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「憂いの佐倉君」4ー3

つづき。


そして、この場面。


こちらのほうが先か。


この徳島藩主に預けられたまま、「延宝8年(1680年)5月、4代将軍徳川家綱死去の報を聞き、配流先の徳島で鋏で喉を突き自殺」・・・・。

報われない上様への愛。悲しい。


この元藩主・正信が蟄居している間、佐倉藩主はコロコロかわります。

1661ー1678 松平(大給)家、譜代 6万石 :松平乗久

1678ー 1686 大久保家、譜代 8万3千石→9万3千石:大久保忠朝


・・・というように。

そして、ですよ。

不思議なことがおこります。もはや因縁といってもいいけれど。
堀田正信が自殺したあとも、彼の弟である正俊は連帯責任を負わされることもなく、有力者のままでした。幕府最高位の大老にまで昇進しています。
徳川家綱が亡くなると、次の将軍を綱吉にすると決めたのも、堀田正俊の意向だったというくらい。



堀田正俊:



1歳の時、義理の祖母にあたる春日局の養子となる
1641年、7歳の時、嫡男竹千代(徳川家綱)の小姓に任じられて頭角を現した
1643年、9歳で春日局の孫に当たる稲葉正則の娘と婚約、春日局の遺領3000石を与えられている。

・・・というように、十代になる前からこんなにVIPになっちゃって・・・みたいな華麗なる経歴の正俊ですが、暗殺によって命をうばわれています。

正俊を殺したのは、堀田家にとっては親戚筋にあたる美濃青野藩主・稲葉正休。この人も春日局の一族です。

理由は不明。綱吉が後ろで糸を引いてた、とも。もしくは男色の問題でしょうか?

稲葉正休はよく切れる短刀をなんどもテストしたうえで用意し、江戸城内の詰め所で堀田正俊に声をかけ、呼び止めた後、胸の急所に刀を突き刺すという計画的殺人を犯したようです。

漫画でいえば、江戸君の部屋で、青野君によって、とつぜん古河君がコロされるという事件が起きていますよね。古河君の中の人が、正盛の息子、正信の弟の、正俊なんです。


堀田正俊が何回目かの国替えののち、古河藩に13万石扱いで入場、藩主となってたんです。それで、幕府の重役を刺した犯人・美濃青野藩主・稲葉正休を、その場でメッタ刺しして殺した中に、ちゃんと佐倉藩主の大久保忠朝たちの名前がふくまれていた、と。

ここらへん、うまいこと漫画化してますよね。

佐倉きゅんの中の人はどんどん変更されても、メンタリティは受け継がれているという不思議・・・。

そして、父親を男色がらみの殉死で失ってしまった堀田正俊が、同じく父親を男色絡みの殺人で失った経験のある稲葉正休によって殺されている・・・という恐ろしい偶然。

この話の裏にあるのは、江戸時代初期特有のダイナミックな人間関係なんです。

ちなみに!


家綱は1640年、殉死禁止令を出しています。
正確には、武家の法律書、武家諸法度の中の該当箇所に、殉死を禁止する、と書き加させたんですね。
あと、家綱は髭禁止令なんかも出してます。
正確には髭を生やすのであれば、幕府に届け出なさい!みたいなね(笑

by horiehiroki | 2013-12-01 21:26 | 作品紹介 | Comments(0)

「憂いの佐倉君」4-2

つづき。

で、次に漫画に描かれた時期の佐倉きゅんの中の人たちについて・・・


□堀田正信(1631-1680)

それで、殉死した正盛のあとを継いだのが正信です。20歳くらいの時。
堀田正盛の長男 通り名・興一郎。 官位 従五位下、上野介

「新訂寛政重修諸家譜 10」の記述によると、彼の父・正盛が病気になったら、物凄く家光は気にかけて、自分自身が見舞にきたり、あるいは正盛の同僚たちを派遣したり(おなじく家光の愛人をしていた阿部重次なども含む)。

懇切丁寧な対応をとり、正盛が元気になればなったで贈り物をもって来宅したり、その後、お返しの品を受け取ってかえったり(・・・・・女子校的プレゼント交換をおもわせるなにか・・・・・)。

正信はあとで述べる弟・正俊にくらべてずいぶん、経歴的には地味なんだけど、「新訂寛政重修諸家譜 10」の記述をみてると、親の七光りで、父・正盛が存命中は堀田家の嫡男として、個人の裁量というより父親の七光りで、それなり以上の恩顧を受けていたのでした。

