八重の桜(40 襄と行く会津)
2013年 10月 22日ジョーといく会津
ってバスツアーか・・・・・・
っておもいましたけど、内容は総集編的な。最終回も近いってことだよね~と感慨にふけりましたw
さて、今回はもうベタな補足ですけど、板垣さんが暴漢に襲われていましたよね。
いわゆる「岐阜事件」です。
板垣さんは(まだ民衆に政治参加してほしくない)政府のメインストリームとは距離を置いていて、上流からの近代化だけでなく、民衆にも知識や教養、それに政治参加の機会を与えて、日本の社会・文化全体を厚くしていこうと頑張りました。
そういうのが自由民権運動の根幹です。
なお、
暴漢に襲われ、亡くなったのは、大久保利通とか、伊藤博文といった人々のお話です。
板垣さんはしぶとくたくましく、生き続けるよね・・・
今回、土佐弁訳で「板垣死すとも自由は死せず」の名キャッチコピーを叫んでおられましたけど、あれを実際は叫んだかどうかは・・・・・・・。
>板垣自身が後に「アッと思うばかりで声も出なかった」
あっー!
この文の出典はウィキの「岐阜事件」(暗殺未遂事件のことです)ですけども、実際、彼自身の記憶にはなかったところで、
・「何をするか!!!」的な叱咤を(無意識的に?)犯人に行ったという説。
”命に別状は無いが、左胸、右胸に各1ヶ所、右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に傷を負っていた” とのことで、重症ではないにせよ、いくら武道などを習得していた彼でも平常心は保てなかったでしょうし、回顧録では「具体的には何も覚えていない」的な発言をしても仕方がないかと思われます・・・。
ちなみにプロの殺し屋である軍人などが、強いヒトを殺す時、不意打ちして、小さな傷を、たとえば左手なんかに負わせます。人間はかならずその傷を見る習性がありますから、その注意が軽い傷に向かった瞬間に致命傷を追わせるのだとか。
ご参考まで。
・周囲にいた、板垣の”自由民権運動”同志である内藤魯一が「板垣死すとも自由は死せず」という発言の元になるような言葉を叫んだのを、(キャッチーなので)板垣本人の言葉にした説 ←いまでも週刊誌程度の媒体におけるインタビュー記事で多発の工作です。
後に板垣さんは(故郷)高知に(自由主義の政治団体)立志社を設立。
で、この立志社で働いたヒトの一人・西山志澄と結婚したのが、坂本龍馬の元カノとされる平井加尾です。
犯人は、相原尚褧(あいばらなおぶみ)という保守派の小学校教師。”相原は無期懲役の判決を受けるが、1889年(明治22年)、大日本帝国憲法発布の恩赦で釈放される。釈放後、板垣の元に謝罪に訪れる。板垣は罪を許した” ということですが、その後不審死を遂げております。
板垣さんはわりと個性的なヒトで、たとえば子どもの名前がすごくて、娘に猿(えん)ってつけてます。
この人、後に改名せざるをえなくて、婉にしてるとか。ほかの娘にも兵とか軍とか凄い名前を・・・。
さらに華族一代論を展開、自分の息子を(板垣さんがもっていた伯爵の爵位をつがせないために)廃嫡するなど、公のために生きた・・・というとかっこいいけど、ファミリーの一員としてはどうなんだろうと心配になるような言動がめだちました。
よくいえば純粋でね。年甲斐もなく芸者の美少女にマジ惚れして、彼女がなくなったら号泣したとか。詳しくは拙著「愛と夜の日本史スキャンダル」よんでくださいw
で、次の注目は、この人。
うらさんです。
実は、どの会津藩士の樋口家から山本家に嫁いだかよくわかっていないみたい。
今は樋口うらと名乗っていたのでしょうか。
史実でもやっぱり会津でずっと暮らし続けたそうです。
八重が会ったのは事実だそうですが・・・
娘の無事を祈る(今は荒れてしまった)神社での再会・・・といういくぶん地味な登場でしたが、今回も後ろ姿をみせて逃げるように去っていかれましたな。自分の気持ちにオトシマエというか、踏ん切りを付けるかのように。
印象的だったのは彼女が
「わたしヨメにいったんだよ!」と聞いて、「よかった」はじめて表情を軟らかくするシーン。
よかった・・・・・というのは山本家の跡取り娘としての運命を娘に背負わせてしまったことを、武士という階級がなくなった後こそ、ずっと考える機会があったのかな・・・と思わせました。
実際、資料なんかがないはずなので、想像するしかないシーンだけどよく出来てた、と。
いっぽう、今回、覚馬さんの心の揺れ動きを見ていて思ったのは、二人が京と会津の間で長年離れていたとき、覚馬は覚馬でもう、彼女には会えないって思うようになっていたんだろうなー。足腰の問題とか目が見えないとか。会津戦争にも参加できなかったこととか。
史実では沈黙されてる人物をよく描けてました。行間を読む感じで。
でもね、やつぱり、
「仕方がなかった」にせよ、やはり胸中複雑なのはこの人だろう・・・と。
で、次に注目なのは、この御方w
山川捨松こと SUTEMATSUです
ま、ほんとに背の高い女性だったみたいだけども。
mother! っていって靴のまま家に入り込んじゃう。
・・・ってここらへんはともかく、英語でしか自分を表現できなくなってた、とかあのあたりは事実みたいでござるよー。最初は山川家の面々と意思の疎通ができなかったとか。
マザーは衝撃をうけております