カテゴリ:映画( 37 )

もはや仕事で映画を観ることは(諸事情で)ほぼなくなってしまいましたが、映画への愛は変わっていないな、と思います。数年くらい前のタイトルを集中的に見ている昨今です。
以前、某映画誌上で評価の高かったタイトルを書き留めていまして。

最近の僕が見て感銘を受けたのは、次の3本

■マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙

初公開: 2011年12月26日 (ニュージーランド)
監督: フィリダ・ロイド
音楽: トーマス・ニューマン 脚本: アビ・モーガン

■涼宮ハルヒの消失

初公開: 2010年2月6日 (日本)
監督: 武本康弘、 石原立也
上映時間: 164分
音楽: 神前暁
原作者: 谷川流

■母なる証明

初公開: 2009年5月28日 (韓国)
監督: ポン・ジュノ
上映時間: 129分
原作者: ポン・ジュノ


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■マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙

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「サッチャー」は、レビューなどからは得た、”政治家として有名になった分、家庭生活がおろそかになり、娘や夫ともスレ違った、いわば「勝ち犬」の中の「負け犬」であるサッチャーが云々”・・・という、ステレオタイプすぎる「社会的に成功して、私生活では破れた女の話」とはまるで違う作品だという印象を受けました。


→「社会的に成功して、私生活では破れた女の話」といえば、「プラダを着た悪魔」。同じくストリープが熱演。



本作のメリル・ストリープは最初の登場シーンでは、これが誰であるかが、色んな意味でわからない老女を演じているんですね。
スカーフを被ってヨタヨタ歩いて卵をグローサリー(街の個人経営のスーパー)で買うその人こそが、かつて鉄の女と呼ばれたサッチャーである、と。
やがてわれわれはそれを、サッチャーを演じる、メリル・ストリープである、とはじめて分かるんです。そこまで自分を殺す、女優としての存在感を消すことが、ストリープにはできるんですねぇ。

最初のシーンで、ぼくはこれが誰か、さっぱりわからなかった。それをもって、ストリープは「グレーゾーン」に生きている老いたサッチャーを表現してるんですよ。
そこだけでなく、まるで演劇の舞台を見ているような演出でした。
彼女が実は「サッチャー」であり、「メリル・ストリープ」であると分かったあとも、病み衰えた晩年のサッチャーは妄想と現実、過去が入り乱れた世界に暮らしており、われわれは彼女が自分自身の過去だと信じている記憶(妄想?)を、映像の中の彼女と共有していくんです。フワフワした浮遊感、ですね。悪酔いに近いような。

庶民出身でありながら、保守党の党首、首相をつとめ、エリザベス二世ともガチンコでやりあったことがあるという英国首相の人生の幻影を追いながら、そこに現代日本に暮らす庶民の自分と被るものがまったくないのに、「ヒトが生きるってどういうことなんだろうか」・・・と根源的な問いがなんども繰り返される・・・そういう内容。
何がどう訴えたのかわかりませんが、気付くと、なぜか泣かされている、そういう作品。

一番自分にとって隔世の感があったのは、サッチャーが父親から受け継いだ、古き良き保守主義哲学を披露するあたりです。個人同士が助け合い(いたずらに保護するのではなく)、個人同士がその成長を見守りあい、そのための伝統的な地域の絆、云々。また彼女を、女として社会的に成功した人間として、その良いところも悪いところも、ステレオタイプな表現ではなく描いていること。
ようやくリタイアして、共に暮らせるようになったとき、亡くなってしまった夫と、自分の妄想の中でだけ、同居できているという設定に、「わたしは伝統的な妻ではいられない!」と宣言して結婚し、大成功を収めたにもかかわらず、サッチャーの中にある悔恨の念みたいなものがチラつくんですよね。それは良いも悪いもなく、もし、別の現実があったのなら・・・と誰しもが思ってしまう、あれです。

