カテゴリ:歴史・文化( 49 )

東照宮の本殿内の歌仙図

東照宮の本殿内には、なぜか歌仙図が飾られています。
日光東照宮の方にうかがったところ、全国の東照宮でも主だったところは飾っている、とのこと。
参考
日光の本殿の絵は後水尾天皇などが寄贈なさっており、それらが後に「錦の御旗」となり、
明治時代になってからの破壊を免れた
ということもわかりました、が、
「なぜ」歌仙図があるかということはよくわかりませんでした。

しかし最近、「披沙揀金(ひさかんきん)」(全国東照宮連合会・編)に「駿府記」をソースとして、下のような
記事が掲載されていることを偶然しりました。

e0253932_431419.jpg


慶長19年~20年は大阪の陣があったころで、そのさなかにわざわざ徳川家康が冷泉家から人を呼んで、定家の自筆本(三十六人歌仙)を鑑賞する……というような記事(など)が出ています。文字はヒトなりの伝統が日本にもありますが、豊臣秀次時代から過去の文化人の自筆を鑑賞あるいは入手することが、大いに流行っていました。

家康の場合は、貼り付けた画像にもあるように、この直後に、源氏物語や伊勢物語なども鑑賞・講釈をうけています。
(あんまり関係なさそうですが)源氏物語を京都の由緒ただしい文化人の方々から直接受けることが、ステイタス。源氏の棟梁・征夷大将軍の証をとおりこし、天下を統べる者としての条件!というように自分をも祭り上げようとしていた……ということは有名です。

やはり、こういう文脈の中で、三十六歌仙の作や肖像画に宗教的な祈り・意味がこめられていき、東照宮の本殿にも飾られるようになったのでしょうね。もしかしたらその定家自筆本の三十六歌仙と、東照宮内殿の歌は符号しているのかも、しれません。あとは家康の具体的な感想があればさらに面白いのですが……

ただし、このように冷泉家の資料も持ち出したりしているうちに散逸することが危惧され、ほかならぬ二代将軍・秀忠の命令で冷泉家の蔵は閉じられて、本当に限られた人・機会しか見ることができなくなりました。

このことは大いに家の恥とされたようで、冷泉家をふくむ内外に当時のことを知る資料は残されていないようです。日本は恥に敏感ですから、そういうことについては一切データーを残さないようにしてしまいます。
たとえば12月中に発見された、本願時での浅野内匠頭乱心を知り、その背景について寺側がもっと知ろうと指示を出した記録自体はあっても、そのレポートは残されていません。
最後、余談でした。



征夷大将軍になる前後にもたし忙しい時にも
by horiehiroki | 2016-12-26 10:51 | 歴史・文化 | Comments(0)

13日のすみだ女性センターの講座内容で、清少納言の女房ライフについて触れた時、
参考資料に下のような枕草子の一節を使わせていただきました。


(二五二段)…「たのもしきもの」に医者は含まれないことの意味

 たのもしきもの  心地あしきころ、僧あまたして修法したる、思ふ人の心地あしきころ、眞にたのもしき人の言ひ慰めたのめたる。物おそろしき折の親どものかたはら。



・・・として、(大霊界の丹波先生のご先祖が編纂なさった、長年宮中秘蔵の医学書)医心方におけるビックリ処方についてお話をしたり(首つりしてもハナの穴に血がでるまで青ネギつっこめば生き返るよ!的な)してましたけど、実はこの時、僕、実は歯がビミョーに痛かったのでした(原因不明)

三〇五段)病を巡って清少納言の独特な審美眼炸裂

 やまひは  胸。物怪(もののけ)。脚氣(あしのけ)。唯そこはかとなく物食はぬ。
 十八九ばかりの人の、髮いと麗しくて、たけばかりすそふさやかなるが、いとよく肥えて、いみじう色しろう、顏あいぎやうづき、よしと見ゆるが、齒をいみじく病みまどひて、額髮もしとどに泣きぬらし、髮の亂れかかるも知らず、面赤くて抑へ居たるこそをかしけれ。

・・・後略・・・


で、いまは奥歯などの痛みの原因がなんとなくわかってきたんですが、歯ぎしりと外耳炎の混合要因っぽいんですねぇ。現在でもそうですけど、誰がどうみても悪いところがわかる症状(転けた、とか)意外は、隠れたビョーキといえる症状だとおもうんです。
かんたんに検査や視診ではわからない、隠れたビョーキは医者が見つけてくれて医者が治してくれるものというより、患者が色々と知識、意見をもってエキスパートの医者の判断を請うというのが一番で、そういうことを許してくれる先生がベストだと僕は思うのです、が(今回はまさにそういう方々に助けてもらえそうです)・・・・・・・・・

清少納言は枕草子で「歯が痛い美女の様、そのもの自体が、萌える」というように書いてはいるけど、古代中国経由の美意識で、歯の痛みをこらえて笑ってみせる美女の姿がイイ!(『後漢書』)なんて要素を、ある程度踏襲しているともいわれるんですね。

あと、枕草子では胸を病んでヲエッてなってる女性が寝てられずに起き上がる姿が◎、なんて続くんですが、これも西施という伝説の古代中国の美女が胸を病み、苦しんでいる様がセクシーだったとかなんとかいう記述を踏襲させているともいわれます。

・・・・・・で、元気な時はこういうことをよんでも「ヘンなセンス!」としか思えず、その時、自分は歯の痛みが緩んでましたので、そういう風に講座でもご紹介いたしました。
ところが、現在は、なんとなくわかります。虫歯そのものが、というより虫歯をかかえた人特有の行動様式がイイってことですね。
たとえば話とびますが、江戸時代後期の和宮さんと夫・徳川家茂は砂糖菓子が大好きで、歯という歯の大半がすさまじい虫歯だということが判明しています。気分は滅入りがちだけでなく、食べることに執着はなくなってきますよね。絶対に。

