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fantôme

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やっぱり宇多田ヒカルは天才だなぁ、と。
名実ともに「復帰作」なんですが、彼女の「音楽」はアルバムを出している・出していないに関係なく絶え間なく続き、深化しており、人生そのものが「音楽」な人であることを痛感しました……。
共演してる人たちは椎名林檎以外はぜんぜん知らなかったけれど、新しい才能が日本に生まれて育ってるんだなぁということ。それ以上に「オトナになった」とか「頭でっかちではなく、”肉体的”な音楽になった」との評があるようですし、宇多田さんもそれを喜んでいるようですね。

自分の感想はそれを否定するものではないけど、過去の作品以上に通しで聞いてみると大きな喪失感を感じる……なにかぽっかり穴が空いてしまうかのような、ぜんぶ持っていかれてしまう感じがありました。心臓の鼓動を意識的に摸しているかのような打ち込み音、あるいは楽器音をベースにした曲が多い印象もあるからか、おどろくほどに情念的な音楽たちです。

それは単純に「道」ではじまったのに、「桜流し」で終わってしまう印象ゆえではないですね……。
桜流しはエヴァンゲリオンの劇場版のラストに流れた時から力作だと感じていましたが、アルバムの中に収めて、はじめて価値が分かった気がします。


「道」にせよ「ともだち」にせよ、テレビで実演の映像を見た時、テロップで出る字幕にあまりに月並みさを感じてしまって「?」だったんですが、目で入る情報と耳の情報はまるで「違う」印象でした。
ブログにも貼り付けましたが、当初、アルバムのジャケが公開され、その”ブレてる感じ”とあいまって「どうなってしまうんだろう」とも思ってましたが(たとえば・・・過去の名作「DEEP RIVER」では恐ろしいくらい・・・まるで毛穴までフォーカスされてるほどのハードなフォーカスで撮られてれてました。よほどその時のカメラマン=先夫さんに信頼がなければ出来ない行為ですよね)

音楽劇場(ムジークテアター)という概念が現代音楽にはあるんですが、いわばまさに本作はそれ。
音(と歌詞の響き)だけでここだけ人間の深淵を語りうるのか……ということには驚きました。
by horiehiroki | 2016-09-28 20:14 | 音楽 | Comments(0)

昨晩は、武蔵野までアンドレアス・シュタイアーのピアノを聞きにいってきました。第一曲がバッハの『平均律 第一巻』から、ハ長調の前奏曲とフーガだったのですが、これが音楽の輪郭線がぼやけるほどにペダルが多用された、滲んだ水彩画のような……古いレコードでしか聞けないような古風で、ロマンティックな響きですらあったんですね。
ビックリしました。
最初は違和感しかありませんでした。彼がものすごくピアノのペダルを踏みまくるのには……。

シュタイアーといえば基本的には、古楽の演奏家です。
古楽とはだいたい19世紀半ばくらいまで(場合によっては20世紀初頭あたりまで)の音楽を、それが作られた当時のイメージを生かして演奏する(=ピリオド奏法)というスタイルです。
ピリオド楽器・時代楽器ともいわれる、18世紀とか19世紀の当時の楽器をつかって演奏しなくても、ピリオド奏法さえあれば、古楽は実現できる……というようなことをアーノンクールという音楽家は著書で熱弁していましたし、実際に、モダンピアノでバッハやモーツァルトといった古楽の時代の作曲家の演奏をするとき、モダンピアノを専門にしているピアニストは、ペダルの使用をごくごく限定的にし、響きを研ぎ澄ますようにして演奏します。

それが現在の標準的なスタイルとされているからです。もはや誰もそれを疑うことはないと想うほどに定着していると思います。
僕の記憶ではだいたいモーツァルトイヤーだった1991年あたりから、日本にも浸透しはじめた感覚がありますね。
わかりやすくいえば……あのグレン・グールドがバッハやモーツァルトを弾いた時みたいな、純水みたいに澄んだ響きですね(ちなみにグールドは古楽の演奏家風に装飾音などをバンバンいれたバッハを録音していますが、実際のところ、学術的な裏付けはない、そうです。専門家の方に以前、うかがいました 笑)

しかし、20世紀初頭の演奏家はまったくその反対の音楽を志向、ロマン派の曲を弾くときも、古典時代、バロック時代の曲を弾くときも、ペダルを多用して演奏していました。ペダルという装置をつかいこなしてこそ、モダンピアノという楽器をつかいこなしたことになるという考えでしょうか。

なお、古楽的なスタイルで、古楽時代の音楽を弾くようになったモダンピアノのピアニストとして、一番最初に名前を思い出すのは、アンドラーシュ・シフです。シフは、とにかくペダルを使わないことにコダわりを感じて演奏していた時期があります。また、モーツァルトの時代のピアノで、モーツァルトのピアノ三重奏曲を録音したCDなんかもありましたね。

一世風靡した(?)、シフによるスカルラッティのソナタの演奏は東京オペラシティで実際に聞きましたが、氷で出来た彫刻みたいなイメージの音楽像は生まれて美しいものの、純粋すぎて退屈というか、わざわざ現代のピアノでやるべきものなのか、ペダルを封じることで、去勢された音楽になってはいないか……というような違和感をあらためてもったのもまた事実です。時間はすぎていってるんだけど、音楽が流れていない感覚。

ペダルを多用した場合としない場合では、CDなどを聞いていても、ハッキリ、音のつくる像の違いがわかります。最近の演奏家の奏でる18~19世紀の音楽は澄んだ響きの端正さが第一のウリだったので、てっきり、シュタイアーもそういう音楽をさらに冴え冴えと奏でるはず、と勝手に思い込んでいた自分は、にじんだ水彩画のようにまじりあう響きのバッハが聞こえてきた時点で驚愕したわけですよ。