しかし、家綱時代になると、それがぱったりと途絶えたんですね。

20歳の時に、家光が死去、父・正盛が殉死。


その後、徳川家では11歳の竹千代が将軍家綱として就任すると、正信の弟・弟の正俊は竹千代の小姓だったこともあり、兄をおしやって正俊のほうが出世していくんでした。

また、正俊は三男でありながら(二男、四男は、御家の事情で他家に養子にやられていた)、分家して大名として独立していたのですが、老中、その後大老にまで出世していったんです。

それなのに正信は溢れる忠義心をもちながらも、まったく重用されず。


「忠義心」のうちわけですが・・・・


慶安4(1651)年家光に殉死した父の跡を襲って(=継いで)佐倉10万石を領す。のち積極的な家臣団の拡大,武備の増強を企てながら,幕府への奉公を誇示。外祖父の酒井忠勝からたしなめられたという。
所領では「佐倉惣五郎」事件の伝承を生んだ苛酷な年貢増徴を図る。

家光政権の功臣であった父の跡を継ぎ,老中が城主となるべき城にいながら,幕政に参画できない焦燥と過剰な自意識が,時代錯誤の武断的な藩政として現れた様子。




所領では「佐倉惣五郎」事件の伝承を生んだ苛酷な年貢増徴を図る。

この部分も、実はあんまりよくわかってなくて、将軍に直訴したとかいうけど、そんなことが出来るのか…と思います。厳重な身分社会ですからね…

ちなみに・・・

さくらそうごろう【佐倉惣五郎】

近世の義民の代表者とされる人物。佐倉宗吾とも呼ばれる。しかし確実な史実は乏しい。生没年不詳。下総佐倉城主堀田正信が1660年(万治3)に改易になった事実があり,その当時領内の公津台方村に惣五郎という,かなり富裕な農民がいたことは明らかである。また正信の弟正盛の子孫正亮が1746年(延享3)に佐倉城主として入封して後,将門山に惣五郎をまつって口の明神と称し,1653年(承応2)8月4日に惣五郎とその男子4人が死んだとして,1752年(宝暦2)はその百回忌相当のため,口の明神を造営し,以後春秋に盛大な祭典を行った。




※また正信の弟正盛の子孫正亮 …というのは誤記。

正盛ではなく、正俊。
ただしくは正俊の子孫です。

正俊の子孫が堀田の本家も継ぐことになったんだけど、その時には堀田家内のタブーとしてなんの情報も正盛についてはなくなってたと思うんです。で、周りのヒトがこういう話があったらしいんですよ! っていう進言をして、佐倉さんが正盛を呪ったから、頭がおかしくなって、最後はハサミで自殺なんて行動に出たという説を、正亮も信じちゃったんでしょうね。


正信がどの程度、経済的認識があったかどうかは不明。
彼はおもに江戸にいて、ドリームをふくらまし、鼻息もあらく「江戸幕府を狙うものを討つ! 軍備拡張のため、人材確保のため、もっと金出せ!」って江戸から指示してくる正盛のため、国家老が年貢を引き上げていった・・・というのはよくわかる気がします。
徳川幕府の行き先をどうするか、って議論があった時代だとおもいますし。

正信の時代の佐倉藩は12万石(10万石、15万石とも)くらいですから、そこまで貧乏ではないにせよ、飢饉も多かった江戸時代ですからね。殿様は善意に燃えてたとしても、お金がかかることを一杯されると困ったでしょう。


それはともかく、正盛は不遇のままの29歳の時、1660年10月8日、突然幕政批判の上書を幕閣(保科正之ら)に提出。

その後、無断で佐倉へ帰城したとされます。

幕政批判については、この頃起きた、明暦の大火にたいする幕府の対応がなっていない!という痛烈な言葉の連続でした。

明暦の大火の被害は、江戸時代最大のもので、なんと江戸城もほぼ消失。天守閣ふくむ、江戸城のほぼ全域が被害に遭っており、多数の大名屋敷はおろか、庶民のすむ家屋も全滅状態という恐ろしいものでした。

ところが、その復旧作業が庶民たちの家屋ではなく、大名屋敷などのほうが優先的に再建されていくことに、堀田正信は憤ったんですね。自分の全財産を幕府に差し出すから、それを復興予算に使ってくれ、とも言いました。そして、佐倉藩に無断で帰ってしまったんですね。

まぁ、ものすごくイイことをしてるようで、幕府の方針=将軍の意思をひとりの幕臣の身でありながら、全面否定するという暴挙にかわりはなく、これは罰せねばならない、ということになってしまいました。

