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とくに音楽関係の執筆のオファーがあるわけでもないんですが、通常のお仕事にくわえて今上帝の退位発言、現実とバーチャルの世界が本格的に連動したポケモン、すごいオリンピック、吉田選手の銀メダル……その他もろもろで世の中が騒然としておる中、ぼくは夏の自由研究として立花隆「武満徹・音楽創造への旅」を熱心に読んでいました。

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著者がジャーナリストの立花さんなので、20世紀の”クラシック”の音楽事情のウラ側、”現代音楽”、もしくは”音楽”とか”芸術”の世界に生きている魅力的な人々の群像……といった要素が強く浮かび上がり、他の武満論とはかなり違った本になっていました。たぶん普通に単行本化しようとしたら、2000ページ以上の大部だったと思います。この本、ページのスミまでギリギリに文字を詰め込んだ二段組みでデザインが組まれてるんですよね。それでいて内容が乱れている、校正が出来ていない印象もないので(さすが!)、おそらく立花隆でなければ出せなかった本だと思います。
ただし読んでも読んでも終わらない。でもすごく面白いことがかいてあるので、斜め読みが出来ないという厄介な本ではありました。

個人的にもっとも興味深かったのは、自作をほぼ全て失敗作というまでに「厳しい」彼が自分で評価している曲と、他者(世間)が評価する音楽がほぼ、ずれているという点。
たとえば「地平線のドーリア」という曲があるんですが、これを武満徹は(世間的には代表作とされている)「ノヴェンバー・ステップス」という琵琶・尺八の独奏と、オーケストラのパートを持つ曲よりもずっと高く評価しており、小澤征爾などにもCDには「ノヴェンバー・ステップス」とカップリングとして、それを演奏してくれ……と頼むに頼み込んで、ようやく演奏・録音してもらった。しかし、その後、小澤はノヴェンバー…ばかり演奏して、「地平線のドーリア」については「正直、ぼくにはわからない」とすら言われてしまった……というようなエピソードが載っています。
それでもこの曲には何種類か録音があるのですが、この本に収録されたインタビューが録音された時点では、武満は演奏の出来に満足ではないらしく、再録音を考えているというようなことをしきりにいっています。
たしかに……キャッチーとはいえない音楽かもしれません。
しかし、二種類録音を単純に聞き比べた限りでも、まったくアプローチ次第で違う様相を見せる音楽だな、ということはわかりました。若杉弘の指揮では音楽の背景は確実に「秋の野」であり、チチチチチというヴァイオリンに出てくるモチーフは虫の音として表現されているのですが、小澤征爾の指揮では、このチチチチチという部分は、ごくシンプルに演奏されるだけだけでした。
あくまで武満の音楽をあくまで絶対音楽・純粋音楽として小澤は捉えており、そのモチーフも解釈したのでしょうね(両者の演奏はYOUTUBEでも聞き比べられると思うので、興味ある方はどうぞ)。いずれも武満には理想の音ではなかったようですが。

また……「ノヴェンバー」は、独特の音階を持つ邦楽器というと、西洋の音階を持つオーケストラというまったく違う世界が共存してしまうという意味で、武満のような鋭敏な耳の持ち主には、非常に気持ち悪い音楽になっているようです。
この曲を(この曲を初演した小澤征爾たちの演奏で)、聞き直すと、邦楽器の部分とオーケストラの部分の異なる音階が交じり合ってなどいないし、むしろ対立している。そしてその落差というべきものが、どうにも「気持ち悪い(初演をたまたま聞いた、永六輔の評)」……と思えるようにワザと作ってあるようです。この曲を邦楽器のソロとオーケストラのための音楽として仕上げてよいものか、と武満自身、すごく迷ったというのが実によくわかった気がしました。

実際、曲の中心~後半部分にかけて、オーケストラが長い沈黙に入り、琵琶と尺八だけが対話しあうように独奏するんですが、この部分の中で、日本の音階で、日本っぽい旋律を尺八が吹き始める瞬間があります。この時、「あぁ、これが本来のこの楽器の姿なんだ」と納得する一方、それまで西洋のオーケストラといちおうピッチを合わせて、鳴っていた音楽は一体なんだったんだろう・・・?と思ってしまう瞬間。そして邦楽器の独奏が終わり、西洋楽器のハープが音を引き継いだ時に感じる、愕然とするような落差…。

でも同時に、「ノヴェンバー」はこの頃の武満の音楽の中では、イントロをふくめ、ものすごく「まとまった」音楽になっていることは事実ではありますが。
このノヴェンバーを作曲中に、「ノヴェンバー・ステップス第 2 番」が完成していた……という事実にも驚きました。この二番こそが、「グリーン」という曲で、一般的にはドビュッシー的な響き云々……と言われることが多いんですが……聞き直してみると、まったくドビュッシー的とは言えない響きのように思えてきました。

武満は、本当に作品ごとにベースとなる技法を変え、新しい音を探求し続けた人なのですが、初期から後期にいたるまで、本当にどれもこれも(上手く言えないのですが)「武満トーン」で満ちた作品を作ることに成功しています。

これは本当に凄いことで、作品を少し聞くだけで、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン?とわれわれがだいたいわかるように、武満の場合はわかってしまうんですよね。