今回はモダンピアノのリサイタルということでしたが、1980年代前半には、古楽オーケストラ所属のチェンバロ奏者として頭角をあらわし、あれは90年代末~2000年代はじめごろだったでしょうか、バリトン歌手・プレガルディエンとのシューベルト「冬の旅」の録音では、フォルテピアノを弾いて、詩の世界を表現する歌い手とはまったく別の方向から歌曲の背景に迫った切り口で、われわれを唸らせたシュタイアーの音楽には、基本的に「鋭い」「知的」といった要素が必須だと思っていたので。

……ペダルの話しばかりしてすいませんが(それだけ僕には衝撃だった)、シュタイアーは他のモダンピアノの演奏家が非常に気にするであろう、踏んだペダルを上げる時のアクションにも比較的無頓着で、こちらも二重にビックリ。けっこうな頻度でペダルをもちあげた時のノイズ音が微妙にいりまじり、「~~~~うぁん」みたいな響きがしょっちゅう聞こえました。本来これは、ポジティブに「味」というべきものより、演奏ミスの一種かもしれません。
おそらく、ですが、これはモダンピアノを弾いた古楽奏者としての美学だけでなく、不調というようなことでもあったと思います。休憩挟んだ第二部では、より表現の精度が増して、音楽の表情もより晴明なものに変わっていたのですが、この手のノイズは少なくなっていたので。

(すくなくとも)シュタイアーは、機械のように精密な弾き手というより、自分の感性と手指をいちばんいいカタチで響き合うまでに時間がかかるタイプの……いわばロマンティックなタイプの演奏家だったのかもしれないなぁとも思いました。

もともとチェンバロやフォルテピアノといった楽器を、聞き手はつねに触れているとは限りませんから、自分の身体感覚や演奏スタイルとハッキリ比較して聞くことはできません。しかし、シュタイアーがモダンピアノを弾いてくれたおかげで、彼は実はバリバリと鋭利に奏でるタイプというより、リッチでロマンティックな響きを嗜好する(しかしリズムには一定以上のコダわりがある)……そんな音楽家だったのかな、というようなこともわかりました。最初は面食らいましたが、いわばシュタイアーという芸術家の見取り図を得ることができたよい機会だったと思います。

シュタイアーはモダンピアノを弾くときも、われわれが最初にピアノの先生に教わったように、ミカンを持つ時みたいな少し丸めた手を徹底して続けており、鍵盤を掴み取ろうとするようにタッチを繰り出します。それはバッハもシューマンも同じなんですね。

さて、ペダルの話だけでなく、今回のリサイタルが面白かった点ですが、バッハの平均律からの数曲にくわえ、ロマン派の作曲家であるシューマン、メンデルスゾーン、そしてブラームスによるバッハへのラブレターともいうべき小品群がメインとして演奏されつづけました。いわゆるピアノソナタのようにフィナーレにむかって突き進み、開放感のある終わり方をするタイプの音楽ではなかったので、論文発表を聞いているような気にもなりましたが、興味深かったです。
音楽は、古典派、ロマン派と時代を下るごとに、何かに刺激されてうまれた感情を表現するツールとなっていきます。しかし、今回、シュタイアーの奏でるバッハの作品を聴いていて、バッハの音楽は感情を表現する以前に、人間に感情を生起させるシステムそのものなんだ、小さな世界そのものなんだ……ということに気付きました。

バッハの到達した音楽の高みに迫れたのは、ベートーヴェンでしょうか。彼もまたフーガという形式の天才で、まったく違う高い到達点を築き上げました。ベートーヴェンがもしいなければ、バッハのフーガを生き、愛し、死んでいく人間の目線で解釈したモーツァルトの作品もひとつの大きな到達点だったといえるとおもいます。モーツァルトがこのジャンルで損したのは、ベートーヴェンの高みの影にどうしても埋もれてしまうからでしょうかね。

今回おもしろかったのは、ロマン派の作曲家たちがバッハ作品にいかに影響され、それへの愛を訴えたかがわかるだけでなく、ロマン派のバッハに影響された作品があるからこそ、われわれのバッハ像もまた変化しうるのだ、という事実ですね。つまりは一方的なバッハへの片恋ではなく、演奏家の存在をえることで、作曲家同士が時をこえて通じ合い、円環を描いて、交流し合い、刺激しあっている……。
そんな様を、シュタイアーによる「これはフツーのピアニストはこういう風には絶対弾かないだろうな」というユニークな演奏を通じ、頭の中で想い描いていました。
現在が、過去を変えうる、という。



by horiehiroki | 2015-05-12 10:11 | 音楽 | Comments(0)

新しい仕事につかうため、クラシック音楽に関する知識やセンスをブラッシュアップしています。
そういう意識で聴くと、日々の演奏会の内容も、また一味ちがって聞こえてくるものです。
先日、プロメテオ弦楽四重奏団の演奏会に三鷹まで家族で行ってきました。


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※演奏会のレビューだけを読みたい方は、後半の赤字部分をごらんください。ひと言でまとめれば、良い意味でイタリア・オペラの舞台に接しているような気になりました。


前半はベートーヴェンの弦楽四重奏曲13番、OP130。
例の「大フーガ」なしのバージョンでの演奏でした。

普通は第四楽章で終わるところの音楽が、第六楽章まであり、その
第六楽章=フィナーレが、全曲の要素をとかしこんだ、15分にも及ぶ巨大なフーガ・・・という、形式的に相当がんばっちゃったんですね。フーガってもバッハみたいにフーガだけをやってるわけではなく、フツーに和声的な部分が出てきたりもします。そのミックス加減が・・・まぁ、こういうこというと信者にはおこられるけど、ベートーヴェン先生の脳内では完璧に融合されてるんだけど、アラあらフシギ、それを実演すると、どうもなんか違うって空気がぷんぷんと漂っちゃうアレなんですわね。