さらにこんな「恐ろしいこと」をする藩主を、彼の家臣たちはうけいれてくれませんでした。
田舎の家の門を家臣はあけてくれなかった…ともいいます。反抗的態度の藩主なんか、わたしたちとは関係ないので、罰するなら、正信さんだけを罰してくださいね!という家臣達に、正信は衝撃を受けたでしょうね。

しかし、堀田家先代の堀田正盛は先代・家光の愛人であり、またその政治家としての功績も考慮すると、死罪(切腹)にはさせなくてよいだろう・・・ということになりました。
というか、兄にかわって実力者になっていた、堀田正俊の口添えもあったのだと想いますよ。

こうして命はたすかったものの正盛は父親から受け継いだ佐倉藩の領主をクビになってしまいます。そして、閉門蟄居させられてしまったんですね。

その場その場で、いろんな問題行動をおこし、また御家の事情にまきこまれ、関係者をつぎつぎと閉門(自宅謹慎みたいなもの)に追い込み、最後は徳島藩主・蜂須賀綱通に預け替えられました。

おそらくこの配流生活の中で彼は「忠義士抜書」「楠三代忠義抜書」「一願同心集」・・・・・・と、歴史に学ぶ武士の心得的な本を書き始め、武士とはなにか、忠義とはなにか!?(裏テーマは主君への愛とはなにか) を永遠に問い続けたようです。

なんだか泣けちゃいますわ。

正信の父・正盛は愛され上手であるいっぽうで、冷静な計算家でもある。

でもその子の正信は、ホントに坊ちゃん育ちの情熱家というか、真面目一本でね。
幼いんです。考えかたが。
戦国時代ならそのまっすぐなところが愛されたでしょうけれど、武士が戦闘によってではなく、政治によって生き残っていかねばならない太平の世には向かない人物だったと想います。

そして、漫画でも描かれたみたいに、ハサミで喉をついて自死です。死ぬことが彼の武士としての、堀田家の嫡男としてのアイデンティティだったんだろうなあ


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寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ) という徳川家臣名事典みたいなのがあるんですけど、その中にも、かなりの詳しく書いてあるのが堀田正信。特に何かを成し遂げたという一生ではなかったんだけど、彼の自殺は刀を取り上げられてるがゆえ、ハサミでの喉突き自殺でしたが、ほんとの義腹に相当するんじゃないか。

純粋なる主君への愛による切腹(疑似行為)であって、父親・正盛のハラキリみたいな商腹の側面はホントになかったとおもう。だからこそ、おそらく影で人気はあり、大老にまでなった弟・正俊の記述なんかよりもこの寛政重修諸家譜の記述が多いのだと思います。

いちおう正信についての寛政重修諸家譜の全文はgoogle bookかなんかのサービスを利用すると、ネットでも読むことができます。「寛政重修諸家譜10 堀田正信」で調べてみてください




なお、アツい兄・正信とはまったくことなり、正信の弟・正俊は経済政策に定評がある「数字に強い男」でした。




3 につづく


by horiehiroki | 2013-12-01 21:25 | 作品紹介 | Comments(0)

ちょっと遅れてしまいましたが、佐倉君の中の人たちのことを復習してみましょう。 今回は僕がやたらと惹かれる部分があったので、ちょいマニアックですw

佐倉藩主が堀田家の時代・・・

堀田正盛(1609ー1651)

家光が正盛が倒れた際に見舞に寄越した、阿部重次は正盛と同じ家光の小姓あがり。阿部重次も家光の死去に伴い、殉死。この人が、上様に愛された肌を世人に見せることはできない!っていって、着衣で切腹した男性ですね。詳しくは拙著「夜と愛の日本史スキャンダル」をどうぞ

これは自分たちの男色の関係がホンモノであることを証明するための自害だったといわれていますが、
堀田家は春日局の義理の子の一族。それを足がかりに、権力者・徳川家との関係をふかめ、なりあがった一家でした。

もともと、徳川家と敵対関係にあった豊臣家方についてた時代もながく、もともとは1000石程度の旗本(やや上流の武家)程度の地位だったんですね。

それが家光の寵愛を受けて一気に勢力拡大をした。それが堀田正盛の代のお話でした。
じつは武士の切腹には3種類があると当時から言われていました。


義腹・・・主君への愛という、殉死本来の意義からの切腹
論腹・・・同僚が切腹するだろうから、それに置くれてはみっともないとして、切腹
商腹・・・自分が主君に義理だてて切腹すれば、「なんて忠義モノの子だ」として、子孫が得をするだろうとおもっての切腹


