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未完成作品展

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メトロポリタン美術館で開催中の未完成作品展(http://www.metmuseum.org/press/exhibitions/2016/unfinished)
が本当におもしろそうです。
by horiehiroki | 2016-08-01 10:41 | 展覧会 | Comments(0)

7月にはヘレン・シャルフベックの展覧会に行ってきました。
母も行きたいとのことだったので、上野駅から「東西めぐりん」なるコミュニティバスにはじめて乗りましたが、町並みを見るのも面白かったです。

NHKの日曜の八時の番組で見た絵があまりにも印象的だったので急遽、スケジュールをとりまとめて上野まで出かけてきました。その後、9月いっぱいまで異様なスケジュールが続いており、レビューを書いていないことに気付きました。


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ユーロ圏ではコインになるほどの有名人物ですが、日本ではムンクと同世代の北欧の画家、もしくは無名…というようなヘレン・シャルフベック。しかし、本当に上手い画家です。

北欧圏は夏がおわると一日の半分以上が闇にとざされる地域なので、光をとりわけ大事にする習慣があります。とくに若き日のヘレンの絵にも「光」がいつくしむように描かれており、それがまず印象的でした。
さらに本当の意味での造形美がヘレンの画の魅力です。「この人がなぜ美しいのか」を、モデルの目鼻立ちのバランスなどといった「表面的な理由」(だけ)ではなく、「魂」に求めています。魂の美しさが滲み出るような表現……それは彼女の高い描写力をもってして、はじめて描ききれたものです。それだけの力量がヘレンにはあります。
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御裁縫をするヘレンの母の姿を描いた一枚。

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「働く女性」を描いた一枚。


そんなヘレンの絵はものすごく写実的だった十代、二十代のころ。だんだん簡略化され、過度なまでにシンプルなものとなっていきます。老いた自分の顔を描くことにこだわったヘレンを「自分の老いと死を客観的に見詰めようとした」…というNHKの番組の説明も正しいのでしょうが、老いた自分の顔=時代の荒波にも流されなかった本当の意味でのじぶんらしさや個性を描くことに関心が移っていった結果なのではないか…と僕などは感じました。晩年の肖像画には、光を描くというより、対象自体から微光を発せられているかのような造形美を感じました。海辺で見る丸くなったガラスや石、乾いた流木のような美しさと同質でした。
かつての代表作をシンプルに描き直す、リメイクなど、面白い挑戦もしています。
晩年のヘレンの作品は、すばらしくスタイリッシュでクールでした。そしてに微かなユーモアさえも感じさせるのです。

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(最晩年の自画像)





by horiehiroki | 2015-10-07 10:40 | 展覧会 | Comments(0)

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行ってきました!


本展覧会は、印象主義や新印象主義といった前世紀のスタイルを受け継ぎながら、親しみやすく甘美な作品を描いたカリエール、アマン=ジャン、ル・シダネルら、20世紀初頭のパリで活躍した芸術家たちの作品をご紹介する展覧会です。
彼らはフォーヴィスムやキュビスム等の前衛的な芸術運動に加わらなかったため、モダニズムを主体とする美術史の視点からあまり取り上げられることがありませんでした。
しかし見たままに描きながらも自然や事物に潜む詩情を表現した彼らの作品は、商業的にも批評的にも成功を得、20世紀初頭におけるフランス美術界の一端を担いました。
本展覧会では、こうした芸術家たちが所属していた「画家彫刻家新協会(*)」のメンバーから、約20名の作家による作品約80点を展示し、20世紀幕開けのパリへ皆様をご案内いたします。
*画家彫刻家新協会(La Société Nouvelle des Peintres et Sculpteurs):若い芸術家たちの作品を発表する目的で結成されたグループ。おもにサロン出身の芸術家たちで構成され、1900年から1922年まで、パリのジョルジュ・プティ画廊で毎春展覧会を開催しました。