晩年のベートーヴェンってフィナーレのために全ての楽章を、書いてってますよね。それが成功したのが第九のフィナーレです。フィナーレ以外はぜんぶ序奏、的な位置づけです。マーラーもそういう贅沢な時間の使い方するところありますけど。

・・・でこの大フーガは音楽的に至高の高みを実現しており、けっして失敗などではなかったけど、リスナーにとっては「もう、やめてください」といわざるをえない、重量級の音楽だったのですね 
もう満腹で苦しいのに、ドサーってでかい肉がメインとしてサーブされた瞬間のような「もう手におえません」で溢れた感じをご想像くださいませ

これ、19世紀だけでなく21世紀の聴衆の耳にとっても同じってところが面白い。
もともとベートーヴェンの時代にアレをまともに演奏できる団体ってきわめて少なかったはずだし、・・・今、その「大フーガ」をアルバン・ベルク弦楽四重奏団で改めて聴いてますが、演奏技術自体は進歩しても、聴取の技術というかセンスというのはあんまり変わらないものなのかもしれません。

何を言いたいのか、ひと言ではいいきれない複雑な音楽であります、大フーガって。

こういう、手間暇時間かかるのに反応がイマイチな音楽は、廃れます(w

たぶんこういうのばっかり書いてて、第九を書いてなかったら、ベートーヴェン先生って知る人ゾ知る、的な立場にオトされてたかもしれませんねー。

そもそも

さすがのベートーヴェン先生も
渾身こめて書いたハズの「大フーガ」のウケがあまりにわるかったため、
フィナーレを改作せざるを得なくなったという逸話つきの作品です。


その後、作品番号をつけて、独立させたわけです

遠しで聴いて、なんであの作品の最後にこの大フーガが必要なのか・・・を
作曲上の要請というか、作曲家の願いを抜きにして考えると、
改作されたフィナーレのほうが、演奏する立場&聴衆には意味深いですね。
・・・とはいえ、ベートーヴェンは対位法の作曲家としてバッハにならぶ高みにまで、キャリアを極めた男ですし、彼はもともとすべてはすべて、フィナーレのためにある・・・という作りをOP130という楽曲において試みています。主題が発展していくフーガ・・・ってあるいみ、伝統的な作りではNGっていえばNGなんですけど、ベートーヴェンはソナタが完成した時代の、対位法作曲家ですからねー。

とくに後半の「死と乙女」は新鮮でした。

第二楽章はシューベルトの歌曲「死と乙女」の旋律が変奏されていきます。最初はまるで古びたパイプオルガンみたいな響きだと感じます。いつも。

それを狙って書かれてるのだ。

しかし、こちらも演奏が進むほど、異様なテンションと熱を帯びて、死の向こう側の世界がせまってきます。・・・といっても「大霊界(古語)」ではなくてですねw、あの第二楽章を聴いていてぼくが感じるのは、ゴッホの最晩年の作品群です。何度か書いたこともありますが、こういう渦巻く空を見てると、ゴッホは狂気に陥ったのではなく、理性の向こう側・・・それは歓喜に満ち満ちた世界・・・にいく扉と鍵を見つけてしまった・・・と。


しかし、炎に飛び込んだムシが死んでしまうように、生身の人間であるゴッホの身体は滅してしまわざるをえなかった、と。

シューベルトもまた、若くして向こう側の世界の歓喜に触れる特権とひきかえに、命をすりへらしていった人のような気がしてなりません。

・・・・・・で、それをツラツラと書くのは、このプロメテオ弦楽四重奏団の演奏が、月並みな「悲愴さ」といった次元を超えた自由闊達な音楽で、それにすごく感銘を受けたからです。
家族も一緒だったんですが、こんな死と乙女はこれまで聴いたことがない!と感動していました。

プロメテオ弦楽四重奏団はチェロの方が音楽的にも「攻めていきます」。ネットで死と乙女の録音を探していても、めったにロクな演奏に出逢えないのは、要するにこの曲が難しいからです。
マーラーがこれを弦楽オーケストラに編曲しているのも、みんなで渡れば怖くない(=技術的なアラが目立ちにくい)という側面があったんでしょうね。
1950年代の録音でもかなりポンコツで音楽が壊れてるモノがたくさんありました・・・。
でもプロメテオ弦楽四重奏団はラクラクとこの曲をこなしてしまいます。
それも今や旧世代になりつつある「鋭い」・・・ハーゲン弦楽四重奏団のアプローチのような厳格さを売りとするのではなく、18世紀っぽい装飾音を加えたり、創意工夫に満ち満ちているんですね。
結果、楽想ら悲劇神話というようなものは消え去り、ただただ、音楽の凄さだけが伝わってくる・・・と。

どうじに第二ヴァイオリンの方(いわば「シェフ」らしい)は、全体の響きをよく聴いて、構築していくことに全てを費やしています。第一ヴァイオリンよりも目立ってやるぞ!!というような変な、しかしありがちな野心はなく、彼の関心はヴァイオラと協働し、いかに内声を充実させるかに尽きているようです。
こういう徹底した役割とキャラクターの配分、ミックス加減が、この弦楽四重奏団の最大の魅力だと思いました。
また機会あれば聴いてみたいものです。





by horiehiroki | 2014-09-22 10:00 | 音楽 | Comments(0)

Ryoko Classics

森山良子の「Ryoko Classics」ってアルバムがすごくよかったです。

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彼女自身の曲のオーケストラ編曲(渡辺俊幸さんのセンスがすばらしい)、クラシックの曲あるいは映画音楽のメロディに彼女が歌詞を乗せたもの、原曲・原歌詞 & 「翻訳」で歌うものなど、すごく多彩なラインナップ。

