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保科正之の母、お志津の方について

「ファッション、家電から食品まで」というキャッチフレーズのついた某販売サイトに、拙著の葵学園について、とある読者の方がレビューを掲載なさっておられるようです。報告を受けて知りました。

ぼくは、感想は感想なので、そこら辺はご自由に、というスタンスなんですが…今回は非常に悪質かと思われます。ぼくなりに思うことをココに書いておきます。

まず、その方のご指摘なさってる点は3点あるようです。

1・正之の養父・正光が会津藩主というのは、たしかに誤記でした、これはスイマセン。

2・正之の実母・お志津の方について。この方が指摘するように、秀忠の乳母・大姥局の侍女だったとすることは、ネットなどでは通説となってはいるようですね。しかし、私は必ずしもそれが妥当だとは考えません。

3・「付け加えるなら保科家の男性がダメな人ばかりなどありません」

これは、まったく書いてもいないことですので、著者の意図の曲解であり、完全な中傷です。わざわざ色々と書いてくださってますが、そんなことについてはイチイチ触れません。


さて、本日は「2」の問題について書きたいと思います。




葵学園については「ざつくり」がウリの本ですから、多少、はしょりすぎな部分があるのは事実かとはおもいます。しかし誌面は有限なわけで。

ネットも可読性というのがあるので、なるべく「ざつくり」と書きます。



保科正之の母ことお志津の方について、(保科正之の実父とされる)秀忠の乳母・大姥局の侍女だったという説については、このレビュワーの方がいうように、調べれば誰でもかんたんに分かる、シンプルなことではありません。

徳川将軍家の女性たちについて記した古い史料のうち、代表的なものに次の四つがあります。

「柳営婦女伝系」
「玉輿記」
「以貴小伝」
「幕府祚胤伝」

成立(一部推定)年代順。


そこから書物の成立年代順にお志津の方について記した部分を見てみると・・・面白いことが分かるハズです。



1/「柳営婦女伝系」(18世紀前半、1736-1740年ごろに成立?)

保科肥後守正之の御母堂は、武州板橋郷竹村の大工の娘にて素性賤しき女なり。父は貧窮なれば江戸に来て、御城の奥方へ下女奉公に出るの所、秀忠公御目に止り幸せらる事あり、計らずも懐妊となる。~「柳営婦女伝系」巻之七 


メモ:

※お志津が大姥局の侍女との記載ナシ

※御城の奥方へ下女奉公 との記述のみ、あり。

※こんかいのお話とは関係ないですが、また、この「柳営~」には、この婦人若名お静の方と称せらる。という表記アリ。つまり、「お静」という表記も古くからある、みたいなんですが、現代の読者への通りの良さを考えて、葵学園その他ではお志津にすることにしました。



2/「玉輿記」(柳営~と、以貴小伝の間くらいの時期に成立? 柳営~の記述と同一箇所が多いため。)

正之卿の御母堂は、武州板橋郷竹村の大工の娘にて、父は貧窮なれば奉公かせぎに出せしに、はからずも御城内下女奉公相勤め、夫(それ)より奥女中の召仕となりしに、将軍家の御目に留まり懐妊す。~「玉輿記 五」

メモ:

※お志津が大姥局の侍女との記載ナシ

※玉輿記は柳営~の内容をわかりやすく、仮名文で書いたモノ。史書としての価値は高くないとされる。

※下女奉公からステップアップして、奥女中の召仕となって、将軍家=秀忠の目にとまって・・・ という大奥にありがちな出世をした という記述あり。なんで大工の娘ふぜいが、将軍の息子を生むにいたったの?と読者は当然考えるわけで、その疑問を埋めるために、書いちゃったんじゃーないかと思うわけです。

※さらに、おそらくはココの記述が、次の世代に作られる「以貴小伝」、「幕府祚胤伝」の記述を誘発したんじゃーないかとぼくは考えます。



3/「以貴小伝」(18世紀後半~19世紀前半成立?) 



「おしづの方は神尾伊予栄加(かみお いよ さねよし)が女なり。御所につかへまいらせて慶長十六年の五月七日御庶子幸松殿(=正之)をまうく」

そして

「或書に神尾伊予は北条氏直の近臣にて、小田原ほろびしのち、当家に仕えんことを望みゐたり。其の比(ころ)、宿老主計頭(井上)正就朝臣(しゅくろう かずえのかみ まさなり あそん)の母は台徳院御所(秀忠、彼の大奥在住)の御乳人にて、世には”おうばどの(大姥どの)”といひしかは、常に局住みにておはせしに、神尾が女(お志津)を給仕させしに、はからずも御所へつかへまいらせて身おもくなりぬ」




メモ:

※お志津が貧乏ではあっても元は北条家に仕えた、れっきとした武士の娘であった…というような壮大なストーリーが、ここにおいて「はじめて」出現。ここの記述は「玉輿記」の「奥女中の召仕」などにヒントを得たものではないか、と。

※おそらく、徳川幕府黎明期の人々、さらには保科家の「神聖化」が計られた結果、必要とされて生まれたストーリーだと考えます。

※ただし、この「以貴小伝」の記述の習慣として、「或書」「或説」というのは異説である、こういう意見もあるからいちおう書いておくよ…という程度の引用であることに注意。つまり、「以貴小伝」はこの説を載せてはいるが、メインの説ではない、ということ。

