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前回の記事に引きつづき、
最後まで本書「中国化する日本」ザックリ読みましたが、
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與那覇氏のウリは徹底してニュートラルな視点、ということでしょうね。
たとえば明治維新について語るとなると、旧幕側と新政府側の二派に書き手はわかれ、言説を展開することが伝統的には多いです(そしてそれはおうおうにして、語り手の祖先の立ち位置を踏襲している)。

ところが與那覇氏は徹底して、そういう血縁的文脈から離れて歴史を見ようとします。ちょうど外国人が日本史をみるように、ドロドロした「私怨の日本史」からは離れようとしている。遠いところから、原理/原則というようなものを見つけるがために歴史の細部に触れているという印象がある。これがウリなんです。

彼が依拠するのは(彼が発見した)二元論です。たとえば、貧困問題で例にすると(出世する機会は与えられており、あくまで実力社会だから)「貧乏は自己責任」とする「中国化」社会。
その反対概念であり、(身分に囚われ、出世するための機会はさほど十分ではないがため)貧乏は社会全体の責任として考える「江戸化」社会。

いずれもニュートラルな概念であり、新政府だの旧幕だの昔からある概念にひきずられた史観を超越した視点からの言論が可能ですね。いわば。それらによる二元的対立を語りたくて、この本を書かれたんだろうなぁ、と思いました。そうすることで見えてくる真実も多々ある。

一方で、本書のウィークポイントとしては、中国化/江戸化の二元対立が歴史的にどのように具体的に反映されているか、という部分が甘いといわざるをえない点。原理/原則を追求したいタイプの著者さんには、具体例に対してそこまで関心はないのかもしれませんが。

例えば…彼のことばでは明治維新は「中国化」への意思であり、明治期の代表的産業をささえていた(工場の一つ)富岡製糸場は、いわゆる「中国化」が徹底された実力社会で云々…というような記述もありましたが、たとえば明治維新の勝ち組である長州閥の山口出身者の女性(いわば新貴族の女性)が、実力以上に早期に出世しやすかった…といった「例外的事実」は、とくに記述されておらず。

氏の説くように「中国化」への動きはあったのでしょうが、それが徹底されていたとは思えない。氏は「江戸」と「中国」の二つの流れは、混ぜたら危険、と書いていましたが、まさにその混ぜたら危険状態がずっと続いてしまっていたのが現実的な歴史のありかたのように拝見しました。

與那覇氏は「史論の復権」という新書(※対論集)も世に問うておられます。

巻末に用語索引がついている点で、いちおう学術書っぽい作りにはなってはいるものの、「中国化する日本」という本作も、「史論の復権」において、学術論文類とエンタメ的創作物の「中間的存在」だと氏が定義する「史論」的作品として受け取って欲しい…ということなんでしょう。

たしかに興味深い視座を提供してくれるご本ではありました。



by horiehiroki | 2015-01-29 10:10 | 読書 | Comments(0)

乙女の日本史文庫版の第五刷が発売されることになりました。

みなさまのおかげです。時間をみつけて、ブログの記事も更新できるようにがんばります!

・・・の前に確定申告をがんばっていました。
ちなみにいまだに二社ほど支払調書が届いておりません(苦笑
by horiehiroki | 2015-01-29 09:56 | お知らせ | Comments(0)

続・股間若衆レポ(?)

昨日、股間若衆という本のレビューで登場させた
難波孫次郎氏の筋肉礼賛表現は年々進化しているようですね。

2011年の日展に出品された「清冽な若き心」という作品・・・

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藝術は爆乳だ!!

です

乳頭も女性なみにモノすごいけど(w)

それでも、ツボは押さえられている。男性表現のツボは最低限、押さえられている。女のカラダをベースに男のカラダを表現しようとは、していない。男性の筋肉のディフォルメ的表現だということは分かりますよね?