絵から受けるイメージは、ひとことでいって、印象派と象徴派をむすぶ架け橋、です。「世紀末絵画」といってよい手合いの絵画もチラホラ。


チラシにあるエミール・クラウスの「リス川の夕陽」(1911年制作)では夕陽が画面のほぼ中心に描かれ(画像ファイルでは潰れてしまっていますが)燦然たる輝き…光の矢を四方に飛ばしているのです。これは、それまでの印象派が描いてきた太陽としての太陽の姿ではなく、宗教的な輝きをも帯びているのはあきらかです。
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テクニックとしてはモネやルノワールといった印象派の画家たちの技術を継承しつつも、美意識はより伝統的でブルジョワ的な端正なものになっていますね。印象派というかつては斬新なアートムーブメントが、数十年のうちに上流階級の嗜好に呑み込まれ、新しさを失っていくと同時に芸術として完成していった様がわかる展覧会でした。

印象派の画家たち…すくなくとも印象派展に参加していた画家にくらべると、本展の「最後の印象派」の画家たちは、(元)弁護士などといった当時の中流階級=ブルジョワジーの出身者が目立ちました。お互いに仲がよく、冬ー春の展覧会シーズンはパリで。それ以外はノルマンディーを中心とするフランスの地方に所有する別荘での制作に没頭……という高等遊民なニオイがただようのです(遊民とはいっても個々人が画家として社会的に成功、かなり儲けていたようですが)。

「色彩」に興味がある方はぜひご覧になるべき展覧会だと思いました。



by horiehiroki | 2015-10-07 10:23 | 展覧会 | Comments(0)

生誕110年 片岡球子展

竹橋の近代美術館まで、片岡珠子展にすべりこみで行ってきました。
薄く塗られたり、盛り上がるように塗られている岩絵の具をみていると
絵画も二次元ではなく三次元なんだ、という言葉を痛感。
絢爛たる色彩を、着実に画面に調和をもっておとしこんでいける、バランス感覚がとにかくすごい。
そして、歴史的な御約束に、まったくしばられない彼女の創造力の強さを堪能しました。
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片岡珠子の描く足利尊氏

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たぶんそのモデルの木像。

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by horiehiroki | 2015-05-18 10:59 | 展覧会 | Comments(0)

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不思議なご縁がありまして、金山桂子先生とお知り合いとなりまして。
「松下村塾読本」執筆作業の合間に、杉並の女子美大までお伺いさせていただいたのが、こちらの展覧会です。


70年代、金山先生がガラス器をテーマに作品を描きはじめられてから、今日に至るまでのお仕事を一望できました。

金山先生の描き方は、下絵はなし、キャンバスに直接、油彩を使って描きはじめるというもので、気に入らないところは削ってはまた塗り、の繰り返しで、ある意味、彫刻的ともいえるなぁ、と。
ひとつひとつの作業は、インスピレーションの結果・・・・というより、入魂の作業、厳しい取捨選択の結果なのです。
今回の展覧会は10数枚ほどの展示でしたが、たいへんな見応えがありました。

70年代後半、つまりぼくが生まれた頃に、ガラス器をテーマとして描こうということ決め、その時はガラス器そのものを描こうということに注力なさったそうです。

78年に描かれたある絵では、薄明にうかびあがる、半透明のガラス器の存在感が、赤系と緑系の補色の絵の具を使って描かれていました。補色というのはぶつかる色と色です。
※画像は展示会場でいただいたパンフレットより


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効果的に使うと、見る者の目に大きな「ふくらみ」のようなものを感じさせることができると思います。この「ふくらみ」をつかって、ガラスの半透明という絵の具には元来ない色を、キャンバスの上に見事に存在させているんですね。金山先生のスタイルは、アタマで考えついたり、心で感じた、「印象」をササッと絵の具にのっけて描いてしまう・・・という即興的なものではありません。
この補色を使った表現も、本当に取捨選択の末に選び抜かれたものなんだろう、と。だからこそ、心に迫るパワーが今なお、放出されていると感じました。

先生の作品は画面の些細な部分、いわゆるマチエールがすごいんです。ある部分の絵の具は艶あり。ある部分は艶なし。その異なる風合いが、美しく調和し、同じ画面の中に同居している。
塗られては削られ・・・・・・という時間の流れが封じ込められていることも感じるのです。