の3種類で、堀田さんの切腹にはこの1-3全てが当てはまったと思います。中でも三番目の商腹という観点は絶対に見逃せないですね。ようするに徳川家の武将として、正盛は堀田家の位置づけをなんとか確定させたかったのだと想います。

実は徳川幕府初期は、幕府の中心人物たちの間でも地位の移動が激しく今では幕府の実力者とはいえ、その全てが大昔から徳川家につかえる武士というわけでもなく、意外となりあがったばかりの家もたくさん含まれてたんです。つまり、平和にはなったけど、今度は幕府の中で勢力の奪い合いという戦がはじまってた。

2 に つづく


by horiehiroki | 2013-11-30 10:32 | 作品紹介 | Comments(0)

佐倉君がずいぶんとイッちゃってますが。

佐倉君の中のひとが、森先生の解説にもあるように、ここまでの問題をおこしても
切腹させられないのは、理由がいくつかあるかと。しかし周囲の人間に迷惑かけまくりですけどもねw、それでも同情的な人がいた、ってことなんです。

まず佐倉君の中の人なんですが、御血筋がよかった。

徳川幕府のゴッドマザーには二人いて、一人目は家康の母親である於大の方(おだいのかた)。そしてゴッドマザーの二人目が春日局。

よくもわるくもウツワがでっかかった家光さんの乳母が春日局ですが、彼女が乳母になる前、まだ福と名乗っていたころに結婚していたのが堀田正成という男でした。

先妻の生んだ子が、堀田正盛。

つまり福を乳母とした家光にとっては義理の(義理の)兄弟みたいな人でした
家光の乳母になった春日局との血縁があったため、家光の寵臣になり、恋人にもなっていったというあの人です。
で、正盛さんは家光が亡くなると殉死してしまった。

徳川将軍家も家光から家綱に代替わり、
堀田家(佐倉藩主)も、正盛から正信に代替わりしたのです、が、
家綱は家光とはまったく別モノのパーソナリティの持ち主でした。

変な話、もともと家光と正盛のラブい関係って、家光は正盛が好きだったんでしょうけど、正盛は、家光のことだけ、というより将軍家自体を好いていたんだとおもうんですね。徳川将軍家=上様=家光・・・っていう。
家光との同性愛が、要するに堀田家全体の将軍家への忠誠心の現れであり、将軍家への愛につながるって感覚。
で、その将軍家へのラブを父親から引き継いでしまったのが正信なんだ、と。

今じゃちょい分かりにくいかもね

イギリスそのものにはあんまり興味なくても
ヘタリアの眉毛のイギリスだけはものすごく好きだったり人。
両方好きな人、いますよね。

堀田さんの家のひとは両方、ものすごく好きだったんです。



でね、今の佐倉きゅんの中の人・・・・森先生は藩擬人化ってゆうより
藩主擬人化だね、とはおっしゃってるけど、江戸幕府初期の堀田家の気風の
擬人化にちゃんとなってると僕はおもいますよー。
だって、よくかんがえるとアレでしょ、
父親から将軍家ひいては将軍その人・・・つまりは家綱へのラブを引き継いでるのに、
家綱は、そういうパーソナリティの在り方をみとめてない。

パーソナリティの在り方ってかいたけど、実は、戦国時代にこういうタイプの
「ラブ」で代々むすばれる上様と家臣っていたんですわ。
たとえば有名所でいえば、伊達政宗と片倉景綱(通称・小十郎。正宗より10歳上)。
大阪の陣を前に、片倉景綱は病気で先陣を切ることができなくなりました。
しかしその息子の重綱(この人も父親とおなじ、通称・小十郎を名乗っている)は
まだ年若く、先陣を任せることが難しかった。
片倉家は代々伊達家ラブという設定で、愛をひきついだ重綱は伊達政宗にとりすがって
「どうか、わたしを! 病身の父に代わって! 先陣をかけることを! どうかおゆるしください!!」って熱心に頼み込んだらしいんです。
そしたら、政宗さんは(徳川四代将軍・家綱とはちがって)ホロりときて、
「お前以外に任せるヒトはいないよ♥」っていって、ついでにほっぺにチュウしたんですって。
ほっぺにチュウされたって誉れを片倉家の家史は書いてるわけよ。

