外見ではないか」というような恐れは

誰にでもあります。どんな美男美女にもそれはあるんですよ。



ところが、時々、そうした孤独やブス(といわれることの恐怖)を

こじらせてしまうヒトがいます。



いや、ホントは時々ではなく、たくさんいるような気がしています。



結局、あなたはあなたで、どんなに背伸びしようが、

自分を卑下しようが他人の目を意識したくなろうが、

あなたはあなたに変わりなく、

でも、そんなあなただからこそ、

あなただけの幸せを手に入れられる。



あらゆる幸せはあなただけのオーダーメイドなんだけど、

そこを分からないんですよね。もしくは分かってないというか。



だから、幸せがどういうものかは、結局ヒトの数だけあります。



結婚する。結婚しながら仕事もする。子供を一人で育てる。

いろいろなゴールがあって、それは自分が

誰であるかを知ったあなたが

適宜選択していけばよい。

そういうことなのかもしれません。



長々と書いてきましたが、キュッと袖を握られたような

気がしたヒトはぜひ読んでいただきたい一冊です。

あなたのその袖を握ったのは、

二村さんじゃなくて、多分自己肯定されてない

あなた自身だと思うのです。





_______





実は二村ヒトシさんとは友人を介して

何度かお目にかかったことがあります。

(っていうか、Mさんと出逢ったのも二村さんを

介してだった・・・・・・らしい)



二村さんは名刺に「アダルトビデオ監督」ってデカデカと書いてるくらいの

御方なんですが、繊細なシャイガイだとお見受けいたしました(笑)

そしてやさしい方ですね。

まだまったくカタチになってなかった源氏本について、「愛」について、

色々とお話したことも。

その席でも、「恋愛」と一口にいうけど、

恋と愛とは違うんだ、という話を

伺った記憶があります。





ーーー実はこの本を読んでいて、

ホントに何回も思いだしたのが

川端康成の『朝雲』の末尾でした。

『朝雲』とは、ある少女雑誌に川端が書いた短編です。

美しい女教師に憧れ、

「恋」をしてしまうある乙女の姿が描かれます。



「自己肯定」について、何回も読み、考えるうちに

『朝雲』の末尾である「あの方の思ひ出はもう胸を痛めない」

「今私は静かにしてゐる」という文が思い浮かんできました。





拙著の『乙女の日本史 文学編』のラストでも取り上げましたけど、

「静か」というのは、あの少女なりの

自己肯定と結論だったんだな、と。

高校生のころ、『朝雲』を読んだ時、

自分はまったくこの文に気づきませんでした。

十代とはまた別の意味で嵐のような二十代を過ぎ、

ようやく33歳になって、この文の存在に気づいたのです。

自分が自己肯定できたか、できつつあるか、

それとも遠い所にいってしまったか

知りませんが、川端は憎いことをするなぁ・・・

なんて思いました。



余談でした。


by horiehiroki | 2011-02-25 05:31 | 読書