(・・・一方で、あんまり清冽、セイレツな作品とも違う?w)


→もしかして、これが難波先生の遺作…? ”黒いリボン”が付いてますが。


一方、これを見て思い出したのが、ルーベンスがめずらしくも「美少年」をクライアントの強い意向で描かされた時の画です。たしかウィーンの美術史美術館にある絵かな。最初に見たときから激しい違和感がありました。

たぶん「乙女の美術史」でも書いたけど、ルーベンスはまったく男性の裸体表現に興味がない人で(ガチムチ女が好きなだけ)。

美少年がゼウスが変身したタカに連れ去られたシーンをえがいた「ガニュメデスの略奪」って絵があるんですが、男の上半身に女の下半身を接合し、それでなんとか苦心して絵をまとめてるんですねぇ。


男性を表現するということは、芸術上、非常に難しいテーマなんだな、ということがわかりました。




※画像はこちらのブログ様からお借りしました。

by horiehiroki | 2015-01-28 12:40 | 読書 | Comments(0)

「 股間若衆 男の裸は芸術か」という本をチラ読みしました。
で、タイトルは「男の裸は芸術か 」という「大問題」をフィーチャーしてるように見せてはいるんだけど、

じっさいのところは、

1/問題を日本の近代以降の彫刻というジャンルに限定した話

2/「(性器・尻などに)猥褻物陳列罪」のある日本で、独特の進化をした性器の”ぼかし表現”

以上のテーマをフィールドワーク経由でまとめるのが圧倒的なメイン。

その他の論説は「おまけ」として入っている程度。
以上で全体が構成されています。


性器の”ぼかし表現”というと

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具体的にいわないと分からないですから、上をみてください。上の股間です。あのもりあがり。西洋のだとイチヂクの葉っぱが着いたりしますが、日本ではああいう盛りあがりなんですね 
難波孫次郎の彫刻の股間ですが、こんもりした「アレ」ですね。まるでタイツかスパッツでも履いたときのような。
かといってスパッツやタイツを履いているんだ、という仄めかしはいっさいないんだけどね、というアレ。


西洋ではミケランジェロやロダンの彫像でも性器は、他の部分にくらべるとひっそり気味に表現されてはいますが、こういうふうに「こんもりした何か」というようにはなってないですね。いわれてみれば。
日本って変なの、と。

そういうことにだけ触れた本でまとまる予定だったようです。





 (ここで告知) 2016年7月20日 乙女の美術史 日本編 文庫版」、カドカワから発売! 書き下ろしの「恐い世界史」は三笠書房、王様文庫から9月発売予定…





が、恐らくは編集者側の視点だとおもうんですが、こんもりした彫刻の股間の「アレ」だけでは話がただの好事家の雑学ねたくらいにしかならないから、いちおう「男の裸は芸術か」というテーマにも触れるべく、間口がひろげられてしまった。

そこで、三島由起夫ヌード写真だのなんだのが登場してくるわけです。

・・・で、今回、このブログ記事を自分が書くようになったのも、このあたりのとらえ方の「シンプルさ」にビックリしたからなんですねぇ。

今回、この本を読んでいて、「男の裸は芸術か」という大問題について、日本ではいまだ、語る段階に入っていない。鑑賞者の目が、価値観が、まったく肥えていないんだな、という事実を突きつけられた観があります。



本書にも記述として「30才からボディビルをはじめた三島さんの体格はみるみるうちに改善され、逞しく云々」・・・というくだりは出てきましたが、「薔薇刑」のこの写真(本書にも参考写真としてとりあげられた)をあらためて見ていると、

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「あれっ?
ほそいなー」
のひと言でした。
ついで
「昔、見たときは、すごくマッチョに思えていたんだけど」としか思えないわけです。個人的には。バカにしてるんじゃなくて、男性ヌードとしてはすごく華奢だな、と。(すくなくとも現代日本で、最高の環境をもとめて24時間式のゴールドジムに毎日通い、増量→減量をくりかえしつづける)ボディビルダーという響きがもつ仰々しさと、三島さんの少年のような裸はぜんぜん違ってるんですね。

こういう三島バディってフツーに運動経験して、その後、(区営の)ジムに週一ででも通えば、フツーに出来上がるカラダですから・・・。

すくなくとも今、みたら、珍しくもなんともない。

三島由紀夫=ガリガリから、すごいマッチョになってしまった男 という条件反射的なイメージが作り上げている。事実とは異なる幻想が現実を陵駕し、見えなくしているほどになっているんですね。現代ですら。