また近年の作品に絵がかれる、穏やかな光と、あわい影の合間にあるガラスの存在感が・・・・・・ガラスという物質にわれわれが感じるイメージをはるかに通り越して、胸にせまってくるのですよ。会場で印刷したパンフレットをいただきましたが(そしてパンフレットの印刷が決して悪いというわけでもないのですが)、実際の作品を目にすると、パンフやパソコンの液晶の画では及ばないほど、深い風合いを感じたわけです。




よく音楽はライブのほうがいい! などといいますが、ある種の絵画作品は、音楽などよりもよほど実物に接しない限り、本当の価値がぼやけてしまうものだと思うんです。金山先生の作品の美的な価値もまさにそういうところにあるとぼくは感じました。

女子美を訪問してから1ヶ月以上たった今のレビューになってしまいましたが、印象はいまでも鮮烈です。


なお、女子美大は、東京芸術大学が男性しか入学を許さないシステムだったので、女性専用の高度美術教育を与えるための場所として生まれたそうですよ。まぁ・・・おそらくは、ヌードモデルを使ったデッサンを男女が同じモデルで描くことは倫理的に問題と感じられてしまった・・・とかそういう手合いでしょうか。また、女子美は森ゆきえ先生の母校でもあるので、こちらにも不思議なご縁を感じました。


by horiehiroki | 2014-12-07 07:05 | 展覧会 | Comments(0)



東郷青児記念美術館まで行ってきました。

印象派のふるさと ノルマンディー展 近代風景画のはじまり 、

よい展覧会でした!


ブーダンって、弟子とされるモネよりもずっと表現的には「先」に行っていたんだな……と気付きました。


ブーダン「川沿いの牛の群れ」 年代不明、ル・アーブヴル、アンドレ・マルロー博物館

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これが展示されてあったんですが、衝撃をうけました。
帰宅して調べてみたら、完成年代が記入されていない。これは未完成だから……なんですかね。習作というわけでもない左のほうに描かれた牛なんかは、もはや、絵の具をちょんちょんと置いてしまっただけ。なんと大胆!

これを見て思い出すのが↓の作品。

モネ「キャプシーヌ大通り」1873年、モスクワ、プーシキン美術館

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”印象派”展第一回に出品された作品ですね。
展覧会の中でももっとも不評だった作品の一つで、レビュー記事に「ヨダレの跡のような無数の黒いもの」などとクチを極めて批判的な言葉が連ねてあるんですが。

ブーダンには「なかなか才能がある」しかし「なぜ、海の光景をいじくりまわすのだ?」とだけです。

ブーダンが↑の年代不詳の絵で描いた牛に到っては、背中のブチ(斑点)だけですからねー。

今のわれわれの目からしても、思い切りのよさには驚くかぎりです。ブーダンは「空気」を描きたかったのだな、と。


さて、このノルマンディー展、ノルマンディーという土地にどうして上流階級や、画家たちが吸い寄せられていったのか・・・を19世紀始め頃からのロマンティックな廃墟ブームとか、「ピクチャレスク(絵になる)」な光景をもとめ、アーティストたちが集ってきたという説明つきではじまります。
いろんな画家の小品がみられます。特別に技師を手配して版画になったターナーの作品は白黒だけど、なんだか濡れたような気配がかんじられ、ターナー特有の「朦朧体」がありましたよ。

フラゴナールの息子も画家になったとは驚き。


そして次の部屋あたりからブーダンなど印象派の最初期~中期くらいまでの作品群が。さらにはギュスターヴ・クールベが並際を描いた激烈な作品も何点か。クールベは写実主義とかいわれているようですが、ドラクロワのようなロマンティックな系譜に連なるというか、ほんとに主観的で壮絶な心理ドラマを風景に見出そうとしている。その描き込みにちくいち、すごい迫力が感じられますよね。

一方で、「同じ」ノルマンディーの風景を描いたブーダンとクールベを比べてみたところ、痛感するのは、画家は手指のかわりに、みずからの眼差しをとおして世界におずおずと触れ、それを解釈する者であるという事実です。