本の後半部で一番面白かったのは、例の恵まれぬ傑作(?)「地平線のドーリア」を聞いた上で、それにピンと来たという宮内庁から雅楽の新作の作曲依頼を受け、書かれた「秋庭歌」という作品の話です。
武満作品の冒頭に出てきがちな不協和音が、笙という楽器で演奏されるのですが……これが、西洋楽器の場合とはことなり、過度なインパクトをもって響くなんてことがまるでないんです。これにも驚きました。

武満自身、安保運動などに熱心な人であり、天皇制についても懐疑的だったそうで、そんな中、天皇のための音楽である雅楽を依頼されて作曲することには内心、アンヴィヴァレントな思いはあったようです。
しかし作曲はたしかに難しい行為ではあったけれど、その割にサクサクと進み、その完成された音楽も、宮内庁の雅楽部の人たちからは高い評価を得て、他の作曲家の新・雅楽の作品とはまったくレヴェルがちがっており、繰り返して演奏していくべき音楽、新たな古典というような評価まで与えたクオリティを備えて完成されました。
「秋庭歌」は雅楽にありがちなお約束を、高いレベルで破ってみせた作品だったことが評価の根本かと思います。
たとえば実際は低い音も出る篳篥(ひちりき)という楽器を、雅楽では高音のメロディを主に担当させる楽器としてしか使わないという、理由がわからないけれど古来からのお約束が厳然とある中、武満は持ち前の独創心で、低い音もどんどん吹かせてみたそうです。それを当時、皇太子だった今上帝が聞いて面白いとお感じになったらしく、武満の楽屋を尋ねて「低い音がなっていますね」とコメントした……というような話も出てくるわけです。武満はさすが!と思ったそうですが。

このように武満徹という、少しクラシックを音楽を知っている人には「ああ、ああいう作品を書いてたあの人ね…」というイメージや記憶が、実はぜんぜん正確でもなんでもないことがわかってくる内容になっており、楽しめました。
本書内には、瀬戸内寂聴も評伝を書いてた、ノヴェンバー……をニューヨークで初演した鶴田錦史(つるたきんし)という男装の琵琶奏者をメインで書いた章がありましたが、書き手によってここまで同じ人物でも違ってくるのかということは興味深いの一語でしたね……

あと、武満による休符などの細やかな指示をまったく守らず、耽美的に録音してしまったピアニストのレコード(CD?)が送られてきたら、激怒のあまりぶっこわしたよ、なんて物騒な一面も……。

長くなるのでこの辺で。

マルヨ・T. ヌルミネン「才女の歴史―古代から啓蒙時代までの諸学のミューズたち」、亀山郁夫「新カラマーゾフの兄弟」(上下)・・・・・・などなど、この夏はなかなかに読書しました。
by horiehiroki | 2016-08-19 12:22 | 読書 | Comments(0)

傀儡に非ず

面白いらしい、という評判で読みました。
上田 秀人氏の『傀儡に非ず』。

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主人公は「あの」荒木村重で、彼の青春時代から晩年までをテンポよく描きます。(この著者の作品、ほかに読んだことなかったのですが、著作リストなどを一見したところ、さまざまな時代小説のシリーズをお持ちのようです。本作は他作品とは異なる作風なのかもしれません)

信長にとつぜん謀反、家族を皆殺しにされたのちも
逃げ延びて自分だけ生き続けた荒木村重(武士を捨て、茶人として生きた……というだけでなく、しつこく政治に接近したり、でも自分をはずかしめるべく「道糞」などと名乗ったり)というこの不思議な人物についてはある程度、その時代の歴史が好きなヒトならば知ってると思います。
また、荒木村重による「黒田官兵衛監禁事件」などは有名すぎるほどです。

……が、荒木家の来歴とか、「三好三人衆」との確執!……などといった部分についてはあまり知られてない気がします。歴史って今回の大河の信繁さんにしても、大阪の陣での活躍以外の側面は、一般的にはほぼ知られてなかったり、有名人でも生涯の全ての部分が有名というわけではないのが普通なんですよねー。

ところがそういう「マイナーな部分」を、いかに面白く読んでもらうか。本を閉じさせないか(あるいは途中でチャンネルを切らせないか)の努力が作り手には必要となる場合があります。それをめちゃくちゃうまいことこなしてるのが、本作じゃないかなぁ……とおもいました。

この作品、歴史を扱った小説としては異例なくらいに描写がありません。
それゆえ、ものすごくスピーディーです。かといって史実だけをツラツラと書いて、あらすじの間に適当なセリフが補われているのでもないんです。たとえば、この独特のタイトル(傀儡=くぐつ、操り人形)の意味がわかってくるラストの部分。大胆な推理で構築された歴史ドラマになっています。

本作の特色としては、省きに省き抜かれることですごいリズム感のある歴史のうねりが描かれていることですねぇ。

大河ドラマでの村重は、追い詰められて狂気に駆り立てられていく村重の内面が、俳優さんの顔面のアップで描かれたりしていました。そういう部分を(そういう設定ではない、というのもあるけど)本作ではパッーと省いてしまっています。意図して省きに省いて、「え、こんな残りページ少ないのに、村重と信長の反目がいまだにでてこない!」っておもいつつ、「こんな少ないページで、ちゃんと劇的な最期を描けるもんなんだ」とビックリさせられるハズ……です。