よい映画でした。

■涼宮ハルヒの消失

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「ハルヒ」を見たのは、来年から漫画業界に片足つっこむので、その準備運動ではありました。ハルヒたちという「萌えキャラ」のゆるめな日常を描いたと思わせつつも、ハルヒシリーズは実際は硬派なSF作品なんですよ。そういう作品に興味が出た、というのが第一の試聴理由。

ハルヒは自分にはハードルの高い作品で(最初はいったい何がいいのだろう?と思いつつ、テレビシリーズを見始めると止まらなくなってハマッた、「まどマギ」とは異なり)、ほとんど設定もしらず、晴れ晴れユカイっていう曲をキャラクターが踊ってるのくらいしか記憶にすらない作品だったのですが。

それなのにいきなり劇場版を見てしまうのは無謀この上ない行為なのですが、そういう無礼で作法をわきまえていない人間にすら「分かる」ように作られている脚本にまず驚愕しました。

名作とよばれる作品は、すーごい間口がひろいんですね。入り口がいろんな所に、ある。

アニメにありがちな設定もですね、いろんな美少女たちが、平凡な(しかし、平均的資質および平均顔をきわめており、地味なイケメンともいえる)主人公のキョン君に好意のベクトルを向けているわけです、が、そのベーシックすぎる設定を、あそこになるまで広げ、同時に深めて表現できているのか、
と。

さらにこの前、立花隆でも触れられていた「世界の複数性」という概念を、「パラレルワールド」というようなライトな表現には納まりきらないくらい、キッチリと描いていて、「ほぅぅ~~~」と唸りっぱなしでした。

あと、興味深かったのがハルヒやキョンたちのキャラはどう見ても二次元的であり、写実的ではありえない造形なのに、ラストあたり、雪の降るシーンなどでの立体的な印象ですね。

そして長門さんという特異なキャラのつくりこみ方。
この痛切な、いじらしさ、こそ、日本的だと感じました。
いじらしさは、日本人が平安時代から萌えてきた、「らうたし(かわいい)」の必須要素なんですよ・・・・・・

(エヴァンゲリオンの)綾波レイの類似品だろうかと思ってたけど・・・。色んな意味で日本のアニメ表現のひとつの極地ではないか、と。


あと、ハルヒはイメージしていたほど、ドぎつい女ではなかった・・・(笑)
たしかに積極的かつ強引ですが、「嫌いにはなれない」というラインを絶妙に守れているあたり、すさまじいヒロイン力だなぁと感じてなりませんでした。
「ありのままに」、積極的かつ強引なキャラを目指してモテからどんどん遠ざかる、三次元の女たちのシカバネの上で踊る天使なんでしょうね、ハルヒは。




■母なる証明


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韓国って、脚本力でずばぬけた作品を量産しうる国だと思うんです。喩えですが足腰の強い作品ばかり。異なった要素を丹念にまとめあげ、粘り強く、みごとに構築できるだけの熱いパワーがある国。
これらを目にすると、日本の現代の映画は綺麗にまとめてるだけ、のように思えてしまうかもしれませんね・・・。

(ちなみに台湾は詩を、映像で表現する語り口がすごい国)。

同時に、アート志向のある韓国の映画監督って、20世紀も半ばの実験的な映画(ヌーヴェルヴァーグだとか、ニューアメリカンシネマだとか)の鮮烈な映像表現の文法を、現代においても現役で使い続けるだけのとんがった嗜好も捨てていないのです。

・・・で、また「古典の影響」と「自分らしさ」のミックス加減が上手いんですよね。

この作品は、最初の10~20分で2,3回ほど、ギョッとさせられる表現があり、その衝撃は「見るの、止めようかな」と思わせるほどのギリギリの毒味なんですけど、それで脱落せず、見つづけた者を作品世界の沼に引きずり込み、「あ、これがフツーなんだ」と、まんまと思わせ、信じさせるだけエネルギーにもなってるんですわ。