写実派は、下草のやわらかさと、ざわめく木々の無数の葉の美しさを描きます。

印象派の画家の場合、森や草は風にざわめくものです。彼らは空気そのものを描こうとする。まさに情景、印象・・・。

”ロマン派”の画家の場合、情景を前に沸き起こってくる自らの内的なドラマを描こうとする。風や木々のざわめきに宿命的な悲劇を感じる……とか。


このように●●派という美学的なあつまり自体に、画家の何を、どのように描くか、という欲望の傾向があらわれており、完成度の高い絵とは世界によりよく触れることが出来た絵である・・・・・といえると思います。




by horiehiroki | 2014-10-02 10:00 | 展覧会 | Comments(0)

今年の日展を見てきました。

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ニュースでよみましたが、すったもんだがあったせいか、運営側のスタッフさん、ずいぶんとピリピリしてる印象・・・。

あと写真載せちゃダメー!!!ダメー!絶対ー!!ってことらしいので画像ナシでございます。ヤバイものには触れないのでございます。

画像なしに展覧会レビューなんかしても、実体がわからず、読者の方もつまらないと思われるので概論のみ。

先年の記事はこちらから。(2012年の日展)

日展って各種絵画技術の保存庫にして、見本帳みたいな所あるじゃないですか。
特に入選したばかりのおそらくは若い世代の画家さんにそういう気負いがものすごいわけですよ。
高い技術力がうみだす、ものすごい迫力、生命力。
とくに日本画にせよ洋画にせよ、最初のセクションあたりに置いてある作品のパワーは凄いです。

でも今年の日展ニュースで草薙奈津子さん(平塚市美術館長)がハッキリと書いておられるように、学芸員に展覧会を開きたい!と思わせる作家、作品に欠けているって指摘も否定はできない感はありました・・・

たぶんね、描きたいものから受けた何かを元に、その感動をわたしはこういう風に描きたい! ってところまでは同じなんだけど、たとえばクラシック音楽の演奏家が国際コンテストにおいて、そのコンテストで受かるために表現内容よりも技術的にマイナスにならないように演奏する・・・っていうかんじ。
そういう何か・・・良い意味でいえば”気負い”なんだけど、ワルくいえば・・・・を感じさせるものがあるんですよね


一方、この前読んだ著書である「朦朧の時代」に出てきた、”朦朧とした”日本画を日本人は嫌ったという記述が、どうしてだろう、と思われるほどの発見もありました。

岩絵の具で描かれた、ちかづくとゴツゴツと隆起した絵肌、これは西洋画の厚塗りには決してまねできない、これは時や風の移ろいを描くのに最適なメディアなんだな、ということに気付いたんですな。
揺らぐ山桜、草原、麦畑・・・そういった空間に時間をえがきこむのに日本画って最適なメディアなんじゃないかな、と。

一方で人物を描いた日本画であんまりピンとくるのもがボクにはありませんでした。
なんでだろう。


日本画セクションでもっとも強い衝撃を受けたのは、ローソン2013みたいなタイトルの作品です(笑
日本画って画題の冒険しますよねーーーーー・・・油断してられません。

画題といえば

一方で、なぜか洋画、日本画をとわず登場しているウミガメ、タコ、ピラルクなんかの古代魚、といった謎なモチーフ。あれってどうして人気なんだろう・・・とも思いました。今年はシーラカンスもあったかな。
女性ヌードとか舞妓はんとか伝統的なテーマを凌駕する勢いで増殖中。
てかロリータって直球の画題、テーマの軽いコスプレ風味の少女画もあったな。

でも「ロリータ」、ボクは好きでした。ぜんぜんかわいくないのw 
すくなくともその言葉から想像される、コスプレ的なかわいさとはさっぱり違うし、小悪魔ともまったく違う。
既存のかわいさを表現してないのね。
そういう意地(?)がよかった。
ほかの日本画セクションの女性像って「あたしさぁ、魅力的でしょうー?」って台詞がどうも透けてくるような感じのが多くて、ちょっとピンってこなかったり。特に洋画セクションの女性と巨大な人物造形(ディフォルメとか)の差ってなかったんだけど。