歴史を扱った小説といえば、心理や時代背景、人物関係、血縁関係、彼らの装束、天候、その他もろもろまで描き込まれる作品が多い(だろう)中、この方の斬新なスタイル、好き、嫌いあるでしょうが、自分はビックリしつつもグイグイと読まされました。
描写の存在自体を極端に嫌う読者も最近増えてきました。
ドラマの核心にはやくふれたい、そのくせ、あらすじみたいなのはいやだ、とか、中々に最近の読者はせっかちです。

でもこの作品のスタイルならば、ウソはいわず、推測も交えず、サラーっと流しても不自然ではないのです(たとえば黒田官兵衛を荒木村重が監禁した、という事実についても、それは城の外の牢だった(いや、座敷牢だった)とか「異説」があります。そこらへんもキレーイに隠せていましたしね。)。読んでいるとき、目の動くスピードも早まるでしょう。


なかなか興味深く拝読いたしました。
by horiehiroki | 2016-08-02 12:45 | 読書 | Comments(0)


最近、カドカワで夏に発売される
乙女の美術史 日本編の文庫版のゲラを見てますが
ひょんなことで知ったエロール・ル・カインという画家の名前…

画集を取り寄せて見ていると、ハーメルンの笛吹男のエピソードが。
そう、こういう牧歌的なイメージのウラにひそむ気持ち悪さがハーメルンの笛吹男の真実なのでは、と。

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グリム童話などで有名ですが、オリジナルは
かなり気味の悪いお話しです。
ネット上の「まとめ」にもなっているんですが、どうも記述自体はアヤフヤ。
ソース自体がよくわかりませんでした
しかしただの気味悪い話が好きなファン以外にも
歴史学者・文学者たちもこのエピソードに惹きつけられており、
彼らの手による論文まで存在しています。
ハーメルン市内の建築物に書かれた碑文を元に考えると
実際に子どもたちはいなくなったようです。
……というような話を描いてたなぁ……と。

秋発売の「恐い世界史」(三笠書房)って新作にそのあたりの経緯をまとめたので、
お読み下さいませ
もうすぐこちらもゲラのチェックが始まります…

やっぱり昔に生きてるってだけでも「恐い」ですね。
現代はつくづく安全となりました。
by horiehiroki | 2016-06-21 11:04 | 読書 | Comments(0)

今年の2月28日付の
毎日新聞の書評(橋爪大三郎さん)を読んで興味を持った
文藝評論家・加藤典洋さんの新書「村上春樹は、むずかしい」を、家族で読んでます。

村上春樹の作品の魅力って

1・作品に描かれた時代の空気、感傷

____________

2・愛の喪失の物語、不可能な愛の物語

___________

というような層を成していて、1と2の層を、複雑で巧みな、文学的な構造が結んでいます。
1をよみながら同時に2が見えてくる・・・というイメージ。わりと小説を読むひとなら1,2くらいまでは気付くのですが、この新書で主に説かれているのは
行間にわれわれが1と2の要素を読んでいる中で、
ときどきちらつく、村上風にいう「おやっ」の部分といえる部分、つまり「3」についてなのかな、と。
ちらっちらっと見えるだけなので、「3」については深く考えもしなかったりするんですが。

新書といってもさすがは岩波新書、かなり硬派なので、途中でそれこそむずかしい、
わかんなくなるって感覚に襲われるのですが、その時、残しておいた
「今週の本棚」の新聞が非常に有効でした。

特に良くできてるなあと思うのは記者さんと思われる人が入れてるキャッチ。

「正義がはっきりしにあい世界への転換」。

これ、批評だけでなく、新書自体のメインの部分についてビシッとまとめられてて見事でした・・・

新書内で語られている、大江健三郎・安部公房などがもっと活発に活動していた時代、
そしてニューアカデミズムの時代、村上の立場は、相対的にかるーく扱われていた・・・という「歴史的事実」。
現在でも韓国や中国では村上春樹は一般的には読まれてはいるが、
尊敬を集める手合いの作家というわけでもなければ、文学としての評が高いわけではない・・・というレポートもじつに興味深かったです。

あと個人的に思ったのは、ドラマの展開法については、とくに韓国と日本はぜんぜん違いますよね。
映画の脚本などを見ていても2、3時間でこれだけのモノをつめこみ、なおかつ自然に見せてくるか!と驚きます。空気を描いた(だけにみえる)作品なんて無い勢いですからね。非常にコシの強いドラマが多いです。

さらにこの新書では時代によって変化する村上の作品についてもしっかり分析された結果が、描かれているんですが(始まった時から村上は村上なんだけど)、昨今の作品を読むかぎり(色彩をもたない・・・とか、短編集とか)村上さんは別のスタイルにむけて動きだそうとしてるのでは・・・とおもわれてなりません。
村上が村上的でなくなる日がくるのかもね。
by horiehiroki | 2016-03-31 03:01 | 読書 | Comments(0)

今頃ですが、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読みました。途中で登場してくるセロニウス・モンクの「round midnight」なども聞いてたしかめながらよみました。

モンクと仲間達による演奏を聞きましたが、サックスにあらわれるメランコリックな主旋律をほとんど妨害するがごとくモンクがピアノの鍵盤を叩いて、異質な何かにかえていきます。本人がピアノソロで弾いたバージョンも聞きましたが、左と右の手に現れてくる旋律がむすびつくことがない。むしろ別のピアニストが弾いたのを聞いた時に、はじめてメロディの本質的な意味を知ることが出来た……くらいです。ぼくとしては。モンクが弾けば弾くほど、聞けば聞くほど、印象がバラバラと解けていってしまう……そして本作も、内容的に異質な作品だったと思います。