くわえて本作がすごいのは、素材の生かしかた。たとえば、本国でも日本でも客を呼びうる大スターはウォン・ビンなはずです。主人公の母を演じる中年の女優ではなく。でも本作のウォン・ビンは、知的にちょっとアレな息子さんで、演技の方向性としても、あくまで母の助演として「のみ」存在感を光らせている。
フツーならば「イケメン」担当でしかない、ウォン・ビンが「イノセント」・・・と配給会社の公式ページにはあるけど、実際は賞味期限が切れた干物の魚みたいな目でフワフワしてるのですが、そういう役を演じられる可能性をウォン・ビンという美男俳優に見出した監督は偉大であります。

ちなみにはじめて知りましたが、チン・グーという俳優は作品における「暴力」と「性」の担当ですね。つまり、ギラギラとして出てきたら目が離せない何かを発揮しているんですが、こちらのキャスティングも偉大。


話ですが、実はシンプルです。
韓国の片田舎で漢方薬の店と、民間療法(ヤミでやってるハリをふくむ)で生計を立てている母親が、知的に障害のある一人息子にかけられた、女子高生殺人嫌疑を晴らすべく、粉骨砕身でかけずり回って、恐るべき結末に辿り着く、というもの。

詳しくいうのは、ネタバレになるので避けますが(本作は心理サスペンス)、現代日本では映像化ができない「やばいもの」がこの映画の中には、「フツー」に流し込まれているのに驚きます。

あまりに「フツー」にそれらが描かれてしまっているから、しれっと見てしまったあとに、どんどん違和感がふくらんでいく後味の悪さが圧巻。しかも後味の悪さと同時に切ないなぁ、なんて思っちゃうわけですよ、この主人公である「母」に対して。

だから邦題の「母なる~」と聞いて、知的にちょっとアレな息子さんを守ろうとして戦うオンマ(韓国語でいう母)の無償の愛たる母性の姿を期待してると、まったく「なんじゃこれ」って気持ちになるのは請け合いです。

この映画のテーマは「禁忌(タブー)」そのものだからです。

ポン・ジュノ監督は、ロシア文学の愛読者ではないですかね。血縁の方にトルストイの小説の書評なども書いたというヒトがいるみたいですが、彼の作風からはゴーリキーとか、ドストエフスキーの「どうしようもないから笑う」というニヒルなところが感じられてなりません。
by horiehiroki | 2014-12-26 10:09 | 映画 | Comments(0)

「プレシャス」 

見よう見ようと思ってて、見る機会がなかった映画をDVDで見てみました。
一枚目は「プレシャス」。

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そもそも、ココにいたってぼくがこの映画にどうして興味を持ったの、っておはなしなんですが。

1980年代のレーガン時代の「強いアメリカ」、それも貧富の差=文化の差である社会で、黒人、貧乏、ブス、巨デブ、教育なし、レイプされて妊娠、出産を経験したシングルマザー、その子らの父親は、プレシャスの実の父親であるという事実、しかも子の一人はダウン症・・・・・


しかも、映画が進むほどに凄い要素がさらにプラスになっていくんですけども、映画史上、こんなマイノリティとしての要素を付与されたヒロインは存在しなかったと思ったからなんです。

マライヤ・キャリーが(おそらく)初めて女優として肯定的な評価を受けた作品、なんてのも興味にありましたけど。

実際に見てみて、「リアル」な映画だとおもった。まず、まったく淡々としてるところがリアル。

一方で、衝撃をうけたー とか、立ち直れないー っていう感想を多くのひとに残す映画だと思うんです。
それを見ていて、凄く思いだすのは、昭和時代に行われたフェミニズム系の女性思想家と、元売春婦の対話。
「売春なんかさせられて、それは死ぬほど辛いことだった」って具体的な言葉を彼女たちから引き出したい運動家に対し、「それでも食べるものと暮らす家が与えられてたから・・・」とだけ応える元売春婦の老女たち。