なぜ日展にロリータなのかっての疑問は残りますが。


西洋画は昨年感じたよりも、ずっとピンとくる作品が多かったように思います。
とくに人物。もっといえば、洋画の中の子どもたちの姿ですなー
子どもが贅沢なショールなどを纏って花の横に座っていたりする。
日展にありがち。
でも、現代だからこそ、なにかと目を惹かれるという感もあり。
絵画の中の子どもは、結界に守られ、年をとることも、苦しみをしることもない。
なんだか羨ましくなってしまいました。

つらつらと書いてきましたが、洋画、日本画を問わず、新しい絵だけがもつ特有の色彩の美しさには目を見張る思いでございました。


2013年度の日展開催スケジュールについてはこちらからご覧ください。




by horiehiroki | 2013-11-11 20:56 | 展覧会 | Comments(0)

銀座の「高輪画廊」にて山内大介さんの個展を拝見してきました。こちらのギャラリーサイトの記事に高輪画廊の”特色”と山内大介さんについても言及が。

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画像&文はこちらのサイトより。

今度、アート関係の動画の仕事を計画してる有楽出版のSさんから「時間合わせて見にいきませんか~」といわれ、個展のハガキを見せられたとき「ビビビ」と来まして、伺うことになりました。

そもそも、ぼくがアートフェア東京2013のレビューを書かせていただいた月刊美術(2013.5月号)に、山内さんの「東京海上日勤賞」受賞にまつわるインタビュー記事が載せられてまして、どこかでご縁は繋がってたのかもしれません。

まえがきが長くなったけれど、彼はすばらしい色彩の使い手であると感じました。
個展DMに使われてたのが↑の画像なんですが、やはりどれだけ美しく印刷しても、彼の作品実物を前にしたときに立ち上がってくる色彩は再現不可能だなーと。

写真にする。もしくは印刷した山内さんの絵にも彼独特の色彩の美しさは感じられはします。
でもそれは予感みたいなもので、ナマの色彩に込められた本来の生命力というのがダウンしてしまっています。

実物を見ると、この絵・・・水平に、なだらかにつづく南仏の山々や平原、畑などがある中で、オリーブの濃いグリーンがザクザクザクと垂直に差しこまれています。まさに柵のように。
これが絶妙なリズム感をうんでまして、同時に南仏地方の光や風を感じさせ、おおおお、と思いました。

彼はパレットには色をすごくたくさん置いて使うタイプだそうで。
使った後の(紙)パレットを見てたら、こういう絵が描きたいと思うって冗談っぽく言ってたけど、山内さんはいわゆる”作為”的な何かがすごくイヤみたい。

静物を描くこともあるけど、カタチを自分の手で整えたモノを描くことに、かなりの違和感があるようです(笑

一方、この手の自然、風景画にこだわるのは、これだ!と思える光景に出逢えた時の感動、情熱を瞬間的に彼はカメラ的な目で切り取り、手を動かして水彩でスケッチし、自分の中に取り込んでいく。

個展では取材旅行の際に描かれたスケッチ(の写真)も見られますが、これはたぶんメモ的な何かです。

そうやって手を動かし、自分の中に切り取ったものが、何年かすると、より余裕を持って絵にすることが出来る・・・という発言からも、(それこそ南仏などの)郊外で、さくさくと絵をしあげていった、いわば脊髄反射的なキレイさを求めた印象派の画家たちと、山内さんがまるで違うスタンスを持っていることがわかりました。