とにかくうっとり、美しいのです。
外国のメロディだけど、森山良子の日本語を載せると素晴らしく輝く瞬間もあってね。


あと森山さんは日本語をすばらしく美しく響かせる。それに比べると、逆説的な云い方だけど、「日本語がうまい」日本の歌手って減ったなぁっておもう。歌詞がハッキリ聞こえるとかそういう段階の話を通り越した、感覚の問題ですが。
森山さんはその点、美空ひばりクラスではなかろうか。…

歌詞がない曲も収録されています。
ラフマニノフの「ヴォカリーズ」が出色の出来だった。ヴォカリーズとは母音(アとかウとか)だけで歌う、いわばスキャットみたいな曲…。
そういえば、BSの番組で由紀さおりとのデュオコンサート見たときも感じたのだけど、「夜明けのスキャット」を本家以上に彩り豊かに歌ったのが森山良子でした。

by horiehiroki | 2014-06-11 22:22 | 音楽 | Comments(0)

エフゲーニ・キーシン

武蔵野までエフゲーニ・キーシンの演奏会にいってきました。
実は10年くらい前にも実演に接しており、その直後にも一回、外国で聞いたかな。
国内では10何年ぶりに彼の演奏会に行ったのですが、
芸風…というとアレですが、作風が変わった!という印象を受けました。

プログラムは以下のとおり。


シューベルト:ピアノ・ソナタ第17番 二長調 Op.53/D.850

(休憩)

スクリャービン:ピアノ・ソナタ第2番「幻想ソナタ」嬰ト短調 Op.19
スクリャービン:「12の練習曲」 Op.8より
          第2番 嬰ヘ短調
          第4番 ロ長調
          第5番 ホ長調
          第8番 変イ長調
          第9番 嬰ト短調
          第11番 変ロ短調
          第12番 嬰ニ短調「悲愴」



パンフレットには赤川次郎さんの「キーシンさんおかえりなさい」などと題する文が載っていて、何時聴いても、安心してキーシンのクオリティは楽しめる・・・というような内容だったと記憶します。
・・・が、今回聴いて感じてしまったのは、そういう「キーシンらしさ」から彼が脱皮しよう試みてるのではないか・・・ということです。

10何年前のキーシンが、24の前奏曲やら葬送をサントリー・ホールで弾くのを聴いた時にも思ったのですが、かつてのキーシンは「完全な音楽」を常に実現する人でした。端正で美しい、王道の巨匠の音楽とはこれだ、という弾き手の見本みたいな。

それゆえ「本編」の完全無欠な音楽と、勢い重視の「アンコール」の自由さとでははっきりと線引きが出来た記憶があります。

ところが、今回のプログラムは見ただけでも意欲的であることがわかりますよね。
逆にいうと玄人受けねらい、というか。大衆受けしないというか。

そもそもシューベルトとスクリャービンを合わせる人は少ない。
これ、フツーのピアニストがやったらお客が入らないと思うんですよねー・・・・・・というような会話が会場のあちこちから聞こえましたが、実際のところ、キーシンがなにをやりたいのか、なにをきかせたいのか、どういう方向にこれから進化していきたいのか・・・がハッキリとわかるプログラムだったんだな、と、終わった今、痛感しておるところです。

まず音色の探求ですね。
彼には抜群のテクニックがあり、端正な美音、さらにはもっとも美しいメロディラインを音のカタマリの中から掘り起こす頭脳、才能に長けています。
音の運転マップがアタマのなかにぜんぶそっくり入ってる人ですわ。

だから複雑な音楽であればあるほど、キーシンらしさは際立つんですけれど、あえてそれをシューベルトにぶつけてみたんですねー。
これまで完全無欠であることを最重視した作りの音楽から一歩離れて、今、その会場でしか弾けない音楽をつくっていってるイメージがありました。

なんとなくですが。

なんかね、同じ武蔵野の大ホールで何度もリサイタルを開催してたんですが、ついに今回はチケットがなかなか売り切れないんだー、このひとーって思っちゃった、あるピアニストがいたんですけど(「巨匠」枠の人)、彼なんかは何時聴いても「同じ」なんですよね。どこで、いつ聴いても完全に同じ。上手いんだけど何回か聴いたらもうよろしいわ、みたいなことみんな思うんだな、と思っちゃいました。

で、キーシンに話もどりますが、
シューベルトの17番って音楽の評定はひじょうに単純明快でシンプルなんだけど、左手と右手の「対話」は複雑で、そこら辺のギャップをいかに音楽として聴かせられるかが勝負だと思います。
わりと苦戦してるのかしら、と思うところもありました。意外にも。
じゃっかん第一楽章、第二楽章ではコントロールが出来てないところがあって、「?!」と思ったんですが、第三、第四楽章と音楽がすすむにつれ、方針を変えたのかな・・・と思い始めました。天才も試行錯誤するんですねぇ。

そういう意味で、従来の「キーシンらしさ」が発揮されたのはやはりスクリャービンだと思います。
会場のウケも抜群でした。
第二番のソナタは正直いって、美しいメロディが膨大な数の音符の中に埋もれて響くように弾かれることが多いのですが(それゆえまとまってない印象を与え、CDなんかでは続けて収録されてる第三番のソナタで、「あー第二番でいいたかったことがやった言えたね?」なんて印象をあたえがちなんですけど)、キーシンの場合はそういう散らばった音符と音符をつなぎ合わせて、一本の線をつくりあげていくだけの構成力があるのですよ。
そこらへんはものすごいし、過去においても、未来においても、彼以外、誰にもまねできないと呻らせられました。