江戸時代以前、平安時代なんかの高貴な人は江戸時代以上に深刻な歯のトラブルばかりだったのではないでしょうか。むしろ歯は熔けて黒いほうがいい!なんて書いてある書物もありますが(お歯黒と虫歯の違いがわかってないというわけでもなく)、いくつになってもノーテンキに元気より、アンニュイに病んでる要素があったほうがセクシーという価値観に近い気がします。
アダルティは痛みと共に、というか。
そもそも口内ケアの技術が現在とは比べものにならないくらいに低かったであろう当時(いくら塩や重曹で歯磨きは十分っても)「虫歯ゼロ!」とかの人のほうが絶対に少ないとおもうんです。
ある程度の年齢以上になるとみんな歯の深刻な不調を抱え、当然、食べたりすることに興味がなくなっていったのは容易に想像されるのです。
結局、源氏物語なんかでも枕草子でも「食べる」ということがほとんど出てこないのは(出てきても、あまづら・・・甘いシロップをかけた氷が◎とか・・・沁みたかもしれないけど、さほど硬くないものがよろこばれたりしているのは、そういうお口の事情があるんじゃないでしょうか。

そもそも歯の痛みの原因は複雑です。1月くらいからあったんだけど、痛くなったりまったく痛くなくなったりのくりかえしで、引越てからはかかりつけの歯医者を見つけられていないこともあって、放置気味だったんですよねー…

しかし、その後、異変がおきます。
墨田区でのトークショー終わりまして、あ、そろそろ確定申告の仕上げをしなくちゃ!!ということだったんですが。これには苦しめられました。
夜2時くらいからはじめて、あまりのトラブル発生多数に飲まず、食わず、寝ずで、次の日の午後4時までかけて、苦心惨憺なやりくりがおこなわれました。

その後、歯が・・・とさらに側の顔やら頭やら首、肩までジンジンずきずき痛み始めたのでございますよ。

実際、自分が歯が痛くなると、ご飯があんまり美味しくない。食欲はあるにはあるけど、なんとなく億劫・・・ってなるとやっぱり食べなくなるんです。食べないとやっぱり痩せてきます。考え方もなんとなく鬱っぽくなって、悲観的になります。
古代中国も清少納言のセンスも、そういう人だけが放つ「何か」に注目しているのでしょう。

・・・と同時に「たのもしきもの」に医者がチョイスされていないところに、いまも昔も医者選びのむずかしさってあったんだろうなぁと歯医者探しに四苦八苦したものとしては同感せずにはいられません。

結局歯医者では新たなる虫歯が発見され、その治療が思っていた以上にハードボイルドだったもので、行くまでは痛くなかった左側の歯やら歯茎やら鼻の奥やら耳の奥までがズーンズーンと爆発しそうになってきました。もともと耳も違和感あったといえばあったんですけど、歯のほが痛くなってきたんですよねーーー・・・・


それでようやく、どうやらこれは耳らしいということに気付いたので、耳鼻科にすべりここんできました。診断は外耳炎というやつで、現在は一日三度の内服薬にくわえ、目薬ボトルに入ったお薬を耳の穴に数回垂らし続けております・・・。
外耳炎はストレスによっていっそう痛みが激しくなるのだそうで、色々とツジツマはついているようです。
歯医者の治療も行っていただいてもやはりストレスフルなものであることは間違いなく、治療しなかった側がグイグイ痛くなってきたのは失笑してしまいましたが。
by horiehiroki | 2016-02-19 12:41 | 歴史・文化 | Comments(0)

真田丸にツメを噛む徳川さんが出てきたからか、日光関連記事にアクセスが来てるようです。
日光は関東の誇る文化遺産ですから、行くまでにもうイヤだ!となってもらいたくないです。
そのためには確実に知っておくべきことがあるのであらたに記事を書いておきます。

日光に行くには「東武の株主優待チケットを使うのが一番!」という記事がたくさん出ていますが、それは場合によります。都内東部、たとえば浅草などから東武急行で日光を目指す場合「のみ」、お得です

浅草がとおい都内西部から日光を目指す場合、JRの駅(新宿・池袋など)から、JRの線路をつかって、本来は東武の電車であるスペーシアの類に乗ること「は」できるんですね。

しかし……都内西部のJR駅から一番安く、なおかつラクに行けるのは、東武の株主優待チケットではありません!

絶対にチケ屋などで買わないようにしてください。理由は後でいいます。

買うべきはJRの緑の窓口などで販売している「JR・東武 日光・鬼怒川往復きっぷ」(2015年時の名称)です。

絶対にこれを守ってください。

■買ってはいけない理由

JR駅周辺のチケ屋がネットの情報を鵜呑みにしてくる客をカモにするため、
けっこうな値段に株主優待券をつりあげてました。オンシーズン中は1枚1000円などで売っていて、
品薄で~ とか言いますが、とんでもないボッタクリ価格です。逆に損するくらいです。
価格でトクした!!と思いたいのならば、だいたい500円くらいで買わないとお得感はないと思います。
高くても700円程度。

しかしさらに買ってはいけない理由がありました。
重要なことですが、JRの駅員がまったく対応できてませんでした。

聞いたらややこしいみたいなんですけどね。
確かに日光まで直通にはなってて
JRの線路で○○駅まではいくんだけど、そこから東武の線路に切りかわるから
車掌その他スタッフ全員入れ替えになってうんぬんかんぬん。