山内さんは描きたいと情熱をもって思えるものを描きたいように描く。そのために、なにをどう取り上げ、どう捨てるか(捨象するか)、その探求を続けている、と。

彼はまだ非常に若いんですけど、美しいものを美しく、いわばダイレクトに描けるというだけでなく、美しく、深く描ける才能があるひとです。


それで、1階のギャラリーでは”常設展”として、画廊オーナーさんが三岸好太郎・節子の孫である太郎さんということで、彼らの絵を見ることもできました。他の作家さんの作品も目にしたけれど、いかに要素が少ない対象を描いた絵でも、深みを与えられるか。逆に要素が多い絵でも画面を飽和させないか。
画家に必要なのは、取捨選択を行える判断力であり、それをみきわめる目であり、凄い目の持ち主は「(対象から印象を)拾うこと」だけでなく、「(描きたいもの以外のものはいさぎよく)捨てること」にも秀でてるなぁってことを感じました。

そういうこういうで、このような作家、作品を擁する「高輪画廊」にて、山内さんの個展が開かれることには意義があるなあ・・・・と。



by horiehiroki | 2013-10-30 10:18 | 展覧会 | Comments(1)

トスカーナと近代絵画展

10月1日は都民の日ということで、今年も東郷青児美術館にお邪魔してきました。
今年の展覧会は「トスカーナと近代絵画」展。

わりとマニアなかんじです。

時間も余裕ないことだし、今年はいいかなー・・・って思ったのも事実なんですが、ぼくが展覧会に行きたいと思ったのはこの絵をサイトで見たことがきっかけでした。

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・・・ってきくと、えっ?これがきっかけ? って思うでしょうね。
たしかに貴重な作品ではありますが・・・。

この絵、肌の透明感やヒゲのショボショボした感じ・・・つまり色味の複雑さから、改良された油絵の具をつかって19世紀はじめに描かれたモノであるのはあきらか。

なのにルネサンス時代の芸術家のコスプレをしていて、まさにラファエロとかああいう感じを狙って描かれている。この画家さんはイタリア・バロック時代のカラッチの作風を理想と仰いだそうですけども。


20世紀始めのヨーロッパでは、”新古典主義”という音楽ムーブメントがあり、この中で18世紀のイタリア音楽のメロディに実にモダーンなハーモニーが付けられた作品などもあったんです(ストラヴィンスキーの「ラ・プルチネッラ」など)。

それを思い出させる「面白さ」を、この絵の向こう側、遥かなところにぼくは感じまして。この絵の場合は、こってりしたロマン主義精神と、本来簡素であるはずのルネサンス絵画のポーズの超合金合体、ですな。


イタリアのトスカーナ地方といえば、”トスカーナの宝石”のひとつ、フィレンツェという美しい街を中心としたエリア。
フィレンツェといえば・・・ルネサンス。
ルネサンスといえば14世紀イタリアからはじまり、16世紀頃に終焉した芸術ムーブメントですよね。

・・・それ以降のフィレンツェってどうだったの?


18世紀、ルネサンス時代以来、フィレンツェやトスカーナ地方を治めたメディチ家の直系がスキャンダルにつぐスキャンダルのうちに途絶え、マリー・アントワネットの父として有名なシュテファン・フランツ(フランツ1世)が、神聖ローマ帝国だけでなく、トスカーナ地方の治世も任される・・・というような事件がありました。

要するにメディチ家はもともと大商人(薬商人から銀行家に転身)だったんだけれど、トスカーナ大公という爵位を授かっており、貴族として代々その位を世襲していましたが、それを受け継ぐべき子孫がいなくなると、あれやこれやの結果、それをハプスブルク家ゆかりの人間がフライングゲット(?)したんですねー。ものすごく適当にしゃべると。

ただし、これにはメディチ家最後の相続人である女性、アンナ・マリア・ルイーザの遺言により、「フィレンツェからメディチ家ゆかりの美術品を持ち出さないこと」が条件となっていました。

・・・ということで、過去の栄華を伝える美術品はフィレンツェという小さな街に凝縮したまま今日まで伝えられているのです。
しかしその後のフィレンツェ、ひいては”イタリア美術のあゆみ”ってどうだったの?という、疑問に答えてくれたのが今回の展覧会でした。

今回の展覧会ですが、出品された絵画の多くは確実にメジャーとはいえず、ぼくも知っているアーティストの名前のほうがほとんどないという、あるいみでマニアックな企画と言えたとおもいます。
しかし、われわれがなんとなく不問にしてきたいくかの疑問への回答を示し得た展覧会だな、と。