さらにおもしろかったのはこれまでの端正な弾き方以外に、ビックリするくらいに自由な指の角度で鍵盤を叩いたりして、「新しい音」を追求していたところですね。
オーケストラでもモーツァルトの音、シューマンの音、そしてマーラーの音ってあるんだけど、ピアノではそこまでの違いを出すことは難しいかもしれない。
ショパンでもなくリストでもなく、スクリャービン、それも初期のスクリャービンの音。
キーシンはそこら辺にもチャレンジをしてるのかなー・・・とも思いました。

スクリャービンの練習曲の第8番 変イ長調はシューベルト風でしたし、同じくスクリャービンのソナタ第二番の左手と右手の対話なんかも、前半のシューベルトのソナタの一部で「予告」されてたわけで、スクリャービンってよくいわれるようにショパンやらリスト以外の残響なんかも感じうる音楽かもしれませんね。

アンコールの第一曲として「シチリアーノ(ケンプ編?)」が弾かれたんですけど、彼がシューベルトで表現したかったこと・・・ってほんとうはバッハ(それも出来たら編曲ではなくて、バッハの音楽そのもの)でしかできないんじゃないかな・・・と思ったり。でも21世紀の音楽事情、そして今のコンサートホールでは「難しい」かもですねぇ。

アンコールの第二曲は、8つの練習曲~.嬰ハ短調,Op.42-5
これは凄まじいです。音符の量が!
自分でも弾いてみようと思ったけど、読譜すら困難(w
大好きな曲ですけれど、メリハリのある音楽としてこれを実演で、しかもキーシンの演奏で聞けたのは幸せでした。

アンコールの最後の最後は大サービスで英雄ポロネーズ。
近年めずらしい勇壮なポロネーズでした。リズムにすごくコダわりのある、男っぽい華やかさのある演奏でしたね~。
全体として、19世紀生まれの巨匠が”完璧”に演奏できたら、今のキーシンの作風に近いんじゃないかな・・・とも思いました(笑







by horiehiroki | 2014-04-23 01:06 | 音楽 | Comments(0)

雨の武蔵野まで、マルタ・サバレタのピアノリサイタルに出かけてきました。雨でも吉祥寺からバスに乗ると楽かも。
コンサートで聴くのは珍しい演目だったので母子で行きました。

演目はスペインの作曲家・アルベニスの「イベリア組曲」。

アルベニスはドビュッシーなどと同時代人といえばわかりますか?

1906年に亡くなったというのが信じられないくらい、ときどきモダーンな響きの音楽です。リズムも複雑だし、なによりドビュッシーやラヴェルなどよりも音楽のテクスチャが濃密です。

ドビュッシーはやはりラテンでも北に位置するフランスの作曲家です。もうすこしラヴェルは血統的にもスペインよりかもしれないけど、それはリズム的な意味で、色彩的にはやはりほの暗い。彼の代表作、「夜のガスパール」なんかを想像してみてください。

やはりフランス組とスペインの作曲家・アルベニスの徹底的な違いを感じさせるのは「色彩感」です。

たとえば「イベリア組曲」では、オレンジ、黄色、それから白・・・みたいな光の要素が何種類もの音色の微細な違いで表現されているように感じます。
そういう意味でもアルベニスの色彩感、色彩に対する感受性は、フランスの「印象派」の音楽家より、かなり複雑だと思います。

ドビュッシーはこの(組曲のうちのある)曲について、「音楽がかくも多様な表現に達したことはなかった。あまりに数多くちりばめられた映像に目もくらむばかりだ」と述べている。

・・・とウィキにもありますね。
フランスの印象派を圧倒、ですわ。

アルベニスの才能はメロディの扱いにも顕著です。本当に特筆すべきはそれです
基本的にボンヤリとした和音が重なっていく「だけ」・・・という印象のつよいドビュッシーなどはモダーンな印象があるかもしれません。
それにくらべると、アルベニスはメロディラインがかなりハッキリしています。
でもそのハーモニーとか響き、メロディライの有無ってあまりモダーンさとは関係ないんじゃないか。……とも思うんですよね。
だから21世紀の音楽家(の卵)はこういうモダーンの在り方もあったと学べばよろしいかもしれません。


それでマルタ・サバレタさんの演奏ですが、よかったんです。
すごく。

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ご本人も、フラメンコドレスを模した赤と黒のステージ衣装がオシャレでした。
さらに、彼女の師匠にあたる、スペイン音楽のスペシャリスト、ラローチャの録音した「イベリア組曲」に比べても、遜色ないというか・・・・・・・恐れずにいうと、師匠以上に弾きこなしていたと思います。
ラローチャは疑いようもなく天才ピアニストですが、とても背がひくく、手も小さな人です。
アルベニスのこの曲は高い技術力が必要です。それも基本的に手の大きな、一般的に体力に富むとされる男のピアニストでもいっぱいいっぱいのテクニカルな音楽のはずです。

第1巻、第三曲の「セビーリャの聖体祭」なんかはとくにラローチャはアップアップしてる~ってのがミエミエの場面があるんですが、そこらへんも難なくクリアしてるのがサバレタ。

イベリア組曲は描写音楽でもあるんだけど、そういう絵画的な部分を音楽の多少の破綻は恐れず、ラローチャは強調します。それに対し、サバレタはメロディも和声もリズムも、すべてを束ねた一つの線としてとらえ、それらを調和感をもってまとめ上げていました。すぐれた譜読みと技術力あってこそのあの演奏だと思いました。

彼女の描く「イベリア」にはいかなる破綻も生じません。ようするに一本の「線」の美をきわめるサバレタに対し、世界のざわめきをかんじさせる「空間」の美を追究してるのがラローチャだともいえますね。

一般的にピアニストの間における、世代交代と技術力の進歩、ということも見逃せないポイントだと思います。
新体操にしてもスケートにしても、難易度の高いワザが大会ごとに「こなせて当然」の何かになっていく傾向ありますよね。