東武の線路では株主優待チケは使えるんだけど、
起点がJRの駅だから、JRの改札を使ってホームにいかねばならない。
その改札が、東武の改札みたいに優待チケに対応してないんですって。
こういう時のために緑の窓口があると思うでしょ。
でもここでも驚愕させられたけど
ある人に聞いたら大丈夫、でも違う時にまた違う人に念のためにきいたら
「ダメです! 東武にきいてください!
東武の電車なんで!ウチは関係ないんで一切しらべませんし!」と突っぱねられる…という具合で、
めちゃくちゃでした。
それも役付きの人間が知らない、それどころか調べようともせずに全面拒否するという恐るべき対応をしました。
知識がないこともあるでしょうが(それでも客を乗せるのが仕事の人間がなんで対応してないのかって話だとおもうんですけどね)、客のために調べようとしないというのは凄かったなぁ。

運営が決めたことに、現場が対応しきれてないという、サービス乱立でスタッフが混乱しまくってるケータイショップみたいな状態でした。ほら、叔父が亡くなったのでケータイを解約しようとしたら「ご本人様以外はご解約できません!」って堂々と突っぱねられたっていう話と同類の狂気を感じました。

以上の理由で

サービスとして完全に破綻しているので間違えても都内西部のJR駅から
スペーシアなどで日光をめざす際、東武の株主優待チケットは(たとえあなたが株主であろうが使わないようにしてくださいね。

JR駅から「どうしても株主チケをつかいたいのだ!」という方は下手したら、
目的の電車に乗れないまま、1日に四便しかない電車がいってしまう場合あるだろうなーって
いうくらいにとんちんかんな対応もされることを覚悟してください。まったくオススメできませんが。


by horiehiroki | 2016-01-11 03:20 | 歴史・文化 | Comments(0)

華厳の滝



音と映像で華厳の滝のパワーを体感ください
一人で見てると、風もないのに帽子を押さえたり、ポケットの中のスマホなどがすいこまれていく妄想にとらわれました笑
うちのデジカメでも色々映せるようなので、気が向いたら撮影、動画つくりなどしてみます

by horiehiroki | 2015-12-09 03:08 | 歴史・文化 | Comments(0)


歩行に不安のある方を連れて東照宮にあえてお参りしたい!という場合に手助けとなるであろう情報を残しておきます
日光・東照宮は↓の石の鳥居を見るだけでも、あるいはその側の五重塔を見るだけでもついにやって来たぞー!という感慨は
あるはずですので、足が不自由な方と旅行する場合は以下のルートをたどるといいかもしれません。
e0253932_01495106.jpg
地図を載せてみました ※画像はクリックで多少、大きくなります


e0253932_03090870.jpg

舗装された、ゆるやかな坂道がおおく、なるべく階段が少ない道となると、このルートが最適かと思われました。
ネット上では、あまり年配者には向かない…というようなアドバイスしか得られないのですが(あるいはボランティアの方を頼んだ方がイイとか)ある程度は歩ける人の場合、以下のルートで鳥居。社務所あたりまでは、大きな無理をすることなく、到着できます

(社務所で申告すれば、社員さんの通用口を通り、東照宮の”本部”に入ることはできます。さらに雰囲気を掴むことは出来るかとは思います。……が、肝心の部分、たとえば薬師院の「鳴き龍」とか、「本殿」とかにはさらなる階段を上らねばならず、それを手助けしてくださる設備などはないため、「それだけに」1500円払う価値があるかどうかは……どうでしょうねぇ)


行き道は赤、帰り道は青です。
日光駅の観光案内所などでは、基本的に世界遺産巡りバスの「西参道」「表参道」の停留所をオススメされるかと思いますが、参道は砂利の敷き詰められたゆるやかな坂道ですので、距離的には近くても、シルバーカーの方にはキツイはずです。
ネットには出てきませんが、85番(だったけ)の世界遺産巡りバスの停留所がホテル清晃苑の前にありまして、その坂を登って……というように地図のルートをたどられると一番スムーズかな、と思いました。
帰りは宝物館を向かって右にいくと、10段ほどで、かなり痛んでますが、石段を下りてゆるやかな坂道をくだってバス停までたどり着けます。いちおう15分感覚のようですが、季節が悪い時は湿度が高く温度も低いため、非常に冷えます。降りた時に時間を写メなどしておいて、宝物殿のカフェ(上島珈琲店)で時間を調整して向かうことをオススメします。ほぼ時間通りにバスは来るようです(秋などのオンシーズンでは時刻通りの運行は無理。日光駅から東照宮はオフシーズンでは15分くらいですが、紅葉などのオンシーズン時には1時間もかかる大渋滞とバスの運転手さんがいっていたので)

ここで注意して欲しいのは、ネットで検索しても、この「ホテル清晃苑前」の停留所の時刻表は出てこないんですねぇ。
宝物殿あたりは電波がひじょーに悪いため、電話したりネットに接続することが難しかったです(ワイモバイルだからかも)。
世界遺産巡りバスは循環型の乗り物ですので、行きも帰りも同じバス停です。時刻表の写メを御すすめいたします。

また……
東照宮および大猷院(輪王寺など)から奥日光に向かう際のいちばん最寄りのバス停は、西参道となります。
しかし、世界遺産巡りバスの西参道のバス停「西参道」から、それ以外のバス、中善寺温泉フリーパスのとまるバス停「西参道」は別モノです。
案内などでは「ちょっと国道にむかって行きます」「みなさん歩く距離です」みたいに言われますが、シルバーカーなど押してる人には、かなりの距離だとおもいました。

奥日光など、山を越えて向かう場合…
世界遺産巡りバスで、東武日光駅あるいはJR日光駅に戻って、始点から中善寺温泉フリーパスなどにお乗りになったほうがいいです。循環バスで時間かかるっていっても、そこまでロスにはなりません。
そもそもその手の奥日光行きなどのバスは30分に1本程度です。何となくバスにのってるととんでもない空き時間が生まれるので注意です!ちなみに奥日光には湯本温泉行きのバスでも着けますが。

当初、そんなにバス乗らないんじゃないかとおもってましたが、足の悪い親と一緒なので乗りまくることになりました。2日有効のフリーパスはお得です(12月1日からのオフシーズンは、半額になって、しかも3日OKだったかな…)。

奥日光は日光駅から1時間くらいはかかりますが、スポットとしては大変にオススメです。
秋冬は平野部でいう厳冬時期と同じくらいに朝昼晩、ずーーーっと寒いですが……。そのぶん空気が澄んでおります。いろは坂を登る時、晩秋には晩秋の魅力がありました。奥日光からさらに戦国が原とかあのあたりを目指すとさらによいかもしれません。

また日光駅から東照宮を目指すまでのルートがいちばん混雑しているので、足の悪い人は始点からぜったいに乗るようにしてください。時間帯にして午後早い時間くらいは(紅葉がほぼ終わった、オフシーズンはじめあたりでも)バス内は人でパンパン、立ってる人でギュウギュウだったりしましたから!