たとえば

「なんで”光”に注目した画家が印象派をフランス以北では形成してるのに、厳寒の真冬でも太陽のきらめきだけは物凄いイタリアの印象派は有名じゃないの?(そもそもあるの?)」

これについても、展覧会内の解説にもあった、デ・キリコが真昼の光が照りつける石畳みの広場に着想を得て、シュールリアルな世界を発想した・・・という文にあきらかなように、

南国イタリアは光が強すぎて、それゆえにものの影も輪郭線もハッキリしすぎて、実体を描かざるをえない。ものの形を意識せざるをえないんですよ。

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だから、モネが描いたような、ある批評家の言葉を借りると「光に溶けるアイスクリームのような」・・・僕の感覚ではまるでマシュマロでつくったような、光によって「やわらかく」みえるルーアン大聖堂のようなアートは存在しえなかった・・・ような。

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参考:モネ「ルーアン大聖堂」、マルモッタン美術館蔵

だから、印象派ってこれまで堅固たる輪郭線の中にシメされてきたモノの形がだんだんと解けていく・・・そういう現代絵画への先駆けにも位置するかと思うんですが、イタリアでは光ゆえにモノの形によけいに執着するようになり、それがデ・キリコの作風なんかにも繋がったんじゃーないか・・・と。

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デ・キリコ『街の神秘と憂鬱』 ※フランス美術の文脈で、表現される「憂鬱」とはまるで違いますよね

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これも象徴主義と単純化の間をいってしまう、かなり興味深い作品でした。


これはイタリアにうまれ、イタリアで育ち、イタリアで活躍した人に顕著な傾向なのかも

イタリアにうまれても、フランスに来た(北の都・パリを活躍の場所にした)モディリアーニなんかにはない特質ですし、感性だと思いましたね・・・


あと個人的に思ったのは、19世紀のフィレンツェなどを描いた光景には、ルキノ・ヴィスコンティ(1906 - 1976、映画監督)の原風景をみたような気がしました。

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手元に直接該当する絵の写真がないのが残念ですが・・・

19世紀は彼の祖父、もしくは曾祖父の時代です。

19世紀なかばにイタリアはイタリア王国として統一されますが、この王国では貧富の差が非常に激しく、社会意識をもった芸術家が他の国よりも多かったようです。これらの作品なんかを見てると、「赤い貴族」と呼ばれた時代のヴィスコンティの「揺れる大地」なんかの作品のアングル、表情を思い出されて仕方ありませんでした。
庶民を描いた作品だけでなく、こういう宗教画でも。

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トスカーナと近代絵画展は、2013年11月10日(日)まで、西新宿の損保ジャパン東郷青児美術館にて開催中です。

時間:10:00~18:00、金曜10:00~20:00(入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜(ただし9月16日、9月23日、10月14日、11月4日は開館)


by horiehiroki | 2013-10-02 10:21 | 展覧会 | Comments(0)

先日は辛酸先生にお誘いいただき、レナオール・フジタ展をご一緒できました!
先生と色々つぶやきながら絵を見ていると楽しいです


この展覧会、意外でした

フジタ展と名乗るのならば・・・・・

ネコ推し



乳白色の裸婦推し

のどちらかだと思ってたら、まさかの子ども推しでした。

藤田の子どもって、どんな画なのかといえば・・・

どーーーーーん!!!


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どーん! としか言えないですわ(w

目尻に入ったシャドーが79年の小野みゆきかっていうね。


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フジタの子ども画って、かわいくないですねーーーーーーーっ ってボクは非常に盛り上がってしまいました

フツーさ、子ども描きたがる画家ってってカワゆく子どもって描くじゃないですか。

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たとえばルノワールとか。

で、かわいい子どもの画が上手い人しか、子どもって描き続けられないじゃないですか。

でもこの展覧会に出品された200作品のうちの半分以上が子ども画で、その大半がかわいくないんですよ。

こんなに可愛くない子供の画ってはじめてみた(w
はっきりいいますけど(w

これはいかなることであろう。


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これとか抜群に上手い絵だとおもうし美術的価値も非常に高いと思うんです。
とくにこの少女の後ろの果物。
精密に塗ってると思いきや、印象派以上にザツクリ塗っているだけで、ホントにデッサン上手い人ってこういうのですよね、と辛酸先生とお話してました。