これは音楽の世界でも同じです。

しかし逆に言えば、アルベニスの音楽は、この曲が作られた時より、100年以上たった現代のほうが、よほど理想的なカタチで演奏されている・・・・とも言えるのが興味深く感じた一夜でした。



by horiehiroki | 2014-04-04 12:09 | 音楽 | Comments(0)

アンサンブルについて

先日、興味深い室内楽のアンサンブルに接することができました。
良いところだけでなく、悪いところもあるので、実名を出すのは控えますが、すごく色んなことを考えさせられたんです。

モダン楽器のアンサンブルなんですけど、古楽の楽器(オリジナル楽器)の響きのように、ピアノ、チェロ、ヴァイオリンの響きが溶け合ってるんです。良い意味でも悪い意味でも。

古楽器を使った室内楽の演奏(曲はシューベルトの「死と乙女」の第四楽章)

モダン楽器(クラシック音楽で普通に演奏されてる楽器)での演奏。四楽章は25分52秒あたりから。

後者は泣く子も黙る名弦楽四重奏団、アルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏です

ね、同じ曲でもまったく違いますよね??

響きの感じが。前者はお互いに響きが埋没してるのがよくわかる演奏をヨウツベで拾いました。
単純に往年の、黄金時代の、アルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏のほうが優秀だ、とか言いたいわけではないんですw


ちなみに、世界には”ストラディヴァリウス”や”グァリネリ”といった製作者の名前(あるいはそれから取られた)名称で呼ばれる、生まれて何百年も経過したヴァイオリンが存在します。
いくら古くても、楽器を鳴らすのに必要な部品を取り替えてしまうと、モダン楽器として扱われるルールがあります。また、響きも古楽器とは大きく異なるのです。

それらもすべてが”オリジナル”のままだと、はじめて”オリジナル楽器(=古楽器)”となるわけです。

ぎゃくにいえば、昨日完成したばかりの楽器でも、オリジナル楽器の造りを正確に摸倣して作られた楽器は、古楽器になるのです。


さて、話がずれました(クラシックって”常識”がいっぱいあって、それを説明するのに一苦労ですね)


最初はその新鮮さに驚きましたが・・・それって、全員の個性や感性がすごく似てる、似すぎてるって何よりの証明でもあるんです。

たとえば、普段はソロをやってる、アクのつよい音楽家が、室内楽のアンサンブルをしても、相手の響きを自分の響きでねじ伏せるというか・・・プロレスみたいになってることあるんですね。

今回はその真逆。お互いの響きを尊重し、上品この上ない音楽の織物が築かれていくんだけど、何かが足りない。徹底的に。

経歴をみたら、みんな幼なじみで、上流階級の方々でした。ああ~と思いました。

理想の「チーム」を作る時と似てるな、と思いました。
個性や能力の方向性がちがう者同士が組まないかぎり、チームの威力は発揮されない。

アルバン・ベルク弦楽四重奏団も最近、第一ヴァイオリンに、若い、アジア系のヴァイオリニストを迎えて、一気に響きが変わりましたし。

チームって異質な者同士が組むことがいちばん、大事なのかもしれません。
ケンカ上等で。
良く考えたら、優秀な人間ほど、1人でだいたい全部こなすことができるんですもん。
その上で誰かと組む意味を考えないとね。

まあね、室内楽は、1人ではできませんが(笑



by horiehiroki | 2014-02-18 10:39 | 音楽 | Comments(0)





佐村河内 守は、作曲家とされていた日本の人物。自称聴覚障害者。広島県出身。2014年2月5日、自作としていた曲がゴーストライターによるものと発覚した。


ウィキペディアはこんな紹介文に改変され、ついで


佐村河内 守は、作曲家とされていた日本の自称音楽プロデューサー。広島県出身。


ということになっています(2月8日未明)。


音符が(様々な意味で)読めず、自身は作曲しないが、
(プロデューサーとして参加し)自分の名義で楽曲を発表したい・・・という欲求は音楽愛好家には多々あることですよね。
1791年、モーツァルト最後の作品になった「レクイエム」もそういう経緯で作曲されました。
その年に愛妻を亡くしたヴァルゼック伯爵が自分の名義で曲を発表したいとして依頼してきた、と。
ギャラは、モーツァルトのヒット作のオペラ「フィガロの結婚」で稼いだのと同じくらいだったそうな。
つまり、大金です。
ところが途中でモーツァルトは亡くなり、彼の妻が作品を弟子たちに頼みこんで「完成」させ、ヴァルゼック伯爵に納品したようです。


でもこの楽曲はモーツァルト作品として1793年1月に、モーツァルトのパトロンの御屋敷で初演されています。

一方、ヴァルゼック伯爵名義のレクイエムとしても同1793年、ウィーンの教会で演奏された・・・・と。

契約書どおりに動いていないので、現代なら故・モーツァルト側が訴訟されたら負けますが。

いくらモーツァルトのレクイエムが名作であったとしても、録音ができず、またインターネットなども無い時代ですから、「どっかで聞いたことがあるかもしれない」程度で済んだのかな。

・・・・・・というように現象自体は多々あることです。

でも一番の問題は、モーツァルトの死語も、また20世紀がおわっても「クラシック」というジャンルは細々と生きながらえているのだけど、フツーにいいものをつくってフツーに売っても、「売れない」という現実なんですね。
これはクラシックどころか、「あまちゃん」でも出てきたように、ポップスとかアイドルのジャンルでもおなじ。

クラシックの場合、一番に問題の原因として考えられるのは、20世紀に吹き荒れた、現代のクラシック(言葉の時点であやしいが)として、「現代音楽」なるジャンルが「わたしこそが正統」とする伝統を創り上げてしまったことでしょう。