アカ・アオ・クロ・シロ、そして彼らにくらべると個性=色彩を持たない多崎つくるの紹介がつづき、おハナシの立ち上がりは異例なまでに遅く、またその紹介に生き生きとした何かをほぼ感じ取れず、非常に観念的で、それこそ色彩をもたないのが印象的でした。村上はもはや青春を概念としてしか描けないのか(その一方で三十代以上になってからが生き生きとしている)というようなことも感じました。ただし印象はその後、ハナシが走り出すと一変していくのです。村上作品に頻出の個性を与えられたキャラがたくさん登場します。

しかし、なにかしら、どこかが新しいんですね。とくにビックリしたのが、何回か自分も触れたことがある村上作品の主人公のキャラについてつっこんだ解釈がなされていた点。(最近、村上の微温な主人公たちは「ふむ」とはいいませんが、)時にヒステリックでメンタルを病んだ女性陣に対比されるあの微温的かつ「ふむふむ男子」たちは、その状態を保ちつづけるのに、それはそれで大変な努力を払ってるんだ…という、言い訳が現れたのにはビックリしました。

微温男子は、ある種の女にとってはスキにならざるをえないのだけど、しょせんはわかりあえない。異質だから。最後にはどうやってもうごかせない壁みたいな存在になって、ぶつかればぶつかるほど自分が傷つき……みたいな印象をあたえる、なにをどうつついても、感じているそぶりすら見せたがらない、そんな微温男子も彼らなりに苦悩している。微温男子たることの苦悩がここまでハッキリ言及されているのって、村上作品の中では異例ではないでしょうか(あまりよい読者とはいえないので、違うかも知れませんが)。

記憶をたどってみても、ここまで見通しの効いた構造をもつ村上世界はなかった気がしています。夜の眠り=非現実 と 昼の活動=現実 といったいろんな対比が登場するのは、いつものとおりです。夜の眠りと夢がひとつのパラレルワールドとして機能するというあたりもいつものとおり。そして夜の世界には謎めいて、なおかつ性的な表現がたくさんでてくるのもいつもどおり。さらに眠りの中のパラレルワールドは完全に主観ではなく、他人とも共有されている世界のようですね。しかし、だいたいのナゾが最後まで読むと説明される作りになっているのです。
(あなたが納得するかどうかはともかく)、「あー、あれはああいうことをいいたかったのか」とわかります。わからせられるようになっているともいえますな。これも比較的長年彼の作品を読んでいる者からすれば不思議な経験でした。

村上春樹の作品って、絶対的ポストモダン小説なんだなってことです。
時代がもはやポストモダンとはいえなくなってなお村上春樹作品はポストモダンでありつづけ、逆にいうと非常に観念的なものになろうとしているのが不思議な印象でした。観念的な小説がポストモダン小説のひとつの特徴として機能していた時代、村上文学は平易とされてきた。しかし実際はまったく違った。逆だったのです。ひとつの大きな深淵でありナゾだったのです。その深淵がナゾをみずから明らかにしていく作業がこの作品の特徴ではないでしょうか。これは村上による村上の解体新書だったのだと。しかし時代がどうであれ、構造がどうであれ、村上作品はつねに村上的でありつづけるのです。

by horiehiroki | 2015-09-26 08:22 | 読書 | Comments(0)

女のいない男たち

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昨日、村上春樹の短編集『女のいない男たち』を読み終えました。

あまりよいムラカミ読者とはいえない自分ですが(「色彩をもたない」~は未読)、
本作には他とは違う点がたくさんありますね。
そして短編小説集なんですが、あきらかに全体をつらぬく「流れ」がありますね。

一読すればそれらは一目瞭然なので特に書きませんが

(とはいえ、羊男など「寓意的登場人物」が存在しないムラカミ作品は
かなりハードボイルドでドライな印象です、とは書いておきますが)

ムラカミ描くところの「僕」たちはみなその微温性ゆえに
「女を去らせてしまう」存在であるだけでなく、
彼らは「女のいない男たち」でもあった
……
という事実にも(逆から見れば当然なんですが)
あらためて驚かされました。

長いこと、村上さんの小説は読んでいますが(かれこれ20年)、
こんな直接的なムラカミ男子を見るのは驚きのひと言。

初めてな気がして、読了後、だんだん酷くなってくる眩暈のようなものを感じています。


(以下の10行ほどはたぶん、ねたばれ。読みたい人だけ、文字色を反転させてどうぞ。)

村上春樹の主人公の「僕」、
あの超微温的な存在が
「本当は、傷ついていた」
という自分の真の気持ちを自分で認めてしまう、なんて展開、
予測したことあります?

by horiehiroki | 2015-02-12 09:42 | 読書 | Comments(0)

前回の記事に引きつづき、
最後まで本書「中国化する日本」ザックリ読みましたが、
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與那覇氏のウリは徹底してニュートラルな視点、ということでしょうね。
たとえば明治維新について語るとなると、旧幕側と新政府側の二派に書き手はわかれ、言説を展開することが伝統的には多いです(そしてそれはおうおうにして、語り手の祖先の立ち位置を踏襲している)。

