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DVDで最近見た映画:サッチャー、ハルヒ、母なる証明

もはや仕事で映画を観ることは(諸事情で)ほぼなくなってしまいましたが、映画への愛は変わっていないな、と思います。数年くらい前のタイトルを集中的に見ている昨今です。
以前、某映画誌上で評価の高かったタイトルを書き留めていまして。

最近の僕が見て感銘を受けたのは、次の3本

■マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙

初公開: 2011年12月26日 (ニュージーランド)
監督: フィリダ・ロイド
音楽: トーマス・ニューマン 脚本: アビ・モーガン

■涼宮ハルヒの消失

初公開: 2010年2月6日 (日本)
監督: 武本康弘、 石原立也
上映時間: 164分
音楽: 神前暁
原作者: 谷川流

■母なる証明

初公開: 2009年5月28日 (韓国)
監督: ポン・ジュノ
上映時間: 129分
原作者: ポン・ジュノ


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■マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙

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「サッチャー」は、レビューなどからは得た、”政治家として有名になった分、家庭生活がおろそかになり、娘や夫ともスレ違った、いわば「勝ち犬」の中の「負け犬」であるサッチャーが云々”・・・という、ステレオタイプすぎる「社会的に成功して、私生活では破れた女の話」とはまるで違う作品だという印象を受けました。


→「社会的に成功して、私生活では破れた女の話」といえば、「プラダを着た悪魔」。同じくストリープが熱演。



本作のメリル・ストリープは最初の登場シーンでは、これが誰であるかが、色んな意味でわからない老女を演じているんですね。
スカーフを被ってヨタヨタ歩いて卵をグローサリー(街の個人経営のスーパー)で買うその人こそが、かつて鉄の女と呼ばれたサッチャーである、と。
やがてわれわれはそれを、サッチャーを演じる、メリル・ストリープである、とはじめて分かるんです。そこまで自分を殺す、女優としての存在感を消すことが、ストリープにはできるんですねぇ。

最初のシーンで、ぼくはこれが誰か、さっぱりわからなかった。それをもって、ストリープは「グレーゾーン」に生きている老いたサッチャーを表現してるんですよ。
そこだけでなく、まるで演劇の舞台を見ているような演出でした。
彼女が実は「サッチャー」であり、「メリル・ストリープ」であると分かったあとも、病み衰えた晩年のサッチャーは妄想と現実、過去が入り乱れた世界に暮らしており、われわれは彼女が自分自身の過去だと信じている記憶(妄想?)を、映像の中の彼女と共有していくんです。フワフワした浮遊感、ですね。悪酔いに近いような。

庶民出身でありながら、保守党の党首、首相をつとめ、エリザベス二世ともガチンコでやりあったことがあるという英国首相の人生の幻影を追いながら、そこに現代日本に暮らす庶民の自分と被るものがまったくないのに、「ヒトが生きるってどういうことなんだろうか」・・・と根源的な問いがなんども繰り返される・・・そういう内容。
何がどう訴えたのかわかりませんが、気付くと、なぜか泣かされている、そういう作品。

一番自分にとって隔世の感があったのは、サッチャーが父親から受け継いだ、古き良き保守主義哲学を披露するあたりです。個人同士が助け合い(いたずらに保護するのではなく)、個人同士がその成長を見守りあい、そのための伝統的な地域の絆、云々。また彼女を、女として社会的に成功した人間として、その良いところも悪いところも、ステレオタイプな表現ではなく描いていること。
ようやくリタイアして、共に暮らせるようになったとき、亡くなってしまった夫と、自分の妄想の中でだけ、同居できているという設定に、「わたしは伝統的な妻ではいられない!」と宣言して結婚し、大成功を収めたにもかかわらず、サッチャーの中にある悔恨の念みたいなものがチラつくんですよね。それは良いも悪いもなく、もし、別の現実があったのなら・・・と誰しもが思ってしまう、あれです。

よい映画でした。

■涼宮ハルヒの消失

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「ハルヒ」を見たのは、来年から漫画業界に片足つっこむので、その準備運動ではありました。ハルヒたちという「萌えキャラ」のゆるめな日常を描いたと思わせつつも、ハルヒシリーズは実際は硬派なSF作品なんですよ。そういう作品に興味が出た、というのが第一の試聴理由。

ハルヒは自分にはハードルの高い作品で(最初はいったい何がいいのだろう?と思いつつ、テレビシリーズを見始めると止まらなくなってハマッた、「まどマギ」とは異なり)、ほとんど設定もしらず、晴れ晴れユカイっていう曲をキャラクターが踊ってるのくらいしか記憶にすらない作品だったのですが。

それなのにいきなり劇場版を見てしまうのは無謀この上ない行為なのですが、そういう無礼で作法をわきまえていない人間にすら「分かる」ように作られている脚本にまず驚愕しました。

名作とよばれる作品は、すーごい間口がひろいんですね。入り口がいろんな所に、ある。

アニメにありがちな設定もですね、いろんな美少女たちが、平凡な(しかし、平均的資質および平均顔をきわめており、地味なイケメンともいえる)主人公のキョン君に好意のベクトルを向けているわけです、が、そのベーシックすぎる設定を、あそこになるまで広げ、同時に深めて表現できているのか、
と。