それをわれわれはいつの間にか、何かによって植えつけられてしまっているのは面白いですよね。なんで三島マッチョ説は覆られないの?という。まったく男性の裸は、有名な存在(有名作品)であったとしても、大多数に見つめられていない=鑑賞すらされていないのでは、とも訝しく思いました。



また一方で、この難波孫次郎の彫刻は
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めっちゃくちゃに「ごっついなぁ」、です。今回初めて知りましたが。


例の三島由紀夫の裸と、最初に掲げた難波孫次郎氏の裸体彫刻にある、徹底的な骨格的な違いとか、身体の厚みの違いがあるはずなのに、本書の中でも(サブタイはともかく、実質的には芸術論ではない本であるにせよ)、「同じ男性の裸」「同じく筋肉ムキムキ!」とか、そのシンプルすぎるセンスでしか捉えられてないことに驚愕したんですね。

自分が観じ得ないもの。知らないものを人は画像に見ることはできません。この手のシンプルでナイーブすぎる男性ヌードへの視点は、とくに美術を語る男女ともに、筋肉という存在をほとんど無視して生きてる人が多いんだろうなぁというライフスタイルがスケスケなんですわな。

女性のヌードの場合、たとえばルーベンスの血湧き肉躍る「でぶ」なヌードと、ボッティチェリの華奢な女性とはまったく別物として鑑賞されている・・・はずですが、ダイエットだのなんだの、主に女性をめぐる肉体を語る論説はいろんなレベルで社会中に蔓延している。だから見慣れてるんでしょうね。鑑賞眼ができている。

一方、男性のカラダを語るものって腹が出たから引っ込めるために飲む、特保枠の黒茶とか以外には、・・・・・・ライザップのコテコテの筋肉礼賛が過剰なCM・・・・・くらいしか思い付きませんよね。

とくに近現代以降の男性のビジュアルってほんとに貧しい評価軸でしか評価されてないことが浮き彫りになっていると思います。近代以前のヨーロッパでは、美尻だの脚線美といえば男性のものでしたからね(女性は足を見せられず、スカートで隠すしかなかった)。

男女の肉体美に関する価値づけ、意味づけ、そして豊かな鑑賞眼の有無は、近代以前と近代以降では逆転してしまった、といえるかもしれません。男性のヌードを鑑賞する目は、まったく存在すらできていないのでは、ということに気付いてしまった本でした。

折しも、(男女関係なく)性器/股間の表現をふくむヌードがアートか、否か? という問題は、現代でも、ろくでなし子さんという女性アーティストの表現物が猥褻物として彼女が捕まってしまう出来事があり、ホットな問題でありつづけているんですが。

表現の正当性云々の前に、日本にはもうひとつ問題があります。
「性器を描くと、そこに観客の視線が集中しがちで、よろしくない感情が生まれるからアウト」…という本書にも登場する、検察の人が語ったというヌード表現への倫理感覚は、現代日本でも現役なんでしょうね(※発言は昭和20年代)。

たとえば公園や電車の中にすっ裸の誰かが現れた時に、われわれが絶対に感じる「不都合な感覚」ってのは事実だとおもうんですが。芸術という枠組みがその「不都合な感覚」をどう変えられるかどうか。
おもえばたしかにグレーゾーンなのかもしれません。
表現上の話ではなく、「性器を描くと、そこに観客の視線が集中しがちで、よろしくない感情が生まれるからアウト」とされてしまうと、それが「事実」だからです。

いずれにせよ、ライトにまとめられた本の行間から

そもそも、なぜ私たちは裸を描くのか。裸で表現せねばならない何かがあるのか?