「現代音楽」は、同時代に存在するあらゆる音楽の中で、自分たちがもっとも正当であり、正統であると主張していました。
のみならず、あらゆる因習を否定して・・・云々と肩書きとか口上だけは立派でした。

音楽としては、聴覚の冒険としてはおもしろい試みだったとはおもいますが、あれにはお客は着いてこない。

そのくせ、排他的かつ権威主義的なところは伝統的なクラシック音楽そのものでしたから。

けっきょく、例の「作曲家」の人も、そういう象牙の塔の内部の腐敗に憤ったんでしょうかね。

原点としては。


ここでモーツァルトを再び引き合いにだしますが、彼の場合、あるイメージが頭におもいうかび、それを楽譜に直すという作業が非常にスムーズだったのだと思います。

ところが、それは音楽教育を専門的に受けたヒトだからこそであり、例の作曲家の人のようにイメージはあっても、それを実在する音に直す・・・・にはとにかく手間暇時間と高度な専門教育が必要なんです。

それこそ、医者がオペ出来るようになるのに時間がかかるのと同じ。

どうじに才能というファクターもあります。
作曲家というのは実在する音を操れるかどうかです。
自分のメロディを形にできない、プロの作曲家だっているんです。
音符が色んな理由で読めない例の人だけでなく。

ソ連時代、プロコフィエフは他の芸術家たちと同じ集合住宅にいました。
ある作曲家の家の横を通ると、毎日同じメロディをひくピアノの音が聞こえてきて、その家主が、メロディを発展させられないというのがアリアリと感じられたのだそうです。
プロコフィエフは、あまりに進展性のない、その作曲家の苦吟に付き合いかね、ある日、とうとう彼の家を訪ねました。
そして解決策を出してしまった・・・とか

さらにさらにモーツァルトを引き合いにだします・・・・といってもこれは映画「アマデウス」のモーツァルトですが、あるシーンでサリエリが、皇帝に捧げる楽曲をピアノで弾いています。思ったるくて堅苦しいだけのダメな音楽です。
ところが、それを聞いたモーツァルトが「ぼくに貸して」、と。
ピアノの前でその楽曲をちょいちょいっと直していくわけです。
下らぬ旋律が、「フィガロの結婚」の名旋律に変わっていく・・・・というね。
凡庸なる者の誇りを、神に愛された天才がなんの悪意もなく踏みにじっていく、鮮やかなる場面です。

要するに、全ては技術の問題なんです。

昨晩の毎日新聞に、作曲家が全人格をかけて向かい合う交響曲(という神聖な音楽ジャンルを)を他人にまかせておいて発表するなんて!みたいなある作曲家の声がのってました、が、
自分のイメージを自分で表現するより、信頼できる他の人に任せたほうが自分らしい作品ができると考えた「大作曲家」だっているんですよ。
たとえば、ドビュッシー。
彼にはたくさんのオーケストラ曲はあるけれど、四曲ほどをのぞいてその大半が他人の手による「オーケストラ編曲」です。しかもそれでも未完になってたり。

実は耳が聞こえたらしい例の人のように、旋律を聞かせて承認をえて・・・というようなことがあったんでしょうね。

あとシューマンやブルックナーなんかも彼らのオリジナルの譜面に「こうしたほうがもっとよく聞こえるからなおしておきますね」的な「手直し」が施され、それのほうがよく演奏されてたりするんです。
ショパンはオーケストラの扱いは素人なんていわれてますしね。


作品は1人の芸術家の苦悶と努力によってすべて仕上げられていなくてはならない!という芸術感って一般的です。
でもロマンティックすぎるとはおもうんだけど、一方で、それを大衆はひどく求めてやまないんだろうな。

しかし、今回のように全てを全て他人に任せてしまった作曲家というのはやはりおかしい。
作曲しない作曲家って20世紀、アヴァンギャルドを追求した「現代音楽」でも考えなかったですよね。たぶん。
語義矛盾です。
代作のひとは「共同作業だった」とはいいますが、サムラゴウチさんのことは音楽プロデューサー程度といえればよいほうでしょう。

一方で、サムラゴウチさんは作り続けねばならない事情があったんでしょうね。

要するに本でも芸術でも、普段は買わない、見ない、聞かない人を動かさないとヒットにはならない。
それを動かすための「神話」を例の人は備えていた・・・・・に過ぎない。

作ってるほうも作ってるほうだし、売ってるほうも売ってるほう。

というかレコード会社、ほんとに分かってなかったんだろうか、と僕はいぶかしく思いますが。
例の「作曲家」さんを庇うわけではありません。

が、ベートーヴェンちっくな、ああいう過剰な設定がなければ、もはやクラシックをクラシックとして続けていくことが出来ないほど、音楽は衰退したアートなんだな・・・・・と残念に思われてならないのです。

ちなみにゴーストライターの新垣さんの本人名義作品がネットで聞けます。

なぜ新垣さんは、サムラゴウチさんの名前でしか、あれらの作品を発表することができなかったのか、
という問題についてもわれわれは考えてみないといけません。






by horiehiroki | 2014-02-06 20:40 | 音楽 | Comments(0)

このまえに録画した、ストラディヴァリウス関連の番組を観てました。



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ストラディヴァリウス(略してストラド)とは・・・

17世紀イタリアの天才職人アントニオ・ストラディヴァリが製作したバイオリンで、約600挺が現存する。



・・・とありますが、アントニオ・ストラディヴァリの作品にはヴァイオリンのほか、チェロやヴィオラなども存在しています。


なぜ、ストラディヴァリウスは、ストラディヴァリウスたりうるのか。
ストラディヴァリウスはなぜ、美しい音色なのか。

これほどシンプルな問いに答えはいまだに見つかっていません。

この400年ほどの間、この謎に答えるためだけに、最新技術をつかった研究がつづけられ、その一部が番組では紹介されていました。
底板の薄さの均一性が大事とか、ある部分で容積なり、重量なりが、キッチリと二分されているとか、興味深い内容で、ヴァイオリンがCTスキャンにかけられている姿にはビックリ・・・。