■おまけ 都内西部から、日光に行く場合■

日光に行くには「東武の株主優待チケットを使うのが一番!」というのは違います。
都内東部、たとえば浅草などから東武急行で
日光を目指す場合「のみ」です。
浅草がとおい都内西部から日光を目指す場合、
JRの駅(新宿・池袋など)から、
JRの線路をつかって、本来は東武の電車であるスペーシアの類に乗ること「は」できます。
一日4便ほど出ています。しかし……都内西部のJR駅から一番安く、なおかつラクに行けるのは、
東武の株主優待チケットではありません!
絶対にチケ屋などで買わないようにしてください。

買うべきはJRの緑の窓口などで販売している「JR・東武 日光・鬼怒川往復きっぷ」(2015年時の名称)です。
絶対にこれを守ってください。

JR駅周辺のチケ屋がネットの情報を鵜呑みにしてくる客をカモにするため、
けっこうな値段に株主優待券をつりあげてました。
この時点でトクなどにはなりません。逆に損するくらいです。

さらに重要なことに、JRの駅員がまったく対応できてませんでした。

聞いたらややこしいみたいなんですけどね。
でも客を乗せるのが仕事の人間がなんで対応してないのかって
話だとおもうんですけど。
たとえば確かに日光まで直通にはなってて
JRの線路で○○駅まではいくんだけど、そこから東武の線路に切りかわるから
車掌その他スタッフ全員入れ替えになってうんぬんかんぬん。

東武の線路では株主優待チケは使えるんだけど、
起点がJRの駅だから、JRの改札を使ってホームにいかねばならない。
その改札が、東武の改札みたいに優待チケに対応してないんですって。
こういう時のために緑の窓口があると思うでしょ。
でもここでも驚愕させられたけど
ある人に聞いたら大丈夫、でも違う時にまた違う人に念のためにきいたら
「ダメです! 東武にきいてください!
東武の電車なんで!ウチは関係ないんで一切しらべませんし!」と突っぱねられる…という具合で、
めちゃくちゃでした。
それも役付きの人間が知らないという恐るべき事態。
たぶん運営が決めてることに、現場の人間が対応しきれてないという状態のようです。
サービスとして完全に破綻してるので、間違えても使わないようにしてくださいね。


by horiehiroki | 2015-12-08 03:09 | 歴史・文化 | Comments(0)

華厳の滝です
e0253932_01445200.jpg
e0253932_01453513.jpg


落ちる水が作る影がゆらゆらと崖に映っていて
本当に生き物みたいなのです…
e0253932_01461476.jpg

北欧の春ってこんなのかなぁと想像とする木立(実際は奥日光の晩秋)

e0253932_01495106.jpg

そしてついに東照宮にたどり着きました。小学生の時いらいの参詣となります…
本来ならここから旅をはじめるべきなのですが、30日までが
大猷院の位牌公開かと思い込んでいたので…

e0253932_01495811.jpg

石の鳥居ですが、こうやっていくつものパーツに分けて作られているのは
災害対策だそうです。一枚岩ですると、地震でポキッと折れてしまいやすくなるため、
それを避ける工夫だとか。
これで関東大震災の時も、この前の震災のときも
まったく揺らぎすらなかったとのことです…
e0253932_01524238.jpg

こちらは五重塔です。関西の五重塔より小ぶりなのは、日光という立地上、
積雪の害をこうむりやすいからだとか。しかし美しく色彩が保たれています(現在も修復中)

さて、門の側でチケットを買います。1500円だったかなぁ。
現在全面的に修復中なのですが、予算の半分以上を自力で賄わねばならないらしく(何億円分も)
往事のように鷹揚にかまえてはいられない…というのが張り紙からも分かりました。

e0253932_02180303.jpg

陽明門は修復中でしたが、1796年に装飾用の浮き彫りで覆われ隠れてしまっていた(家光公の時代の)壁画が
約200年ぶりに公開されているのを目にできるというチャンスもあります。精密かつ迫力があります

e0253932_02165733.jpg

これはつがいのキジの絵ですね。鶴の親子のちょうど裏側にあります。
e0253932_02084386.jpg

さて、陽明門をくぐり(みざるいわざるきかざる・・・などなどをスペースの都合上すっとばしましたが)
修復が進んでいる本宮あたりの門です。どういうレベルにまで修復するかは歴史的建造物の場合
重要なのですが、金がピカピカに輝く真新しい感じになっています。
ちょっと東南アジアっぽくもありますが、神々しさはあります。
この時もピカーッと午後の輝きに屋根の一部が輝いていました。

