「憂いの佐倉君」4ー3
2013年 12月 01日そして、この場面。
こちらのほうが先か。
この徳島藩主に預けられたまま、「延宝8年(1680年)5月、4代将軍徳川家綱死去の報を聞き、配流先の徳島で鋏で喉を突き自殺」・・・・。
報われない上様への愛。悲しい。
この元藩主・正信が蟄居している間、佐倉藩主はコロコロかわります。
1661ー1678 松平(大給)家、譜代 6万石 :松平乗久
↓
1678ー 1686 大久保家、譜代 8万3千石→9万3千石:大久保忠朝
・・・というように。
そして、ですよ。
不思議なことがおこります。もはや因縁といってもいいけれど。
堀田正信が自殺したあとも、彼の弟である正俊は連帯責任を負わされることもなく、有力者のままでした。幕府最高位の大老にまで昇進しています。
徳川家綱が亡くなると、次の将軍を綱吉にすると決めたのも、堀田正俊の意向だったというくらい。
堀田正俊:
1歳の時、義理の祖母にあたる春日局の養子となる
1641年、7歳の時、嫡男竹千代(徳川家綱)の小姓に任じられて頭角を現した
1643年、9歳で春日局の孫に当たる稲葉正則の娘と婚約、春日局の遺領3000石を与えられている。
・・・というように、十代になる前からこんなにVIPになっちゃって・・・みたいな華麗なる経歴の正俊ですが、暗殺によって命をうばわれています。
正俊を殺したのは、堀田家にとっては親戚筋にあたる美濃青野藩主・稲葉正休。この人も春日局の一族です。
理由は不明。綱吉が後ろで糸を引いてた、とも。もしくは男色の問題でしょうか?
稲葉正休はよく切れる短刀をなんどもテストしたうえで用意し、江戸城内の詰め所で堀田正俊に声をかけ、呼び止めた後、胸の急所に刀を突き刺すという計画的殺人を犯したようです。
漫画でいえば、江戸君の部屋で、青野君によって、とつぜん古河君がコロされるという事件が起きていますよね。古河君の中の人が、正盛の息子、正信の弟の、正俊なんです。
堀田正俊が何回目かの国替えののち、古河藩に13万石扱いで入場、藩主となってたんです。それで、幕府の重役を刺した犯人・美濃青野藩主・稲葉正休を、その場でメッタ刺しして殺した中に、ちゃんと佐倉藩主の大久保忠朝たちの名前がふくまれていた、と。
ここらへん、うまいこと漫画化してますよね。
佐倉きゅんの中の人はどんどん変更されても、メンタリティは受け継がれているという不思議・・・。
そして、父親を男色がらみの殉死で失ってしまった堀田正俊が、同じく父親を男色絡みの殺人で失った経験のある稲葉正休によって殺されている・・・という恐ろしい偶然。
この話の裏にあるのは、江戸時代初期特有のダイナミックな人間関係なんです。
ちなみに!
家綱は1640年、殉死禁止令を出しています。
正確には、武家の法律書、武家諸法度の中の該当箇所に、殉死を禁止する、と書き加させたんですね。
あと、家綱は髭禁止令なんかも出してます。
正確には髭を生やすのであれば、幕府に届け出なさい!みたいなね(笑