死ぬほど辛い のと 本当に死ぬことの辛さとは、同じ大きな哀しみではあっても、まったく次元が別なんだよね、という話。

けっきょく、この映画を悲惨だ、ありえないっていう人たちと、ありえないどころか、あれしか日常生活ってものがないプレシャスたちの世界は、まったくの別物ってことですね。ありえないーっていってると、実際に存在してる(らしい)プレシャスの世界を理解するどころか、感じることすら難しいと思いました。

プレシャスの映画は最初、たどたどしい間違った綴りの英語の字幕がいくつか表示されて始まります。

母親に二グレクト(ムシ)されて育った彼女は文法はおろか、しゃべりですら、うまく自分を表現することもできないからです。

とんでもないくらい辛いことがあると、プレシャスの脳内には白日夢が再生されます。自分がセレブになってたり、「肌の色のうすい(黒人の)」イケメンボーイフレンドがかしづいてくれたり、はては憧れの数学の先生がやさしい言葉をかけてくれたり、母親が母親として娘を労ってくれる・・・そういうことすら、プレシャスにとっては「ありえない夢」なんですね・・・。ふぅ。


彼女は知的に優れてるので、数学の点数はよいわけです。
数学は数字とルールさえ分かれば、問題が解けるジャンルだから、ということもあるんでしょうね。でも読み書き、そして日常会話で自分を表現すること・・・・つまり、「フツーの人」ならダレでもできることが、まったく会話らしい会話を母親から許されてこなかったプレシャスはできないんです。

運命の男女が出会い、永遠に仲良く暮らしましたとさ!というロマンティックラブを信じてやまないプレシャスの母親は、プレシャスが実の父親に、子どもの時からレイプされつづけて子どもを妊娠するという目におちいっても、自分を護ってくれる男を取られた、と思ってるのが9割。残りの1割で大変なことになった、とは思ってるんだけど、何がどうしてあれだけ未成熟かつ自己中心的でいられるのか不明なほど、怪物的に意味不明な女がプレシャスの実の母親です。
まー、ものすごい弁は立つんだけど。

母親と娘って恐ろしい関係ですよね、思えば。

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左からプレシャス、母親、プレシャスが生んだダウン症の娘、通称「モンゴ」

その母親の母親、つまりプレシャスの祖母は厳格なんだけど、厳格であるというルールを盲目的に墨守することで自分で思考することを止めてるところがありますね。
永遠の恋に恋する娘キャラの母親と、厳格であることで自分の弱さが外に漏れ出さないように必死の祖母、そしてやっぱりどうかしているとしかいいようのない父親に挟まれ、プレシャスはきわめて苦しい生活を送ってきたはず、です。よその世界から見れば。

映画の大半がプレシャスの成長を描いています。彼女が「言葉」を得て、同時に「理性」を自分のものとし、「感情」を得て、それを表現するに至る様子が描かれるんだけど、彼女が通うフリースクールのクラスの面々も同じ。

・・・というのを、時にコミカルな描写を挟みつつも淡々と描くんですね。

淡々とえがかれる「日常」の中で、
もっともむごいとおもったのは
「わたしまだ恋をしたことがないのに」って
プレシャスが声を上げて泣くシーン。

「人間を表現すること」に興味がある人は見てみるといいと思いました。


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◇◇◇堀江宏樹の新刊もよろしくおねがいしまーす◇◇◇

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百人一首 うたもゑ

(日本じゃ)世界三大美人なんていわれてる小野小町。でもずっとモテる、恋をし続けるということは、あるいみ「たったひとりの誰か」に出逢えてないってことなんです。平安時代、百人一首に収められた歌人たちの歌をベースに展開する、絵空事ではないリアルにして美麗な恋愛絵巻まんがですー。