しかし、この少女のカラダと胸の膨らみってどうなんでしょうか。

時をかける少女ならぬ、時を抜ける少女、時を外れてしまった少女、
順番通りにしか本来ながれえない時間の流れの外に飛び出しちゃった少女たちですわ、これ。

永遠性の少女だから、成熟したオンナでもあり、老婆のような狡猾さ、それまで感じられる。

ようするに不穏なんです
子どもの姿をしているだけの「何か」であるのが透けて見えてしまいすぎてるから。

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これも誕生日をむかえた「きょうの女王」と女王に選ばれて招待された子どもたち。そして暗い窓の外にいる選ばれなかった子どもたち。メイドもすべてが子ども・・・。誰ひとりまともには笑っていないという、思えば異様な空間です。

(藤田って赤や黒の使い方がものすごく上手くて、これは日本でずっと暮らしてしまった日本人には出せない赤と黒なんだと思いました。ものすごくオシャレ)


こう描いていくとバルテュスが好んだモチーフ「少女」を思い出すんだけど

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たとえばこの絵の少女。
こういう少女はフジタの作品にはたぶん出てきません。
フジタの描く子どもは、右のカーテンを引いている人物ですね。
カーテンを引いて室内をあからさまな光で満たして、隠しておきたい何かを剥き出しにしてしまう・・・そういう人物。それがフジタの描く子どもなんじゃないでしょうか。

しかもね、乳首がもっとクッキリ描かれてようがなんだろうが、それが性的な何かにならない分、バルテュスの少女画にはないオチつかなさ、気持ち悪さが、波のようにゆんゆん音をたてて見るモノに覆い被さってくるのですよー。

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これってカワイイって一瞬思うでしょう。
このもともと鏡が入っていたという額縁と子どもと覚しき人物が描かれている「から」。
でもよく見てください。

微妙に歪んでる。
藤田の絵ってそれこそ独特の下地を持っており、落ち着いた印象もあるけど、画面が停滞しないのは、人物の顔や姿にシンメトリー性が、ほんとにないんです。

人間って顔の左と右が違うのはよく知られてますが、藤田はホントにこの原則を強調しまくって人物の顔を描くんですよね。

左右対称であるべき宗教画ですらもそうです。


(イエスの顔がとんでもない悪人顔なのはどういうことかって話にもなりました)
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藤田の作品って良く考えれば20世紀も半ば、嵐のように前衛的表現がつぎつぎと追求されてた時期に描かれてたんですよねー。


1~2年の間、100枚近い連作として描かれた「しがない職業と少ない稼ぎ」という、わりと衝撃的なタイトルのついたシリーズがあります。 原題:Pettis Matière et Gagne Petit。
登場するのは子どもたち。例によってかわいくないんですが、彼らが帽子職人とか、医者とか、職人を演じているんです。

この中に「画家」と題した一枚があり、その中で、画家はジャクソン・ポロックみたいなアクションペインティング風の作品を製作中だったり。

藤田は変わっていく美術の世界をしりながらも、また自分の作風も変えながらも、美意識の背骨だけは守りぬいたんですねー。


あと衝撃的だったのは、今回の展覧会では藤田が親しく付き合っていたパリの芸術家たちの作品が展示され、影響関係が一目瞭然だったということ。
初期の藤田、乳白色の肌のグラマラスなオンナたちというテーマを得た瞬間の藤田の作風って、パスキンとモディリアーニとキスリングの作品を足し算したような・・・ そんな印象も受けました。その後、藤田は誰の影響下にもないFOUJITAになっていくわけですが・・・


実に興味深い「気づき」がいっぱいある展覧会でした。
by horiehiroki | 2013-09-19 10:44 | 展覧会 | Comments(0)