ところが與那覇氏は徹底して、そういう血縁的文脈から離れて歴史を見ようとします。ちょうど外国人が日本史をみるように、ドロドロした「私怨の日本史」からは離れようとしている。遠いところから、原理/原則というようなものを見つけるがために歴史の細部に触れているという印象がある。これがウリなんです。

彼が依拠するのは(彼が発見した)二元論です。たとえば、貧困問題で例にすると(出世する機会は与えられており、あくまで実力社会だから)「貧乏は自己責任」とする「中国化」社会。
その反対概念であり、(身分に囚われ、出世するための機会はさほど十分ではないがため)貧乏は社会全体の責任として考える「江戸化」社会。

いずれもニュートラルな概念であり、新政府だの旧幕だの昔からある概念にひきずられた史観を超越した視点からの言論が可能ですね。いわば。それらによる二元的対立を語りたくて、この本を書かれたんだろうなぁ、と思いました。そうすることで見えてくる真実も多々ある。

一方で、本書のウィークポイントとしては、中国化/江戸化の二元対立が歴史的にどのように具体的に反映されているか、という部分が甘いといわざるをえない点。原理/原則を追求したいタイプの著者さんには、具体例に対してそこまで関心はないのかもしれませんが。

例えば…彼のことばでは明治維新は「中国化」への意思であり、明治期の代表的産業をささえていた(工場の一つ)富岡製糸場は、いわゆる「中国化」が徹底された実力社会で云々…というような記述もありましたが、たとえば明治維新の勝ち組である長州閥の山口出身者の女性(いわば新貴族の女性)が、実力以上に早期に出世しやすかった…といった「例外的事実」は、とくに記述されておらず。

氏の説くように「中国化」への動きはあったのでしょうが、それが徹底されていたとは思えない。氏は「江戸」と「中国」の二つの流れは、混ぜたら危険、と書いていましたが、まさにその混ぜたら危険状態がずっと続いてしまっていたのが現実的な歴史のありかたのように拝見しました。

與那覇氏は「史論の復権」という新書(※対論集)も世に問うておられます。

巻末に用語索引がついている点で、いちおう学術書っぽい作りにはなってはいるものの、「中国化する日本」という本作も、「史論の復権」において、学術論文類とエンタメ的創作物の「中間的存在」だと氏が定義する「史論」的作品として受け取って欲しい…ということなんでしょう。

たしかに興味深い視座を提供してくれるご本ではありました。



by horiehiroki | 2015-01-29 10:10 | 読書 | Comments(0)

続・股間若衆レポ(?)

昨日、股間若衆という本のレビューで登場させた
難波孫次郎氏の筋肉礼賛表現は年々進化しているようですね。

2011年の日展に出品された「清冽な若き心」という作品・・・

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藝術は爆乳だ!!

です

乳頭も女性なみにモノすごいけど(w)

それでも、ツボは押さえられている。男性表現のツボは最低限、押さえられている。女のカラダをベースに男のカラダを表現しようとは、していない。男性の筋肉のディフォルメ的表現だということは分かりますよね?

(・・・一方で、あんまり清冽、セイレツな作品とも違う?w)


→もしかして、これが難波先生の遺作…? ”黒いリボン”が付いてますが。


一方、これを見て思い出したのが、ルーベンスがめずらしくも「美少年」をクライアントの強い意向で描かされた時の画です。たしかウィーンの美術史美術館にある絵かな。最初に見たときから激しい違和感がありました。

たぶん「乙女の美術史」でも書いたけど、ルーベンスはまったく男性の裸体表現に興味がない人で(ガチムチ女が好きなだけ)。

美少年がゼウスが変身したタカに連れ去られたシーンをえがいた「ガニュメデスの略奪」って絵があるんですが、男の上半身に女の下半身を接合し、それでなんとか苦心して絵をまとめてるんですねぇ。


男性を表現するということは、芸術上、非常に難しいテーマなんだな、ということがわかりました。




※画像はこちらのブログ様からお借りしました。

by horiehiroki | 2015-01-28 12:40 | 読書 | Comments(0)

「 股間若衆 男の裸は芸術か」という本をチラ読みしました。
で、タイトルは「男の裸は芸術か 」という「大問題」をフィーチャーしてるように見せてはいるんだけど、

じっさいのところは、

1/問題を日本の近代以降の彫刻というジャンルに限定した話

2/「(性器・尻などに)猥褻物陳列罪」のある日本で、独特の進化をした性器の”ぼかし表現”

以上のテーマをフィールドワーク経由でまとめるのが圧倒的なメイン。

その他の論説は「おまけ」として入っている程度。
以上で全体が構成されています。


性器の”ぼかし表現”というと

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具体的にいわないと分からないですから、上をみてください。上の股間です。あのもりあがり。西洋のだとイチヂクの葉っぱが着いたりしますが、日本ではああいう盛りあがりなんですね 
難波孫次郎の彫刻の股間ですが、こんもりした「アレ」ですね。まるでタイツかスパッツでも履いたときのような。
かといってスパッツやタイツを履いているんだ、という仄めかしはいっさいないんだけどね、というアレ。


西洋ではミケランジェロやロダンの彫像でも性器は、他の部分にくらべるとひっそり気味に表現されてはいますが、こういうふうに「こんもりした何か」というようにはなってないですね。いわれてみれば。
日本って変なの、と。