藩擬人化まんが 葵学園


大河ドラマでもそうですけど、江戸時代はなぜ「ああいう社会」なのか? なんで現在でも県民性は「ああいう風」に存在してるのか? …みたいなことが漫画+文でザックリと理解できます☆

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by horiehiroki | 2013-08-25 01:42 | 映画 | Comments(0)

エヴァQ、再見

あれは別の作品としてやるべき内容であって、えばQとしてやるべき内容でもなんでもない気がする!って言い続けてきましたが、このほど、全編をもう一度見返すチャンスがありまして。

・・・意外におもしろかった・・・(笑)


そもそも新劇場版は、もはやエヴァシリーズの一つ(にすぎない)っていうことを、ぼくは完全に気づけなかった。それこそ「(旧)エヴァの呪縛」で。忘れていた。

でも、旧世紀版の焼き直し、リメイクとして始まった(気がする)シリーズ新劇場版の中で、とつぜん、ニューシリーズになっちゃったというのはそれこそなお話だけどね…。

ようするにコレまでの「エヴァ」と、(特に)Q以降のヱヴァンゲリヲンは、たとえば「機動戦士ガンダム」と「機動戦士ガンダム◎◎」が違うようなイメージなんですわ。

世界観、キャラの一部を共有してる「だけ」で、話も、内容も、絵柄も違う、ってことになるんだろな、と。

そもそも「破」の時点で、綾波レイが「ぽかぽかする」とか言い出して通称・ぽか波になってたり、アスカがシキナミさんになってたり、まぁ、そういうことだったんだよ。もじどおり、破だったんだよ。

前作とも話が繋がらないってみんないうけど、結局は、そういうことなんだよ。

エヴァ的なるものとは何か? っていうことを、今回の通称・黒波さんは象徴してる気がする。



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※黒波さん(参考)

彼女は自分を綾波レイだと思ってるのに、他人は、彼女を綾波レイとは認めない、というチグハグなことが起きている。エヴァのハズのものが似てるはいるんだけどエヴァではありえなくなってて、ヱヴァンゲリヲンというニューシリーズになってるというね。

この現実と希望の落差が、DVDの初動数にビミョーに反映されてる気がするわけですよ。まぁ、それでも凄い数で売れてるわけなんですけども。




なんで今回はロゴなどが水色なのって思ったけど、なんとなく分かった。赤く染まった死の世界の中で唯一残ってた空の色なんだな、と。で、あれは希望のシンボルなのだと。あと綾波さんの髪のイロでもあるか。

破から、エヴァ的なるものが失われたってぼくも周りのみんなも言ってたけど、つきつめると、ぼくらが感じていたエヴァ的なるもの、ってずいぶん皮相にすぎない要素だったのかもしれない。
by horiehiroki | 2013-05-10 07:22 | 映画 | Comments(0)

エヴァQレビュー補遺

「パレード」について書いていて、いろいろ思いだしました。

日本の20世紀末を代表する作品のひとつ「新世紀エヴァンゲリオン」は、「新世紀」だなんていってるけど、どの何よりも世紀末ちっくな作品でした。

世紀末はおわり、エヴァは新劇場版(通称・新世紀版)が公開されていってる。

色々レビュー書きましたが、あそこでぼくが言及した「甘美な何か」とはそのまんま日本の世紀末の空気じゃないか、と。

ーーーちなみに12月のエヴァンゲリオンストア(原宿)のディスプレイなどを(写メで)見たり、ツイッターのタイムラインにながれてくるファンの人々の声を断片的に眺めていると、エヴァがエヴァでありつづけることを求めるヒトたちにとって「Q」って無かったことになってるんじゃないか。なんてことを思ったりしてますーーーー

じゃあ、「Q」が公開され、まったくエヴァすら変質してしまった今という時代を何と呼ぶべきかといえば・・・・・「新世紀」どころか、無明の闇に取り囲まれていると思えてならないんです。
by horiehiroki | 2012-12-28 04:00 | 映画 | Comments(0)