※記述があるのはこの本の中の「台徳院御所」の部分です。御所というのは「将軍のいる場所」も語義として含まれます。ただし、それはいわゆる「大奥」という意味です。

※大姥の侍女だったことをある説だとして紹介しつつも、大奥づとめの時代が別物として書かれています。


4/「幕府祚胤伝」(天保9年9月、1838年)


武州板橋の在、竹村の農人、神尾伊予栄加の娘、慶長年中、井上主計頭正就の母に仕う、この母台徳院殿の御乳なり。それ故、この娘御目通りへ出ること有、或る時、御懇命ありて大奥へ勤仕す。其の後御寵あり、(お志津の)懐妊により・・・


メモ:

※「以貴小伝」の記述をおおむね引き継いでいるだけでなく、先行する書物の断片的な記述のつじつま合わせをしている。良く言えば論理が通じやすくリライトしている。

※「幕府祚胤伝」は、三田村鳶魚などによるともっとも推奨すべき、とされてるが、幕府の顔色をおもんぱかった記述が多いとされる。

※また、ここにおいて、これまでの「(お志津は「素性賤しき女」で)大工の娘」の記述が「農人(の娘)」に変わっているところに注目。農業経営者は武士が武士を辞めたいとなったときの転職先としてもっとも望ましい職業でした。

※また、ここでも大姥の侍女だったことと、(秀忠からの)御懇命&御寵愛を受けた大奥時代が別物として書かれていますよね。



以上、年代順にお志津が大姥局の侍女といわれるようになるまでの経緯を原典の記述にそって、見てみました。(原文の表記に、可読性の点で一部変えた部分があります)

まず、大姥の侍女として大奥に入ったけど、

(1)その記述はお志津が生きていた時代から、数百年後に異説として登場しはじめたものにすぎない

(2)さらに保科正之懐妊当時、乳母に仕えていた、ということはドコにも書かれていない

(3)もっとも古い「柳営婦女伝系」で、お城の奥方に下女奉公とだけあり、それにつづく史料でも保科正之になる子どもを懐妊したときは、乳母の侍女ではなく、大奥勤めということになっている、それも秀忠という人物と密接に関係しうる、きわめて近い所にいたということになっている(懐妊したので)。

※懐妊場所、回数には諸説ありますが、話がどんどん大きくなるので、ここでは触れません


・・・という記述を総合すると、

お志津の方は「大姥局の侍女だった」のは事実……と言い切るには心許ないところがある。可能性はある、かもしれないけれど。しかしそれが事実だったところで、そうだったのは一時期のことであり、彼女の生涯の職のようには(今のネット上の通論のように明確には)言い切れないのではないか、ナ~ ということ。



また、すべての書物の記述を見ていくと、彼女が(一時期)大姥の侍女であったとは書いていても、その後、保科正之を懐妊するにあたり「大奥」「御所」で仕事をしていたということが書いてあるんです。わたしが「江の侍女」と書いたのは、大奥ないし御所で(誰それに仕えるっていう記述なしに)仕事をしていると書かれてる場合、彼女が仕える相手として考え得るのは大奥の主、それといえば誰か、ということです。



また、さらに1-4の書物を引用しましたが、その引用箇所の直後から(嫉妬深い)江の目から遠ざけるために……という記述がつづくんですよね。「嫉妬深い」江、その人がピンと来ないワケがないと思われます。さらに、これは推論、一般論を含むんですが、貴人の愛人はだいたい本妻の侍女から出るケースは少なからずあるかと思います。

ここらへんはまぁ置いておいてでもですね、某レビュアーさんの主張のように事態は簡単至極で明確ではないということ(明確になのは、これらの背景への論考を経ないで、ある史書の一部が抜き書きされてるだけ、ということ)。

そもそもお志津が、ずーっと大姥の侍女だったという記述など存在しないこと(懐妊時は少なくとも秀忠の間近にいたと思われる記述になっていること)。

「ちょっとでも調べたら分かること」なのに、私が間違えて書いてるような書かれ方をするいわれはない、ということ。

などなどでしょうか。

これだけ書くのにスペースが要るものを、「ざっくり」した記述がウリの葵学園で、やる意味があるか。そもそも求められているか。

保科正之の母・お志津 って本じゃないわけで。

触れなきゃいけないのはわかってるけど、ここまで詳細に触れる意味ってあるのか、と。
まぁ、一文くらいは入れたほうが親切だったかもしれないとは思いますけどね・・・。
さらにネットでどういう通説がながれてるか、など私にはあんまり関係がないのでそこまで把握してなかったな~ それはちょっとすいませんでしたね、というお話。

私も「狭くても深い知識を有する」方々のご希望に全て応えられるかどうかとなると、ちょっと心もとないところがございます。

この作品にかぎらず全ての作品は、みなさんのチカラをかりて、一生懸命つくったものです。

たのしんでいただければさいわいです。足りないところも多々あるかとはおもいますが、どうか広い心で受け止めてください・・・というようなことを考えております。調子よくてスイマセン。


ただし、今回のような重大な中傷を書いておられる方については、こちらも商売に関係することですから、具体的な対応を考えていただくことにしますね!

その某サイトも、この手のレビュー、自動的に反映させるのではなく、保留して内容をじゅうぶんに検討の上で掲載していただければなぁと思うのですが…。


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葵学園とごいっしょに「うたもゑ」も買ってくださいねー! 作者に僕の名前のクレジットが出てないけど。
by horiehiroki | 2013-04-25 01:59 | 歴史・文化