こちらの門の奥に、本殿内陣があります。
(写真撮影不可なので画像はありませんが・・・)
もともと「東照宮」とか「東照大権現」といった御神号を書いてくださったのは後水尾天皇だそうです。
また、本殿内陣の左右の壁にずらーっと三十六歌仙とその歌の絵図が並んでいるのが目にとまりました。
紀貫之や中務などの和歌が、代表作とはまた違う観点から選ばれていることもあり、そもそも東照宮に
「なぜ三十六歌仙図が?!」と思われ、東照宮の方に聞いたところ、詳しく教えてくださいました。
こちらの絵を贈ってくれたのも後水尾天皇だそうで、こういう経緯を受け、三十六歌仙の絵図は
ほぼ全ての(全国の)東照宮に飾られているのだそうです。
後水尾天皇といえば幕府と権力闘争を繰り広げた方のイメージがあり、それは
実際に間違いではないのですが、実際のところ、三代・家光公の妹・和子(まさこ)を
中宮(東福門院)として、徳川家とは親戚関係にある方でした。
ということで、特に、という強い意思があって贈られたのが三十六歌仙図であり、それを
全国の東照宮、および大名方の作られた神社では真似る……ということがあったそうです。
また、この三十六歌仙図があるということは、十四代・家茂の正室として和宮が嫁いできたという
事実もあって、明治維新以降、神仏分離などの施策によって生まれた、東照宮存続の危機を救ってくれる
「錦の御旗」となったようです。このあたり、興味深いのでもう少し自分で自由研究してみる予定です。

e0253932_02221991.jpg
e0253932_02422281.jpg

こちらは本宮のワキにある、有名な「眠り猫」の浮き彫りのある門で、家康公の墓所である奥宮までつづく急な階段のはじまりでもあります(門をくぐる際、天井には牡丹とポンポン菊と思しい浮き彫りが施されたパネルが張ってあるのに気付きました!)
e0253932_02220268.jpg

こちらは一枚岩を切り出して作られた階段ですが、まったく傾き、揺らぎがありません。
もともと江戸時代は将軍本人しか参詣がゆるされていなかった奥宮に昇ります
(将軍は足腰が達者でないと勤まりません…)
さすがに一気にのぼるのはしんどいものがありました。
日光関係で前々からキツイと脅されていた階段・坂ですが、この階段だけはちょっと大変でした。


e0253932_02252349.jpg

こちらは奥宮の鳥居です。よくみると市松紋様になっており、なかなか他ではみられないデザインでクールです!

e0253932_02252911.jpg

こちらは奥宮内の門です。もともとは家康公の御遺体をまもる木造の建築もあったようですが、すでに綱吉公の時代、老朽化してしまったらしく(気候の問題?)、綱吉公の発案で金属に黒漆を塗布したシックかつ荘厳な建物に変わりました。

家康公の宝塔については、信仰上の理由で写真をのっけることは自粛しておきます。

e0253932_02281632.jpg

こちらの金属製の灯籠ですが、伊達政宗公が外国から取り寄せた素材で作られたものだそうです。
そして奉納されたのですが……フツーは徳川の紋を入れるんですね。
しかし、政宗公は(家光公と親密であり、尊敬もされていたこともあって)
この灯籠に徳川の葵紋はありません。それどころか政宗自身のシンボルである三日月が付いていて、いろんな力関係が彷彿としています。面白かったですね…。

e0253932_02303262.jpg

(ちょうど参道はさんで隣にある島津家から奉納された灯籠にはちゃんと徳川の紋が……笑)

さて、いろいろと書いてきましたが、実際にお参りになる方の参考になるかな…と思われることを最後に。

e0253932_01541499.jpg

色々聞いてたのですが、華厳の滝などにくらべ、バリアフリーは施設の立地上(さらに世界遺産登録を受けた以上)なかなか進んでいない(進められない)のが東照宮およびその近隣施設の現状のようです。

たとえば、事前に調べたところでは、職員さん用の通用門を通ることで数多い階段を、足の悪いヒトでもある程度は避ける裏道があり、それはチケットを売っている社務所に問い合わせればよいです、とのことでした。

しかし現地で聞いてみたところこちらの入り口の門(これ以降が有料)に昇る階段10何段をパスできる(それも坂道を登ったところにある通用口までいかねばならない)という「だけ」で、あとは完全に自力で上り下りしなくてはならない……とのことでした。

また、参道は完全に砂利道(天候対策上仕方ないですけど)なので、車椅子・シルバーカーだとけっこう辛いですね。左右に舗装された道があればよいのですが…。

うすぐらい杉木立の山麓に突如、輝きにみちた寺院群が現れる!という意図で作られた、日光東照宮の伝統的なすばらしさを損なわないよう、しかしなんらかのカタチでバリアフリーが充実するよう願います。

東照宮には(神社の方とお話させていただいたのですが)明治維新以降、朝敵にされていた時期があることもあり、なにかと目のカタキにされ、その後は外国人の意見もあり「けばけばしい」とか、本来の美的目的をはずれた見地からの批評=風評被害を被り続けた経緯がありまして、桂離宮などにくらべると美的には軽視されている傾向が(すくなくとも一般的には)あるようです。

足腰わるくなった老年の方はそういうことを信じ込まされた世代ですから、どうか御自身の目でそれが誤りであることに気付いてほしいと思いました。
実際に久しぶりに今回訪問してみて、東照宮およびその周辺寺院は、客観的に見て、それだけでも京都(の一部)に及ぶくら
い、美的な満足感をあたえうるパワーをもつ、すばらしい施設であることがわかりましたから。東照宮は関東の宝ですね……。○○跡というだけでなく、史跡そのものに、しかもそれが完全に近いクオリティで接することができるのは最大の魅力です。


なにかといえばすぐにチケット購入所の看板が出てくるという事態に、「むかしはこんなことなかった!!」と年配の参拝客にはショックをうける人も少なからずいました。理由あってのことだとおもいますが。

一律1500円という方式で、これで施設内のすべてを見学できるというようにして確実によかったのは、お参りが完遂できるということです。無料あるいは廉価で入場した場合、なかなか奥宮(家康公墓所、宝塔などが見られる)まで歩いて何百段もある急な階段を昇ろう! という人は少なくなると思いますから。
一律式の難点は、どこまで行けるかどうかが、現地にはじめていく(久しぶりに行く)足の悪いヒトには判断がつきかねて、結局どこも見ないままでほとんど終わってしまうことがある……ということですね。
新設された日光東照宮宝物館にはコーヒーショップも入っており、歩けない人はそこで待っていてもらえますが。
東照宮内にも売店・喫茶施設などありますが、食事を摂らなくても入りやすいというと、こちらに敵うお店は無さそうです……。オフシーズンであれば、さほどは混まないようです!