そういうことにだけ触れた本でまとまる予定だったようです。





 (ここで告知) 2016年7月20日 乙女の美術史 日本編 文庫版」、カドカワから発売! 書き下ろしの「恐い世界史」は三笠書房、王様文庫から9月発売予定…





が、恐らくは編集者側の視点だとおもうんですが、こんもりした彫刻の股間の「アレ」だけでは話がただの好事家の雑学ねたくらいにしかならないから、いちおう「男の裸は芸術か」というテーマにも触れるべく、間口がひろげられてしまった。

そこで、三島由起夫ヌード写真だのなんだのが登場してくるわけです。

・・・で、今回、このブログ記事を自分が書くようになったのも、このあたりのとらえ方の「シンプルさ」にビックリしたからなんですねぇ。

今回、この本を読んでいて、「男の裸は芸術か」という大問題について、日本ではいまだ、語る段階に入っていない。鑑賞者の目が、価値観が、まったく肥えていないんだな、という事実を突きつけられた観があります。



本書にも記述として「30才からボディビルをはじめた三島さんの体格はみるみるうちに改善され、逞しく云々」・・・というくだりは出てきましたが、「薔薇刑」のこの写真(本書にも参考写真としてとりあげられた)をあらためて見ていると、

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「あれっ?
ほそいなー」
のひと言でした。
ついで
「昔、見たときは、すごくマッチョに思えていたんだけど」としか思えないわけです。個人的には。バカにしてるんじゃなくて、男性ヌードとしてはすごく華奢だな、と。(すくなくとも現代日本で、最高の環境をもとめて24時間式のゴールドジムに毎日通い、増量→減量をくりかえしつづける)ボディビルダーという響きがもつ仰々しさと、三島さんの少年のような裸はぜんぜん違ってるんですね。

こういう三島バディってフツーに運動経験して、その後、(区営の)ジムに週一ででも通えば、フツーに出来上がるカラダですから・・・。

すくなくとも今、みたら、珍しくもなんともない。

三島由紀夫=ガリガリから、すごいマッチョになってしまった男 という条件反射的なイメージが作り上げている。事実とは異なる幻想が現実を陵駕し、見えなくしているほどになっているんですね。現代ですら。

それをわれわれはいつの間にか、何かによって植えつけられてしまっているのは面白いですよね。なんで三島マッチョ説は覆られないの?という。まったく男性の裸は、有名な存在(有名作品)であったとしても、大多数に見つめられていない=鑑賞すらされていないのでは、とも訝しく思いました。



また一方で、この難波孫次郎の彫刻は
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めっちゃくちゃに「ごっついなぁ」、です。今回初めて知りましたが。


例の三島由紀夫の裸と、最初に掲げた難波孫次郎氏の裸体彫刻にある、徹底的な骨格的な違いとか、身体の厚みの違いがあるはずなのに、本書の中でも(サブタイはともかく、実質的には芸術論ではない本であるにせよ)、「同じ男性の裸」「同じく筋肉ムキムキ!」とか、そのシンプルすぎるセンスでしか捉えられてないことに驚愕したんですね。

自分が観じ得ないもの。知らないものを人は画像に見ることはできません。この手のシンプルでナイーブすぎる男性ヌードへの視点は、とくに美術を語る男女ともに、筋肉という存在をほとんど無視して生きてる人が多いんだろうなぁというライフスタイルがスケスケなんですわな。

女性のヌードの場合、たとえばルーベンスの血湧き肉躍る「でぶ」なヌードと、ボッティチェリの華奢な女性とはまったく別物として鑑賞されている・・・はずですが、ダイエットだのなんだの、主に女性をめぐる肉体を語る論説はいろんなレベルで社会中に蔓延している。だから見慣れてるんでしょうね。鑑賞眼ができている。

一方、男性のカラダを語るものって腹が出たから引っ込めるために飲む、特保枠の黒茶とか以外には、・・・・・・ライザップのコテコテの筋肉礼賛が過剰なCM・・・・・くらいしか思い付きませんよね。

とくに近現代以降の男性のビジュアルってほんとに貧しい評価軸でしか評価されてないことが浮き彫りになっていると思います。近代以前のヨーロッパでは、美尻だの脚線美といえば男性のものでしたからね(女性は足を見せられず、スカートで隠すしかなかった)。

男女の肉体美に関する価値づけ、意味づけ、そして豊かな鑑賞眼の有無は、近代以前と近代以降では逆転してしまった、といえるかもしれません。男性のヌードを鑑賞する目は、まったく存在すらできていないのでは、ということに気付いてしまった本でした。

折しも、(男女関係なく)性器/股間の表現をふくむヌードがアートか、否か? という問題は、現代でも、ろくでなし子さんという女性アーティストの表現物が猥褻物として彼女が捕まってしまう出来事があり、ホットな問題でありつづけているんですが。

表現の正当性云々の前に、日本にはもうひとつ問題があります。
「性器を描くと、そこに観客の視線が集中しがちで、よろしくない感情が生まれるからアウト」…という本書にも登場する、検察の人が語ったというヌード表現への倫理感覚は、現代日本でも現役なんでしょうね(※発言は昭和20年代)。

たとえば公園や電車の中にすっ裸の誰かが現れた時に、われわれが絶対に感じる「不都合な感覚」ってのは事実だとおもうんですが。芸術という枠組みがその「不都合な感覚」をどう変えられるかどうか。
おもえばたしかにグレーゾーンなのかもしれません。
表現上の話ではなく、「性器を描くと、そこに観客の視線が集中しがちで、よろしくない感情が生まれるからアウト」とされてしまうと、それが「事実」だからです。

いずれにせよ、ライトにまとめられた本の行間から

そもそも、なぜ私たちは裸を描くのか。裸で表現せねばならない何かがあるのか?

