すべてはモテるためである
2012年 12月 09日「すべてはモテるためである」
をお送りいただきました。三度目の出版だそうです(初の文庫化?
ちなみに以前、同じ著者さんが書いた本についてもレビュー書いております。
Mさんが非常に思い入れの深い本だっていうのはなぜか知ってて、どんなんだろーと思ってたんですが、元祖エヴァンゲリオン世代のワカモノに響いた、コミュニケーション論なんですね。
それよりなにより僕がこの本読んでいて、おおっと思ったことを書きますね。
最近、
望まない相手から望んでない種類のアプローチをされることの不快感
について考えることが多いんです。
この本の中には
相手と同じ土俵に立ってないのに欲望をぶつけてくる相手のことを、キモチワルイと感じる…
という下りがでてきます。まさにそれ。
エヴァンゲリオンの劇場版も「キモチワルイ」というアスカのセリフで終わったのと、どこか符合してるような。
土俵にのっていないのに・・・というのは、フツーの恋愛にかんしてだけでなく、たとえばヤバいファンとアイドルの関係なんかもそうですね。
アプローチにはTPOが必要なんです。
望まない相手からモテたところで、それって下等霊に取り憑かれたとか、交通事故にあったとか、そういうレベルにすぎないんですよ。
振り方・振られ方にも色々あって、告白ののち、関係が悪くなるのはまだマシな方かもデスね。相手も真剣に考えたからこそ、そういうことになる。相手の恋愛可能な相手レベルにまったく到達してなかったばあいは「(前略) ありがとう!(困ったような笑顔)」だけで終わっちゃいます。それより最悪な振られ方は、告白しようにも目すら合わせてくれない的な、告白不能=コミュニケーション不能となってあらわれるのでした。
でもモテたい!!とか野放図に言い放つだけの男女雑誌の恋愛特集では、そういう観点はぬけおちています。きわめて現実的であるはずなんですが。
どんな対象外からのアプローチすら、わたしの価値をあげる……なんて解釈するんでしょうかね。
まなざしがわたしを美しくする
とかコピーつけると美化されますが、こういうのをモテ乞食といっていいのではないでしょうか。
現実問題でいうと、対象外からのアプローチを何度喰らおうが、その人が
「いやー・・・わたし(/僕/オレ)全然ですよ。モテないんです!」
といってるのを聞くはずです。
モテにカウントされてもない(w
でもモテ乞食は痴漢されたとか下着盗まれたとか、そういうことですら、嬉々として話しますので要注意です。
・・・と、話がずれましたが、
好意だけでなく、欲望をぶつけられることもあると思います。
TPOに合ってない欲望、それは痴漢です。もしくは痴漢と同じかと思います。
キモチワルイですよね?
キモチワルイことするのがキモチイイ人もいるんですけど、
そういうとき、単純に「イヤだなー」「なんだろこの人」「かんべんしてよ」とか思いますよね?
こういう土台を共有してないコミュニケーション、
それ自体を人は「キモチワルイ」と感じてるんだと二村さんは教えてくれました。
そう、キモチワルイから、イヤなんですよねー。
この「キモチワルイ」男、女でいう「ブス」なんじゃないかと僕は思いました。
参考
「ブス」でいることの勇気(?)
「ブス」とはコミュニケーション能力の問題である
いかに愛するべきか
巻末には二村さんと哲学者・國分功一郎さんの対談が収録されていて、
「この本は実践的かつ真面目な倫理学である」と國分功一郎さんは発言してます。
それってコミュニケーション倫理学だよね、とぼくはかんじました。
コミュニケーション障害を自分で矯正するためのギプスみたいなテキストだな、と。
この本の「モテたい」は、より多くの相手と同じ土俵にあがるためのセルフプロデュース術を身につける。どうじにホントの意味での社交術をつける、そういうことのあとに来るモノだとぼくは感じました。
でもね、「モテてどーするんですか?」ということについていうと、けっきょく曖昧な欲望の結果としての「モテ」を男女は尊びますが、それが現実になったあと、「ハテ、自分はなにをもとめていたのか」みたいなことになるわけです。
國分功一郎さんは、モテの暗い側面を指摘しています。それは敷居の低さである、と。
敷居の低さを極論すればですね、「見たいモノを見せてあげる」です。
いうまでもなく、女子にヒットした映画「ヘルタースケルター」で、エリカ様演じる、りり子のセリフです。
「見たいモノを見せてあげる」人こそがモテるんです。もっというと、見たいモノがその人にいっぱいくっついてる人のこと。
でもね、それでどーなるか、というと、何も残らない。りり子が溶けちゃうのと同じ。
まぁね、僕自身は「モテたい」と思うきもちは健全だと考えます。
なぜなら「モテたい」とか、誰かと(性的な意味もふくめ)仲良くなりたいという感情は、他人に興味がある証だから。
自分は、そういうところがまったくなくなってきまして(笑)、さて、どうしようか?と。
この本が、あなたが「自分で考える訓練」をすることもできるメンドクサい本
と二村さんは書いています(29ページ)ので、ぼくも少し考えてみようかと。
今、ぼくが感じてることは、モテることのすべては、ひとりで/ひとりでも生きていけるようになるためにあるんじゃないかな、ということなんですけどね。
モテ論とおひとり様論って実は水脈が同じ…なのかも
来年くらいに自分も恋愛論的なのを古今の恋愛論、恋愛小説の「名著」なり、著名人の恋愛パターンを通じて考えてみようと思ってるんですが。
ココだけの話、他人に対する興味が、ものすごく落ちてきていて(笑)、そんな人の恋愛論ってどないやねんとも思うんですけれども。
________________
ちなみに今月のまんがで読破は、「夜明け前」です。島崎藤村の。
ぼく、読んでないので、あらすじでもしっておこうかと思います(笑