まぁ、立派な観光地なんですが、どこをどうやっていけば、少しの階段でスロープ・舗装された坂を降りてもらえる…というような情報がほとんどネットには出てないため、難はあるなぁとは思いました。



いずれにせよ都内東部ならばともかく、都内西部からスペーシアだと、飛行機で上海にいったほうが安い(片道4000円代)とかの理由もあり(!)、なかなか行きにくいのが栃木・日光なのですが、なんとか家康公の400年忌のうちにお参りができてよかったです。





by horiehiroki | 2015-12-08 02:31 | 歴史・文化 | Comments(0)

日光までなんとかスケジュールをあけていってきました。

e0253932_09531187.jpg
e0253932_10112496.jpg
「白い貴婦人」といわれるJR日光駅の駅舎です。一枚だけパネルが大猷院あるいは東照宮の天井画にかかれたように龍になっているのがわかるでしょうかー。実に優美な白い建築です。
ちなみに東武日光駅は古き良き昭和って感じです…
日光訪問の主目的ですが、11月30日までが、家康公の御位牌公開の期日だと思い込んでいたのですよ。
が、会場である大猷院に辿り着いたとき、期日は「来年の」11月末までと聞いて倒れそうになりましたw
モダニズム建築をこころざすブルーノ・タウトは、日本人の精神美のあらわれとして桂離宮を例に説明しました。しかし、それはけっきょく西洋起源のモダニズムの価値観でしかないと。そういうことをハッキリと気付く旅でした。
e0253932_09564134.jpg
ずいぶんとオドされていましたが、個人的には階段はあまりしんどくなかったです(東照宮の奥宮につづく階段はさすがに多少アレだったが)

e0253932_09562227.jpg
本殿へと続く門です。壮麗かつ光り輝いています。タイ人の女性旅行者たちも興奮していました。


e0253932_09554506.jpg
赤い部分は艶消しです。(東南アジアの寺院にみるように)全てが全てキラキラがよいとしているわけではないところに、独自の美意識を感じます。

家康公のご位牌は光り輝いて見えました。大猷院の本殿はもともと家光公のご位牌を公開しているのだそうですが、あと1年ほどの間は家康公のご位牌が家光公のものにかわって御目見得…と言うことみたいです。


大猷院は典型的な”権現作り”です。権現作りとは・・・・・・”本殿と拝殿との間を石の間,または相の間という別棟の中殿によって連結した社殿をいうようになった。”

e0253932_07284959.jpg
こちらは家光公の墓所です(非公開)。ちょっと中国風 OR 禅宗風ですね?
e0253932_07285623.jpg
灯籠のカタチがユニークでかわいいです。


e0253932_09590383.jpg
こちらにもお参りしました。色んないわれの杉があるものですね……。


e0253932_09593168.jpg
バスで中禅寺湖に向かいます。男体山はもはや冬です。白い水蒸気のような雲に隠されている部分には真っ白な雪がつもっていました。夜のうちに山の上では少しずつ季節が深まっていくようで、白い雪の部分が増えていったのには驚きました。「

e0253932_10013484.jpg

ホテルは中禅寺湖のほとりにある花庵さんにおじゃましました。素敵な部屋を用意していただきました。
高地からあおぎみる夕陽は朝日よりもまぶしく光り輝き、部屋中が橙色に輝いていました。
ちなみにこれで午後3時位。冬の高原は夜が長いと感じました…

e0253932_10031329.jpg
刻々と光はうつりゆき、山は陰の中に入ります。同時に白銀のように湖面が姿を変えていきます。

e0253932_10041028.jpg

夕べの散歩に出かけました。カイツブリがグゥグゥ独特の声で鳴いていました。また、時代劇の効果音ではないトンビの声を久しぶりに聞けました

e0253932_10052686.jpg

11月30日で中禅寺湖遊覧のフェリーはシーズンオフに入りました。まだ秋の華やぎを残しつつも終わりの日に訪れるというのは一興でした。

e0253932_10063900.jpg
こちらは朝5時の中禅寺湖です。湖面は群青と灰の岩絵の具をとかしたかのような厳しい表情です。
外の気温は0度近く。


e0253932_10084698.jpg
この後、温泉に入り、朝食を摂ったあとで華厳の滝にいきました。天気は良好でいたが、都内の二月、雪晴れの日ような顔の皮膚が裂けるような冷たさと重く冷たい湿度が印象的でした。
e0253932_10091022.jpg

華厳の滝は…小学生の時以来ですが、その時には感じなかった恐ろしさでいっぱいになりました。
まるで白い龍が滝壺にむかって飛び込んでいっているかのようです。
神々しいけれど、その神々しさはほとんど人間の存在など意も解せぬような存在のものでした!




by horiehiroki | 2015-12-05 10:11 | 歴史・文化 | Comments(0)

港区・赤坂で今月末に開催される徳川家康公没後400年記念の
歴史フォーラムでお話させていただくために「徳川家康公没後400年記念まち歩きツアー」(のテスト開催)に参加してきました。→港区の参考サイト
e0253932_09043325.jpg