・・・・・・だから、ホントは今の佐倉きゅんの中の人および堀田家や堀田家家臣一同は、家風としての愛を、家綱にも受け入れてほしかったんだろーけど、それが無理だった。
家綱は、そういう戦国時代っぽい色んなモノを出来る限り削ぎ落として、太平の世にふさわしい、冷徹な官僚組織としての幕府を作ろうとしてた人です。一方、家綱の弟である綱吉(五代将軍)は、また将軍のカリスマで動いていく幕府を目指そうとしていた。
ま、中の人の理想によって、ホントに葵学園も乱があったのでございますよ。






by horiehiroki | 2013-11-19 23:25 | 作品紹介 | Comments(0)


前記事に人気が集まってるので、時間を見つけて記事をかきました。

森先生のブログで、先日から新シリーズ「憂いの佐倉君」がはじまっております。


余談ですが、ぐそぐそとした情念の話がぼくは好きです


くわしくはウチの前記事と森先生のブログで。

で、今回はその続きと+αのお話をしようかと

森先生の漫画でも出てきてますが、佐倉君に対してだけでなく
家光と家綱はセイジの方針がまったく逆でした。家光と家綱は方針がまったく逆。

家綱はよくもわるくも官僚機構の長!みたいな感じ。
自分自身がリーダーシップを取るというより、家臣の決定を尊重し、みたいな傾向がやや強め。

でも先代の家光はよくもわるくも親分肌で、すきなヤツにはすきなことをやらせる、的なドンブリ勘定だったんですな。人生が。

あとね、家光(三代)と家綱(四代)の将軍交代劇の影に、
尾張君こと尾張藩の中の人・徳川義直との軋轢もちらほらみられまして。


ほら、江戸君の中の人(将軍)って、実子があれば基本的にその子が継いでいくんだけど、尾張君の中の人、もしくは紀州君の中の人も、家康さんの実子の家柄なわけで、いくら将軍=上様でも、適任者ではない!!!って判断されちゃうと地位がやばくね?! みたいなことになっちゃったんです。
まだいろいろと固定されてない、江戸幕府初期特有のあやうさ。

徳川家光(将軍) 1604年8月12日うまれ ーーーー 1651年6月8日死亡

徳川義直(尾張藩主)1601年1月2日うまれ ーーーーー 1650年6月5日死亡

ね、しかも、ほぼ同世代なんですわ。


家光は家康の孫です。家綱は家光の側室がうんだ子。

ところが、義直は家康の直の子、なんですね。

だから義直は自分より、甥のほうが偉くなっててイライラしてた。
さらにある種の(佐倉君とか)寵臣に寵愛をそそぐ家光の方針に、イライラしてる家臣も多々いたわけですよ。

(だから、漫画にあるとおり、四代将軍・家綱はそのガス抜きを行ってる。
中の人がかわって、もじどおり人が変わったような江戸さんに佐倉君は、はじきとばされる。)


三代将軍・家光なんですけど、しょっちゅう重病で倒れました。乳母。春日局をヤキモキさせたというアレです。

中でも1634年のこと。江戸君の中の人・家光さんが重病!っていうときに、
なんと尾張君の中の人・義直は、江戸城からも至近距離にあった、尾張藩の上屋敷に大軍を率いて名古屋から上京なさったと。

尾張藩上屋敷=現在の市ヶ谷あたりです。


歴史用語なんですが、上屋敷=表のカオは各藩の迎賓館みたいなもの。一方で、多数の藩士を収容できるシェルターでもありいざとなったときは要塞代わりでした。とくに重要とされる藩の上屋敷ほど、江戸城の周辺に固められていたんですね。


もともと江戸城を守るための要塞(その名の通り、カナメのスポット)として作られたのが、現在市ヶ谷の自衛隊駐屯地とかあのあたりの土地だったんですが、そこを大軍の、しかも反乱軍にセンキョされたら、もう江戸城は終わりです(尾張名古屋だけにw

幕府だけでなく、江戸全体が騒然として、尾張様が御謀反かっっっ?!?!
みたいな凄い雰囲気が漂ったんですけど、義直は
「その気はなかった お見舞いお見舞い  あれっ、びびっちゃたあ (ゝ。∂)~☆」
などとヌラヌラ交わした。

義直は家康公の子どもで、とにかくえらい人だから、周りの人間はきつくは言えない。

お見舞いってw

ンなわけないよねw

たぶん色々と”整わなかった”だけ、なんだと思う。
いつでもこういうことやってあげるから。
覚悟してなさい?
みたいな意思表示にせよ、
ただのイヤがらせにせよ、ね。
KYな行動でござった。