パレード

原作を読んで以来、これ、どうやって映像にするの・・・(やろうと思えば、カタチにすることはできても、それを意味のある流れにできんの?)・・・と思ってた、映画「パレード」を見ました。

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歪み始める~ っていうキャッチがついてたかどうかは忘れましたが、これ、試写状を何回もいただいてて、いけないままだった映画でした。
その試写状のデザインがこの溶けかけのアイスクリームみたいなメリーゴーランドで。実にたくみなビジュアライゼーションだったと見終わった後だから思います。当時はやけに気になって、しばらくハガキを置いてました。

予告編。

「上辺だけの付き合い、それくらいが丁度いい」都内の2LDKマンションに暮らす男女四人の若者達。映画会社勤務の直輝、イラストレーターの未来、フリーターの琴美、大学生の良介。それぞれが不安や焦燥感を抱えながらも、“本当の自分”を装うことで優しく怠惰に続く共同生活。そこに男娼のサトルが加わり、同じ町では連続暴行事件が起こり始める。そして彼らの日常に、小さな波紋が拡がり始める…。

というのが公式のあらすじ、みたいですが、「上辺だけの付き合い、それくらいが丁度いい」というキャッチにすべて込められているようでいて、「上辺だけの付き合い、それくらいが丁度いい」だけでは、まるで語りきれない気味の悪い何かがボロボロとこぼれ落ちてくる気がする、そういう映画でした。


まぁ、映画としては・・・確かに突っ込み所がおおい映像ではあり(原作のながれも確かこういうかんじだった)、現代の日本映画お得意の空気を描いたお約束型の作品ではあるんだけれど。

文脈でかんがえると、かなりな存在感のある映画だと。

ほんとに高濃度のイヤーな何かに、まみれてる。

昨今流行りの湊かなえの作品ってこれに比べると、すごく爽やかだな、と。

・・・と同時に、これは過去の空気をただよわせた映画なんだなって思いました。

あらためて今、調べたら、吉田修一による「パレード」の原作は2002年に出版された作品なんだ、と。それなら分かります。(ついでにこれ、「エヴァンゲリオン」を現役でみてた世代の話。

この中に出てくる人たちって映画配給会社につとめる直樹以外、あきらかに稼いでない気がします。
それでもルームシェアというカタチでプライヴァシーを犠牲にしつつ、なおかつ孤独をわけあいつつ、日々のバイトの時給のほかに、田舎からの仕送りだのなんだのもプラスして、「なんとなく」生きていけた時代。

そういうのって今はもう無くなってきてるよね、という感覚。もちろん昨今の厳しい経済状況のせいです。若者が若者っぽくなくなってきた時代っていえるかもしれない。いまだ成長過程な中途半端な状況のママで、外の世界に這い出そうとするワカモノを見てると、自殺する胎児みたいなコトバが思い浮かんだりしますね。僕なんかは。

それはともかく、この映画の一番気味悪いところは、ヒトに見せている顔が、その人自身の本性の一部ですらないんだ・・・という事実。

下はウィキペディアから拾ってきた基本設定なんです、が、


伊原直輝 28歳・独立系映画配給会社勤務 非常に良識的な人間で夜のマラソンが日課。


相馬未来 24歳・イラストレーター兼雑貨屋店長 本当の自分を出す事に疑問を感じる。


大垣内琴美 23歳・無職 若手人気俳優の丸山友彦と熱愛中。妊娠騒ぎを起こす。


小窪サトル 自称18歳・男娼 途中から共同生活に加わった。


杉本良介 21歳・H大学経済学部3年 長崎出身のお気楽(に見える)大学生。


実はまったくこのヒトたちは別の本当の顔を持っている・・・ということ。
「キャラ」といってしまえばライトに響くけど、画家アンソールが描いた不気味な仮面と同じような何かを感じさせて、軽いメマイを覚えました。

