アートは最後の聖地?
2011年 11月 30日取材をしていただきました。
「乙女の美術史」刊行にからめてのインタビューだったんですが、色々と興味深いところにまでお話が発展しました。
「月刊美術」のバックナンバーを見ていても、
美少女を描いた絵はたくさんあるのに
なぜ美少年は(さほど)描かれないのか。
というような、ぼくが感じていた疑問についても
話あったり。
もともと金子國義さんの作品などを見てると
美少女と美少年はセットであり、
なかばタブーの香りを漂わせてたのに
今や、美少女は美少年の手をふりはらって
独走態勢に入ってますからね・・・
美少女はもはや公然たる存在なのかも。
そして女性作家も、男性作家も
美少女を主に描くという日本の傾向は
興味深い。
あとはアート界の変遷ですね。
現在もふくめ、今後は、支配的な大作家(=絵を描く人)が登場するより、小さくつくって、小さく売る、というような需要と供給のバランスが取れた「小さな集まり」「小さな結ぼれ」がどんどんと主流になっていくようです。
そういう中で、今後、美術の世界はどうなっていくのか。マーケット的というより、美術の中身、コンテンツとしての話です。
そもそも美術とは美の術と訳語されていたけど、
今の現代美術・・・というよりアートといったほうがいいですかね、ともかく、その世界では、「美」という普遍性をさぐるより、個人的に作家さんが「グッ」と来るものを描くというような傾向がつよいですよね。
そのうち、美術は「萌術」になるのでは・・・というような話もしてました(笑
萌術と過去の美術の大きな違いは、
・・・いや、過去の大画家の作品といってもいいけど、その大きな違いは、作品に作家の萌が描かれてないとかそういうことではないです。
たとえば話にもでたルーベンス。
ルーベンスは豊満な女性が好きですから、関係のないテーマの絵の中にもさりげなく、女性たちを描いていたりする。
ところが、ルーベンスの絵には一枚の大きな作品として、完結した世界があり、骨格がキッチリしてる。
一方で、少なくともぼくが最近目にした現代アートの作品は、そういう一枚の絵に完結するわけではなく、作家の内面世界のひとつの反映程度のような気もしました。
すくなくともそういう側面が強いような・・・
グッと来るもの、萌えを描いた部分が強いです。
これ、骨格に対して肉、ということになるんだけど・・・・・・・今後、時間の経過の中で、どう肉は生き残っていくのでしょうか。はかなく朽ちてしまわないのか、というようなことも考えた一夜でした。
おもしろかったですね!
そして「月刊美術」2011年12月号に、乙女の美術史のレビューを掲載いただけました。ありがとうございます