しかし、この後、当然ながら、江戸君は尾張君を警戒するようになり、その地位はじょじょに落ちていった、と。
「おまえのクビなんかかんたんに飛ぶんだぞ」と言いたかっただけ、ってもそのKYな行動がきっかけで、尾張君はよけいにイライラさせられるハメになっていくんでした。

それがもう一度爆発するのが、六代将軍・家宣が亡くなり、さらにすぐにその子・七代将軍・家継が亡くなるという将軍交代劇が頻発した時代のことであります。また機会あればお話しましょう


で、





そういうこういうで最近、宣伝わすれてましたが、県民性の源流、藩民性について
かかせてもらいました「藩擬人化まんが 葵学園」(集英社)もご購入、よろしくですわー。
マジでマジで。


by horiehiroki | 2013-11-12 20:39 | 作品紹介 | Comments(0)

大事なことなので、ココでも書きます(w




今、森ゆきえ先生のブログにて、新シリーズ「憂いの佐倉君」がはじまっとります

佐倉君=佐倉藩。

三代将軍・家光の寵臣・掘田正盛は簡単にいうと
長年にわたる恋人関係・・・いや、もはや同性婚的な何かでして、
当時はこういう関係は夫婦の仲よりも何世にもわたる絆ってことで
考えられてたんです。

まぁ、お互いヨメさんとかはいるんですけども男色はスイーツと同じで
別腹感覚。

しかし、堀田正盛と同じく、家光さんの恋人だった酒井重澄の場合、


>病気で屋敷で静養しているのにもかかわらず、4子をもうけたことから家光の勘気を受け、
>寛永10年(1633年)勤務怠慢との理由で改易となった


・・・・・とかいろいろありましてね。

高貴な人と男色の関係は深く、男色関係にある寵臣が(嫡男を産むための妻である)正室=正妻ではなく、側室などとの間に子どもを儲けることで、主君側が激怒する・・・・・・・みたいな話。


こういう例は室町将軍時代にもありました。

だから男色は別腹スイーツとはいいきれなかったりするんですよねー。男色が本命で、妻と義務と演技だったりする場合も。

だからこそ、主君に愛されなし上がったタイプの人間は主君が死ぬと殉死せねばって風習が、できていきました。
いかにも戦国時代の遺風っぽいけど、家臣=家の財産として考える戦国時代にはあんまり、なかったんですけどね。初代家康には殉死者がいません。彼にはあんまり、ほもっ気がなかったからかもしれんけど。


このあたりのくわしくは拙著「葵学園」をご覧ください。







by horiehiroki | 2013-11-09 16:33 | 作品紹介 | Comments(0)

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by horiehiroki | 2010-10-08 18:51 | 作品紹介 | Comments(0)

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2010年6月13日、新宿紀伊國屋本店にて『恋する源氏物語』トークショーを開催しました! ゲストはイラストを描いてくださった藤野美奈子さん。

満員御礼、ありがとうございます。その時、会場でいただいたアンケートへのフィードバックはこちらから!



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女性心理を学ぶのにうってつけ とのお墨付きをいただきました。(「恋愛下手から抜け出す! 女ゴコロのつかみ方」というくくりの記事にて)



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杏さんからお葉書をいただきました!

 「あたらしい源氏物語の教科書」すぐに読んでしまいました、面白かったです!!」とのことです。



■サイゾーウーマンさんに「ブスだって報われたい! 現代女子の道を照らす『源氏物語』二人の不美人」として、
インタビュー記事が載りました



■J-WAVEのラジオ番組『ASAHI SHIMBUN BOOK BAR』のブログで

杏さんに、
源氏本のご紹介をしていただけました



■J-WAVEのラジオ番組「PARADISO」で本のご紹介をいただき、ホリエも出演させていただきました!末摘花の隠れた魅力などがトークのテーマ。



■2010年6月の毎週土曜日・午後7時から、 FM PORTに「ビーフラ的ラジオ講座」に講師として出演していました! 司会はタカハシカナコさん。ありがとうございました(毎回20分×全4回) 



■「恋運歴」2010年6月号(イースト・プレス)にて、6ページの特集を組んでいただきました。堀江監修の源氏の女占いも好評でした。 



■『源氏物語』で恋愛力を磨きましょ(2010年5月12日)」。
恋運歴編集部ブログでの特別著者インタビューはこちらから。

 


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by horiehiroki | 2010-04-20 18:47 | 作品紹介 | Comments(0)