・・・・というようなことをもっと突き詰めて考えねばならないんじゃーないの
、と。

そういう点で、すっごく考えさせられてしまった一冊でした。
例の難波孫次郎の彫刻は戦後、昭和中期の勃興していく男性中心の働き手の社会のありかたを表現するのに、三島さんの三倍くらい筋肉のある男性が最適のモデルとして使われた・・・ということは分かりましたが・・・。






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by horiehiroki | 2015-01-27 12:10 | 読書 | Comments(1)

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與那覇潤(よなは じゅん)さんは1979年生まれ。僕と同世代(彼が二歳年下)の歴史学者さんだそうです。

こちらの「中国化する日本」という本の著者であるということを、先日の新聞広告で知り、なんとなしに興味を持って開いたところ、なるほど、なかなか面白い本でした。

まず、本の題名にもなっており、本文でも何回も出てくるキーワードの「中国化」ですが、これはある意味、誤読→炎上してでも一般化するよう、狙って付けられたものだと感じましたw

與那覇氏による中国化、という言葉の説明を、僕が理解できた範囲で書いていくと、

階級の頂点にたつ為政者(中国の場合は皇帝)が、
側近たちを、その実力をはかる試験(中国の場合は科挙)によって、徹底的に、選ぶ社会。・・・のことです。

その中央集権型国家が、その後の中国はもちろん、全世界的な当地のルールになっていく、と。

えーと、たとえば唐の時代にも科挙はありましたが、名門貴族のお坊ちゃまなどには抜け道がありました(その一方で、貴族の御曹司にまじり、白居易のように低い身分から難しい試験に合格、官僚詩人になったというような例もありますよね)。

そういう手合いの貴族勢力がリストラされたのが宋時代以降の中国王朝である、と。

ようするに門地とか家柄とか関係なく、誰でも、実力一本、試験の出来だけで選ばれる、という前提を作ってしまったということ。かくして側近たちの地位の世襲はほぼなくなり、同時に、階級の頂点にたつ為政者の地位は世襲ではあるが、民衆から罷免されれば、首のすげ替えが可能(革命)。


本書の感覚でいえば、現在のアメリカの大統領制と、「ぼくはエリートになる!」という自由意思と、学力選抜によるエリート選出のシステムも「中国化」されたもの、だといえるよね、というようなのが與那覇氏の発想です(なお、実際的な”影響関係”の有無について議論は、ナシ。「中国化」とはある種の社会がゆきつく先の一つだから、文化、文明をとわず、どこの社会でも「中国化」にいきつきうるのだ、というようなイメージで全体的に論がすすめられている

中央集権国家ということにプラスで、われわれが自由主義的とかなんとかよんでいたソレは、もともとヨーロッパ近代などよりも以前の中国の宋の時代にうまれ、その中国文化の中で歴代、極端なまでに実行されていたシステムであり、こういう社会のあり方を「中国化」と呼んでもいいんじゃないの・・・・・と、そういうイメージの論調だと思います。


が、

その中国で20世紀初頭までおこなわれていたエリート選抜の科挙の試験内容は、「複雑なルールに支配された漢詩の作り方」を丸暗記出来ているかどうか・・・というようなことでして。政治論でも経済論でもなんでもない。

ホントにその試験内容がエリート選抜システムとして実用的だったか・・・というようなことなど、細密な部分にはこの本は「ポップにして真摯、大胆にして正統的」、さらに「(歴史を理解するための)新しいストーリーを描きなおす」・・・というようなことを目的としてるので、ほとんど触れられてはいないようです。

だから「中国化」という言葉は全てを包括する概念というより、思索を深めるため鍵、文字通りのキーワード、として考えられるべきです。

ここで思うのは、科挙・・・ほどではないにしても、一昔前までやたらと厳しかった受験戦争というようなツメコミ型の試験で合格できる人材というのは、為政者にとってもっともコントロールしやすい性質をもってるんですよね、という点。

実生活から乖離した無意味におもえることですら、目標をたてて、長年、がんばって勉強して、鬱にもならずにマスターできる・・・というような。

だから宋から清までの中国の王朝が科挙を使い続けた(元の時代に一時的にストップされたにせよ)、その理由は、その試験内容とその試験を切り抜けた合格者が、いろんな建前を抜きにしていうと、為政者にはもっとも使いやすいタイプだったんでしょうね。

羊のように従順で、あたえられたタスクを文句も言わずにこなしてくれる。政治を志してる人材なのに試験内容は詩学で選抜されてしまうという前提が、なにより買い手(為政者)の利益しか考慮していない。
それが優秀な政治家は芸術家でもあるべきだ、という美名で覆い隠されているだけ。

主権者が、自分の仕事を助ける、最優秀の歯車を探しているにすぎないということですね。それが権力一局集中時代における登用試験・科挙のもっていた本当の意味だ、と。

(ちなみに日本では装束や儀式の知識の深いひとが低い身分から出世したりもしましたので、この手の登用制がまったくなかったわけではないです)