さらにこの前、立花隆でも触れられていた「世界の複数性」という概念を、「パラレルワールド」というようなライトな表現には納まりきらないくらい、キッチリと描いていて、「ほぅぅ~~~」と唸りっぱなしでした。

あと、興味深かったのがハルヒやキョンたちのキャラはどう見ても二次元的であり、写実的ではありえない造形なのに、ラストあたり、雪の降るシーンなどでの立体的な印象ですね。

そして長門さんという特異なキャラのつくりこみ方。
この痛切な、いじらしさ、こそ、日本的だと感じました。
いじらしさは、日本人が平安時代から萌えてきた、「らうたし(かわいい)」の必須要素なんですよ・・・・・・

(エヴァンゲリオンの)綾波レイの類似品だろうかと思ってたけど・・・。色んな意味で日本のアニメ表現のひとつの極地ではないか、と。


あと、ハルヒはイメージしていたほど、ドぎつい女ではなかった・・・(笑)
たしかに積極的かつ強引ですが、「嫌いにはなれない」というラインを絶妙に守れているあたり、すさまじいヒロイン力だなぁと感じてなりませんでした。
「ありのままに」、積極的かつ強引なキャラを目指してモテからどんどん遠ざかる、三次元の女たちのシカバネの上で踊る天使なんでしょうね、ハルヒは。




■母なる証明


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韓国って、脚本力でずばぬけた作品を量産しうる国だと思うんです。喩えですが足腰の強い作品ばかり。異なった要素を丹念にまとめあげ、粘り強く、みごとに構築できるだけの熱いパワーがある国。
これらを目にすると、日本の現代の映画は綺麗にまとめてるだけ、のように思えてしまうかもしれませんね・・・。

(ちなみに台湾は詩を、映像で表現する語り口がすごい国)。

同時に、アート志向のある韓国の映画監督って、20世紀も半ばの実験的な映画(ヌーヴェルヴァーグだとか、ニューアメリカンシネマだとか)の鮮烈な映像表現の文法を、現代においても現役で使い続けるだけのとんがった嗜好も捨てていないのです。

・・・で、また「古典の影響」と「自分らしさ」のミックス加減が上手いんですよね。

この作品は、最初の10~20分で2,3回ほど、ギョッとさせられる表現があり、その衝撃は「見るの、止めようかな」と思わせるほどのギリギリの毒味なんですけど、それで脱落せず、見つづけた者を作品世界の沼に引きずり込み、「あ、これがフツーなんだ」と、まんまと思わせ、信じさせるだけエネルギーにもなってるんですわ。

くわえて本作がすごいのは、素材の生かしかた。たとえば、本国でも日本でも客を呼びうる大スターはウォン・ビンなはずです。主人公の母を演じる中年の女優ではなく。でも本作のウォン・ビンは、知的にちょっとアレな息子さんで、演技の方向性としても、あくまで母の助演として「のみ」存在感を光らせている。
フツーならば「イケメン」担当でしかない、ウォン・ビンが「イノセント」・・・と配給会社の公式ページにはあるけど、実際は賞味期限が切れた干物の魚みたいな目でフワフワしてるのですが、そういう役を演じられる可能性をウォン・ビンという美男俳優に見出した監督は偉大であります。

ちなみにはじめて知りましたが、チン・グーという俳優は作品における「暴力」と「性」の担当ですね。つまり、ギラギラとして出てきたら目が離せない何かを発揮しているんですが、こちらのキャスティングも偉大。


話ですが、実はシンプルです。
韓国の片田舎で漢方薬の店と、民間療法(ヤミでやってるハリをふくむ)で生計を立てている母親が、知的に障害のある一人息子にかけられた、女子高生殺人嫌疑を晴らすべく、粉骨砕身でかけずり回って、恐るべき結末に辿り着く、というもの。

詳しくいうのは、ネタバレになるので避けますが(本作は心理サスペンス)、現代日本では映像化ができない「やばいもの」がこの映画の中には、「フツー」に流し込まれているのに驚きます。

あまりに「フツー」にそれらが描かれてしまっているから、しれっと見てしまったあとに、どんどん違和感がふくらんでいく後味の悪さが圧巻。しかも後味の悪さと同時に切ないなぁ、なんて思っちゃうわけですよ、この主人公である「母」に対して。

だから邦題の「母なる~」と聞いて、知的にちょっとアレな息子さんを守ろうとして戦うオンマ(韓国語でいう母)の無償の愛たる母性の姿を期待してると、まったく「なんじゃこれ」って気持ちになるのは請け合いです。

この映画のテーマは「禁忌(タブー)」そのものだからです。

ポン・ジュノ監督は、ロシア文学の愛読者ではないですかね。血縁の方にトルストイの小説の書評なども書いたというヒトがいるみたいですが、彼の作風からはゴーリキーとか、ドストエフスキーの「どうしようもないから笑う」というニヒルなところが感じられてなりません。
by horiehiroki | 2014-12-26 10:09 | 映画