そういった研究の甲斐あり、番組のラスト、完全にコピーされたというストラディヴァリウスは想像以上に本物に近い音色を奏でていた気がします。

そもそも、どうして「同じ楽器」をコピーしても、完全に同じ音色が出ないのか、ということを思われる人もいるかもしれません。

たとえば日本の歌舞伎の場合、ある俳優があたらしい役を演じるとき、その脚本を読み込み、自分の創意工夫をもって役作りをします。そこからさらに先輩役者から、ここはもっとこうやってもりあげて・・・など厳しい稽古をつけてもらいます。
それで先輩たちと「同じこと」をしていても、まったく違う印象の演技になるのですから、それに似ているかもしれません。

また・・・
今回番組では紹介されませんでしたが、木というものは、乾かしたあともだんだんと乾燥し、びみょうに反っていきます。
ですから今日、サイズ的に完全に同じものをつくれたとして、たとえば現時点で完成から400年ほどたったストラド(略称)と同じだけの、反り方を摸倣することは難しいでしょう。
この理屈でいえば、あと何百年かすれば、ストラドの黄金期は過ぎ去るとも考えられます。

さらいに不思議なことに楽器の形態が長い、短いなどするにもかかわらず、その音色には完全な共通性があるのです。

だから楽器のカタチではなく、ニスに音色の秘密がある・・・と考える人がいてもおかしくはない。ただし最近の科学検査で徹底分析したところ、はまったく普通の松ヤニとニスが使われているだけだったそうです。

人間の知見では計り知れない物質・・・たとえば悪魔の血でも混ぜたんでしょうかねー(笑

ただ、ストラドは完成当時から伝説の名器といわれていました。
それはストラディヴァリのような名職人がほかに少なかったということも多いに関係しているようです。これは番組で紹介された知見ですが、面白い意見だった。
さらにストラディヴァリの息子たちにも技術はキチンと継承されなかったため、奇跡の名器の謎は今日にいたるまで、まったく解き明かされていないのです。

今回興味深かったのは、楽器と名演奏家の関係。ぼくも好きなヴァイオリニストである渡辺玲子さんが登場して、バッハの無伴奏作品の一節を弾くシーンがありました。いっさいの響きを吸収してしまう、つまり音楽にとっては砂漠のような、あるいは地獄のような無響室で弾いても、ストラドの場合、ちゃんと聞こえるどころかちゃんと渡辺玲子のバッハになってるのが驚きましたね。

技術というものは一度失われると二度とは取り戻せないものなんですね。
それがいちばん感慨深い印象でした。


by horiehiroki | 2014-01-11 11:11 | 音楽 | Comments(0)

森進一リサイタル

森進一さんのリサイタルにお邪魔してきました

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この前、母親が隠れファンだということで。

テレビでも歌番組をつけてれば、ほぼ毎週、姿を見られる人ではありますが
やはりリサイタルにきてくれる、自分のファンの中のファンにむけて歌うときには
気迫が違うって感じましたですよー・・・
自分の持ち歌を長時間にわたって連続で歌っていくので
テンションがあがって、絶妙な節回しになったりしてる所もあったり。
あと1つ1つの歌詞を丁寧に表現していって、全体に破綻がでないバランスも
さすがでした。

そして、森さんのお腹がペッタンコ、スリムスーツなのにウェスト周りが超余裕なのにも驚きました(w



日本は少し前まで演歌というジャンルと
ムード歌謡というジャンルが拮抗する形で存在してました。
で、彼の場合は一貫してムード歌謡(演歌よりオシャレ路線)なんですね。

というか、アンコールは進一ディスコで、マチュア(成熟世代)なファンがステージにむかって押し寄せ、
ダンサボーなナンバーで踊り狂う・・・というまさかの光景も見られました

定番のフリなども存在してるようです(w




よくいわれるのが、彼はハスキーボイスなんだけど、キーが高いということ
キーが高いんだけど、声自体は甲高くはない…と言うことで、いわゆる
ブルース的な内容がよく合います

あとたぶん始めてナマで聞いて、彼の声は
息そのものが楽器の一部になってて、
それがワンアンドオンリーなんだなーって思いました。


昭和四十年代に彼がデビューしてからの曲を辿っていく中、
おふくろさんとか、北の螢とか、冬のリヴィエラとか名曲中の名曲が
ちょいちょい挟まれるセットリストです。
北の螢とかって、すごい世界観のある
名曲なんだけどそれはともかく
聞いたことが無かった曲ですら、それも森さんの歌唱人生に
ほぼ縁のなかった人間のぼくにさえ、ウワッーと襲って来る感覚を
与えるというのはただ者ではござらんなぁと。

それにしてもスーパースターってのは違うなぁ…というのを
肌身で感じた一日でございました。



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◇◇◇堀江宏樹の新刊もよろしくおねがいしまーす◇◇◇

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百人一首 うたもゑ

(日本じゃ)世界三大美人なんていわれてる小野小町。でもずっとモテる、恋をし続けるということは、あるいみ「たったひとりの誰か」に出逢えてないってことなんです。平安時代、百人一首に収められた歌人たちの歌をベースに展開する、絵空事ではないリアルにして美麗な恋愛絵巻まんがですー。

藩擬人化まんが 葵学園


大河ドラマでもそうですけど、江戸時代はなぜ「ああいう社会」なのか? なんで現在でも県民性は「ああいう風」に存在してるのか? …みたいなことが漫画+文でザックリと理解できます☆

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by horiehiroki | 2013-06-26 20:00 | 音楽 | Comments(0)