旧台徳院霊廟惣門(撮影は夏)
戦災被害をかろうじてまぬがれた遺構の一部。
元は別の位置にあった。

e0253932_08590817.jpg

e0253932_08591014.jpg
コースでは最初に見学した御成門。こちらもかつては別の場所にあり、
江戸城から増上寺に将軍が参詣に来たとき、寺内に入る専用の門だった。
将軍は着替えをして、威儀をただして増上寺内に入った。
駅の名前になっているわりにこぢんまりとして、
風化してしまっている…。
黒漆が塗られていたそうだが(一説に)、
風雨にさらされて白っぽくなってしまっている。茶色いのは
おそらく黒漆を美しく見せるのと、耐久性を増させるための下地とおもわれる

e0253932_09020058.jpg
こちらは現在修復中の有章院霊廟二天門。
有章院=徳川家継(七代)
戦災に遭う前はもっと壮麗な建物の一部だった。




ルートにふくまれていた、徳川家重公の菩提を弔うために、葬儀をとりおこなった
増上寺の大僧正によって特別に作られたという
妙定院(みょうじょういん)の見学はとりわけ興味深いものでした。
妙定院は増上寺の別院という位置づけです。
さらに大奥の老女(「御年寄」などの実力者)たちが亡くなる時、
それまで肌身離さずもっていた仏像などを寄贈した品々多々あるという
非常に珍しいお寺です。
なぜ、それらが妙定院にあるのかという由来は
ハッキリとしないのだけれど…という住職さんのお話自体が
「奥でのことは、外の世界で漏らしてはならない」
という大奥の掟そのものだなぁ…などと感じいってしまいました。

そもそも八代将軍・吉宗公以来、それまで代々行われてきた霊廟建築造営の
伝統は経費削減的な意味合いもあってストップしています。
その九代・家重公やその子たちを祭るための組織として妙定院が
作られた…というイメージです。

さて、家重公は神経質なところはありましたが
(例の肖像画は画家に顔を覗き込まれて描かれる時、大きなストレスを感じたらしく歯を食いしばっている)、
実際は父・吉宗公の政策上のあやまりをただそうとしたり、
将棋が強かったり、また絵画(妙定院に伝来)にも秀でていたり…つまりはいっぱしの文化人でした。

遺骨調査の結果、本当は美形だったそうで、大奥の女人方の懊悩も深く、
信仰心なども同時に高まっていたのでは(だから妙定院には彼女たちの信仰した
仏様が預けられている)……というようなことを想像できるわけですよ。
七福神などが多いのはけっこう現金だな、とも思いましたが。

大奥の女性といえば、なんとなく(女人成仏をうちだした)
日蓮宗との関係が強い気もしていましたが、浄土宗の信仰も盛んだったのですね。

以上、増上寺周辺をボランティアガイドの方々と一緒にあれこれご説明いただいたり
お話しながらまわってきた感じです。歴史フォーラムでもお話することと被るでしょうから、
ここでは御報告程度に…(とはいっても長くなりましたが)。

ツアー終了後、個人的に増上寺宝物展示室に行ってきました。
芸術新潮などでも特集された記憶のある「五百羅漢図」の展示のほか、
いちばん見たかったのは
秀忠公こと台徳院の霊廟建築の100分の1ミニチュア
です。ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館に展示期間終了後は解体され、
(その後、組み立てがあまりに難しかったのでしょうか)展示されたというこのミニチュアですが
本当に素晴らしいものでした。
宝物展示室に入館すると、空襲で焼けてしまう前のありし日の霊廟建築の写真絵はがきを
もらえるのですが、それはそれは壮麗です。ミニチュアを通じて、その偉容を感じ取ることが
できます。

…やはり最高権力者の霊廟…他の大名屋敷などとは精度の違いは明らかでした。
戦前は国宝に指定されており、もし実在していれば次のオリンピックに向け、
東京の宝、日本の宝だっただろうと感じます。往事は日光の東照宮以上の美しさだったといいますし。
戦争は勝っても負けても結局は負の側面以外、何も残してくれませんね…。

東照宮をはじめ、家光公によって作られた建築群といえば、モダニズム建築の観点からは「悪趣味」とか「仰々しいだけ」みたいにいわれてしまっていますが、信仰と救済を色彩の美しさで表現しようとした、美的価値の高い存在だと思うようになりました。たとえば戦災前の台徳院霊廟も秀忠を祭っている宝塔のある部屋こそ、いわゆる日光様式的に極彩色で、極楽浄土の輝きを表現していたようです。その部屋にいたるまではかなりシックでオーソドックスな建物でした。日光の陽明門などは、山のうすぐらい木立を借景に、それとは対照的に光り輝く太陽を(救済のシンボルとして)摸しているんでしょうね。


さて「五百羅漢図」は、実物に対面、しっかり拝見すると、エキセントリックな部分がアクセントになり、
全体像としては「きれい」と思える印象を受けるのが意外でした…。

その後、行きそびれていた泉岳寺や、大田区の馬込文士村(があった住宅街)を散策、
戸越銀座の東京一長い商店街も初訪問、ウロウロ歩いて戻ってきた次第です。
週末は、500円で何回都営地下鉄は乗っても定額制というワンデーパスがあるので
都内遠足を企ててみるのもよろしいかと!

by horiehiroki | 2015-11-05 12:00 | 歴史・文化 | Comments(0)

江戸時代初期から、幕末にかけ、「江戸」だとされる空間は、住民の増加、住宅地の開発……などもろもろの理由で、拡大していきました。要請をうけ、1818年、ついに幕府が定めた江戸がこの地図のとおりです。

e0253932_2285871.jpg


北は千住~板橋を結ぶライン。
西は代々木。
南は品川。
東は亀戸。

・・・どうでしょうか。
江戸城を中心として、これらの地名を円でむすんだラインを「朱引」といいました。

この中が江戸。これの外が江戸の郊外扱いです。

郊外=中野に犬小屋があったのもなんとなくわかる・・・。

江戸とは江戸城まで徒歩圏内であるべき、ということかもしれません。


早稲田に住んでた頃、丸の内まではフツーに歩いちゃう(ちょっと歩きたいときね!)って中高年のご婦人がいましたもん。
近道があるのよ!ともいってたけど、まぁ、逆に今の感覚では無理かもね(w