ラストシーンは唐突におとずれるんだけど、これまで見てきたのは何だったの、というような取り残され感がこれまたイヤーな何かでまみれておりまして・・・・・・

日本は、ついこの前まで「世紀末」だったんだなぁ、と思いました。

世紀末はフランスにしかない概念だったそうですが。いまやユニバーサルなコンセプトですよね(w

(ほら、ヨーロッパの世紀末絵画といえば、1907-1908年にかけて制作されたクリムトの「キス」なんかが有名じゃないですか。世紀をまたいだ位が、いちばん世紀末っぽいのは20世紀末も同じだったみたいです)

そして、この作品のラストにかけて、世紀末的な、なにかがバラバラと解体していく。・・・これが足元をすくわれるよな気持ち悪さです。
by horiehiroki | 2012-12-28 03:00 | 映画 | Comments(0)

11月に通称・エヴァQが公開されました。


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こういうとき、どういうかおをすればいいか、わからないの。

な感じでした。

リアルな話、ものすごい展開についていけず、ちびりそうでした。

ひと言でまとめると、みなさんがいうように(?)「薔薇と百合の頂上決戦」

そして綾波レイは話のメインストリームそしてメインヒロインの座からまさかの転落、ハブられて「ハブ波レイ」となった・・・・・・・とかなんでしょうけどもね。

薔薇・・・カヲル×シンジ

百合・・・マリ×アスカ

※名前の順番に他意はございません

More(※ これ以下、ネタバレのみ)
by horiehiroki | 2012-12-25 00:00 | 映画 | Comments(0)

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カヲルくん! 

キミの言ってることが 

ぜんぜんわかんなかったよ!\(^o^)/


ということでネタバレのしようもない。


ただし、わりと粗末に扱われてる?って思った涙


スケジュールの合間をこじあけ、なんとか時間をつくってチャリンコかっとばし、スーパーレイトショーに潜入!


そこでわたくしが見たモノは・・・想像を絶しておりました


どおおおおおーーーん



ほも



どおおおおおーーーん



つづく




・・・な内容でした


こういうときどういう顔をしたらいいかわからないの!




これはホンマにQやわー

いちばんの衝撃は次のタイトルですたが

悪寒~♥

__________

予 告 

ネタバレを含む
”エヴァンゲリオンとわたし”
12月25日公開 します。

※サービス、サービスゥ はありません

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by horiehiroki | 2012-11-25 07:27 | 映画 | Comments(0)

わたしを離さないで



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「わたしを離さないで」。

印象的なタイトルです。

カズオ・イシグロの小説の映画化です。

原題は「Never Let Me Go」で、劇中で流れる流行歌のタイトル。でも、それは「わたし(の手)を離さないで」ということでもあるという。

映画は1950年代にある技術が開発され、
1960年代には人類の平均寿命は100歳を超えたという字幕が出て始まります。

More(以下、ネタバレ)
by horiehiroki | 2012-01-07 20:53 | 映画 | Comments(0)

「ダンシング・チャップリン」って周防監督の映画を見ました。

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つづきはこちらをクリック
by horiehiroki | 2011-11-08 00:24 | 映画 | Comments(0)

ブルーバレンタイン


久しぶりに家でDVD見ました…

それがなぜ「ブルーバレンタイン」だったのかは
わからないけれど。

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人間はひとりひとり違うわけで、
境遇、門地、才能……そのたもろもろがすべて違う。

でもその違いを一瞬にして乗り越える力を
愛情だけは持っていますよね

愛ゆえの錯覚といってもよいけど。

この夫婦さんってお互いのことを
「変わった」っていってるけど、ほんとは
ぜんぜん変わってないんだな。
それを気づかないのは、アイラブユーっていいながらも
お互いの瞳の中にうつる自分しか彼らが見てないから。

そして、以下、もっと激しくネタバレ
by horiehiroki | 2011-10-15 03:57 | 映画 | Comments(0)