宋の時代は我が国でいえば平清盛・後白河法皇がタッグをくんで「新しい世をつくろう」としていた時代で、ちょうどこの時代、我が国では院政という(天皇経験者の称号のひとつである「院」たちのうち、特に有力なひとりの「院」が政治の実権を握り、現役天皇や朝廷、その他をグイグイ動かす)政治形態がスタートしています。で、これを與那覇氏は、(宋との)経済活動のため、というようなことを言っています。

たしかに後白河は、規則にしばられる天皇の身分であれば会ったりできなかった外国からの客人に、身分は上皇となることで、直接面会できたりしていますよね。

ただし、こちらも「日本社会の”中国化”が計られた」という、単純明快な結果が多く見受けられるわけでもなく、例えばこの院政時代、「中国化」が徹底されていく中で排除されねばならない、貴族の財政基盤・・・つまり荘園制ですね。
こちらが摂関家を頂点とする貴族層から、天皇家に戻っていったというような背景は見逃せません

律令制度では日本国のモノであった土地が貴族の財政基盤を支える、”私物”と化したのが”荘園”。それが皇室・皇族の財産にきりかわったのが”皇室領”。

また、後白河はブレーンだった信西らに「まれに見る愚かな君主」という酷い評を、即位前も即位後も下されています。信西らはホントに「中国化」を進めたかったのかもしれないけれど、後白河は、いきすぎた財力・権力・政治的発言力をもつようになってしまった”摂関家”など門閥貴族に対し、主君として「維新(リストレーション)」を行いたかっただけ、ということだったとも思えますが。

(理想よりも、現実的な整合性を重んじる君主判断の結果ともいえる)


そもそもこの本にも書いてあるように、摂政・関白などという当時の宮廷社会を牛耳っていた地位自体が、古代日本で定められた「律令」には存在してない「令外官(りょうげのかん)」だったという事実も考えねばならないですね。

・・・・というようなことがどんどんと思い浮かんでくるほど、この本を読むことは非常に面白いんだけど、同時に、日本社会の「中国化」ができない理由。日本社会と「中国化」の相性の悪さ・・・というようなこともどんどん浮き彫りになっていくんですよねー。

「中国化」のひとつの条件である、門閥貴族のリストラという側面に象徴されるあれこれが、圧倒的に日本では受け入れられにくかったことがあると思いますね。

たとえば中国では百姓といえば全ての人々を指す単語だったりしますよね。劉という姓を持つ貧しい農婦が自分はその姓ゆえに漢王朝の為政者の末裔であり云々・・・・というような冒険をはじめてしまうのが中国です。またこの「中国化~」という本にも述べられていたように、中国には「父方の姓」が同じひとを助け合うという互助システムがあったとかなんとか。

日本でいえば「姓」の代わりに「名字」ともいうべきものが、それこそ院政時代以降、主流になっていきます。
「藤原」の一族として、ではなく、その一族における「近衛」とか「鷹司」の違いが日本文化では大きく捉えられる。
「源」の一族っていっても、「足利」と「徳川」ではまったく違うでしょう?

それは頂点の身分の人々だけでなく、庶民の場合でも同じか、と。村の大半がおなじ名字の家族しかいないところでも、ウチのおじいちゃんはやっぱりウチのおじいちゃん、って感覚ですわな。

たぶん日本では個々人が所属する「ある程度の大きさの団体(家、会社、●●といった住宅地)とか、目に見えたり肌身に感じられる単位のほうが重要であるという感覚が非常に、非常につよく、「姓」というような対象が大きく、大きすぎる基準を重要視することは難しいのだ、と。

いっぽうで「姓」という大きな単位を信じ、それによって優勢を保証されていると思っていられるからか、実際、中国の方の「個」の強さ・・・自分という「個」への信頼感はすさまじいなぁ、すごいなぁ、と思うことありますよ。

たとえば技術的な翻訳をやってる中国から来た人に、僕は、「おまえの日本語はヘタクソ」と怒られたことがあります(笑
先祖の話になると、だいたい皇帝がでてくるし。

たぶん、これ、他の国では、絶対にありえない感覚だと思うんですよね……。
そのカタマリみたいなのが「中華」という思想です。
まぁ、どこの国の文化も自分が世界の真ん中という感覚を持ってはいます。でも中国ほど、大々的に打ち出している文化国家は少ないのではないでしょうか・・・(そもそも中華人民共和国って名前になってるし)。

というようなことをツラツラと考えて、まだ本の途中でありますが、ショーゲキが勝ったのでブログのネタにしましたとさ。

・・・と久しぶりに歴ヲタ系の話題でスイマセn

→最後までザックリ読みましたが、與那覇氏のウリは徹底してニュートラルな視点、ということでしょうね。
たとえば明治維新について語るとなると、旧幕側と新政府側の二派に必ず、書き手は別れてこれまで言説を展開することが多いです(そしてそれはおうおうにして、語り手の祖先の立ち位置を踏襲している)。

ところが與那覇氏は徹底して、そういう血縁的文脈から離れて歴史を見ようとします。ちょうど外国人が日本史をみるように、ドロドロした「私怨の日本史」からは離れようとしている。遠いところから、原理/原則というようなものを見つけるがために歴史の細部に触れているという印象がある。これがウリなんです。


続きは、近日公開予定。



by horiehiroki | 2015-01-25 10:24 | 読書 | Comments(0)