新大久保・大久保あたりには鉄砲隊のメンバーが暮らしており、旗本邸がたくさんありました。
・・・が、どうも現代人の私には新宿と丸の内が「イザとなれば」走って(?)いける圏内だという感覚がありません。新宿にいたときから、その感覚は同じです。・・・。チャリンコでも大変じゃないかなぁ。

いちおう当時の江戸城は現代の皇居の面積よりも広く、たとえばお堀が四谷あたり・・・上智大学くらいまで広がっていたのは事実ですけど、そこに辿り着いたからといって、本丸あたりまでいくのもさらに時間がかかったでしょうし。いちおう”平士(フツーのサムライ)”とは、騎馬を許された人々ですから、「歩く」というわけでもないからかなぁ・・・・・・・・・と色々考えてしまいますよねw

あと下町って呼ばれる東のエリアほど、キレイな碁盤の目みたいになってて、文字撮り山の手の丘陵地を生かして、思い思いにお屋敷街が開発されていった西のエリアとは道路の在り方自体が現代でも異なってるな、とか。

この朱引きがなされる100年ほど前に、同時期のパリやロンドンよりも多くの100万人以上の人口を抱えるようになっていました。その一方で、火事が多く、その類焼をさけるために住宅地より、寺社や武家屋敷の敷地を森のようにしていたため、この3割ほどが庶民の住宅に割り当てられてたにすぎないんですね。


が、同時にこの地図を見てると……まだ埋め立て地も今ほどではないため、もっと狭い土地=江戸だったんでしょうねぇ。

マイナビウーマンで、吉原をはじめとする遊女特集をかいてってるんですが、吉原が幕府に嘆願書をなんども提出したことはよく知られているお話です。

なんの嘆願書かっていうと、要するに非合法の売春をやめさせてくださーーい、的な感じ。あんまりエライ人=幕府につめよれないので、吉原が商売敵に押されているのは、みんなが行きにくい江戸の端っこに吉原があるからなんですよー! だから行きたい!っておもわれても、3人に2人はバレちゃうから、なかなかいけないんですよーーー!!! みたいな叫びが書いてあったりもしました。

・・・・が、江戸中期以降はいわゆる新吉原、浅草あたりでございます。

ほんとに行きにくい場所だったのか????

・・・・・・とか。地図は知識があれば、あんがい面白いですね

10月3日追記:

新吉原あたりは、現在でいう南千住駅から南に徒歩数分~5分程度の所だと思われますので、ほんとにヨシの原というか、池を埋め立てた場所だったんだなーー・・・ということがわかります。推測ですが、道はあるにはあるけど、ルートは限られてて、鉢合わせしやすい(だから見返りの松、とかそういう手合いの何かがあるんですわな)。だからバレやすい、行きにくい。

それにしても千束池の巨大なことよ・・・!

しかし、そのわりに吉原って統計上は9年に一度は全焼してるんですねぇ。





e0253932_2142050.jpg








by horiehiroki | 2014-10-03 08:00 | 歴史・文化 | Comments(2)

歌の添削

最近、原稿書きが忙しいです・・・

さて。

日曜日の毎日新聞には「書の美」という島谷弘幸氏のコラムが載っています。

先週日曜日に掲載された回では、室町時代の後柏原天皇(1464-1656)が歌会の
ために作った和歌の草案が載っていました。

・・・ってかくと大変マニアな感じなんですけども、この帝は当時の大学者・三条西実隆の指導をうけていました。
はからずもさらなるマニアな空気が漂ってきましたが、この三条西さんは、源氏物語の研究でも歴史に名を残す人です。少し詳しい人ならご存じだと思います。

それで、今回取り上げられた 詠草「梅薫風・暮春風・忍涙恋」 についてなんですが、ここが面白いわけです。

「暮春風」のお題で後柏原天皇がもともと書いていたのが

「ながめわびぬ ただけふのみの春のそら 入あひのかねは かすみはてても」


ものすごく言葉を補うと

(ぼんやりと物思いをしてしまうよ!)
春の空の美しさ、この美しさは今日、この日にしか見ることはできないのだもの

夕暮れを告げる鐘の音が、消え入るように聞こえてきても(まだ物思いに耽り続ける私)

みたいな情景だったんですが、

三条西実隆はこれを添削し、

「かすみさへ ただけふのみの夕ぞと 入あひのかねに ながめわびぬる」

としています。意味自体が異なった歌になっているという、大胆な指導ですが、後者はなだらかなしらべが美しいし、イメージが繋がっていくので、意味もわかりやすいですね。

ふたたび過剰に言葉を補うと、「(春の美しさ。それは無常の美だ 毎日出る)かすみさえ (こんなに美しく見えるのは)ただ今日の夕べだけであろう、と そう、物思いに耽ってしまうところに、日暮れの鐘の音が聞こえてくるよ」


百人一首でも「ちぎりきな(片身に袖を~)」とか「うらみわび(干さぬ袖だに~)」
とか、感情いっぱいの台詞で始まってしまう歌がいくつかありますが、そういう直情的な歌は、帝王の歌として相応しくない・・・ということかもしれないし、「暮春風」のお題がもつ、うららかで、けだるくて、ものさみしい・・・・というイメージと「ながめわびぬ!」という「字余り」ではじまる激しい歌のしらべは合わないよ、という指導かもしれません。
一方で、後柏原天皇は、ロマン主義的な心のあらぶりを持っていた人なのかもなぁ・・・と想像されて楽しかったです。






by horiehiroki | 2014-04-13 07:26 | 歴史・文化 | Comments(0)