・・・・というようなことをもっと突き詰めて考えねばならないんじゃーないの
、と。

そういう点で、すっごく考えさせられてしまった一冊でした。
例の難波孫次郎の彫刻は戦後、昭和中期の勃興していく男性中心の働き手の社会のありかたを表現するのに、三島さんの三倍くらい筋肉のある男性が最適のモデルとして使われた・・・ということは分かりましたが・・・。






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by horiehiroki | 2015-01-27 12:10 | 読書 | Comments(1)

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他局との視聴率争い云々の前に、NHK内で、しかも朝ドラが「会津」がらみで、攻めこんできてるところが恐ろしいですねー。長州VS会津の戦いはいまも続いているんですねぇ~。しかもアッチの朝ドラのほうがよほど濃いぃのが恐ろしい。いったいこの先、朝ドラと大河はどうやって住み分けていくのでしょうか。

タマテツ(まっさん)って「八重の桜」の山倉大蔵役で、印象を残しました。

会津戦争で会津藩が”潰れてしまった”のち、家臣達を率いて北上、極貧の斗南藩の家老になったものの、八重さんの最初の夫を犠牲にせざるをえなくなったり、多くの辛酸をなめたあげく、廃藩置県を迎え、藩自体が消えてしまった・・・というような感じでむせび泣いてました。

その大蔵役だったマッサンにむかって、元会津藩士で、斗南藩解体後に北海道に渡らざるをえなくなった「ニシン御殿」の主・クマさんが
「かつて、われわれは新天地ほっがいどうでも
逆賊とよばれ~
会津モノに~~葬式などあげられねぇど寺の坊主からも言われ~~」
「ここをお前たちの故郷としてのごしでがっだから~~ど~しでも~この家を売りたいとはおもえねがっだ~~~」とか、
こゆいこゆい内容と演技の一人芝居をえんえんと続けてるわけで、もはやこれは長州に向かって会津から放たれる、呪いの毒矢としかいいようがありませんw



しかも、八重さんと、文さんって2才しか違わないんですよね。


はぁ。。。



今日はホントの意味での「イケメン」のご出演が、まったくありませんでしたが、数字的にどうなんでしょうか…。


それよりなにより本日のレビューですが・・・一般的な時代劇的上の演出センスからはやはり、外れていましたねぇ。


金子と松陰という志を共にする師弟=仲間はペリーの船に乗り込むことが最終的に叶いませんでした。金子は足軽=厳密では武士ではないです。一方、松陰は「はぐくみ」、つまり公からニートの身分に堕とされてるわけなんですが、それでも武士は武士なんです。その違いによって、二人は牢獄も引き裂かれ、扱いにも差があり、同罪であるにもかかわらず、差別されていた、と。

しかも金子は不衛生な状態で江戸で投獄されていたため、伝染性の胃腸病となり、苦しみながら長州までたどりつきます。

(あと、松陰の皮膚病の下り、出てきましたけど、あれもほんとなんですよね。彼自身が書いています。くわしくは拙著を)

その様子をスパーンと飛ばしてるあたり、来週につなげる予定かなぁ、とは思いつつ、先週の脱藩騒動をスパーンと飛ばした記憶もよみがえり、なんとも不穏ですw

松陰さんも荒ぶるインナーチャイルドに大人の人格が支配されてしまったのか、家族に視線を合わすこともできない、対人障害の子どもみたいになってきていて、ますます不穏です。

史実では松陰はこれらの顛末を文書に綴り、すごく悔しがっております。
松陰が投獄された「野山獄」の囚人たちに、松陰はその思いを伝える中で、本日の放送では、手だけの出演だった井川遥さん演じる高須久子ととくに交流を深めていく
・・・・・・・・ので、来週に期待ですかねぇー。麻生祐未さん演じる金子の母親が、病気の金子のカゴにすがりついている姿が描かれました、が、杉さん一家は彼女を無 視というわりとアレな演出も気になりましたw

そういうスッタモンダな最中が30分前後から開始される、今回の大河特有の「女子タイム」のうちわけでありました。

「父上、しなないで」「兄のかわりに私が手足にならねば。わたしは学問をする!」・・・の二本立てという、あるいみまっとうといえばまっとうな何かでしたが、この「女子タイム」のために、金子さんと松陰さんの涙の別れがすっ飛ばされたと見られてもいたしかたないか。

すくなくとも「マッサン」におけるクマさんの独白は涙を誘いましたが、大河のほうは金子と松陰の失敗と別れというお涙モチーフを・・・・・・

・・・とかツッコミどころは多々ありましたが、ホームドラマとしては、まとまった内容でした。

やはり実在の登場人物が、おもに史実をベースに属性を与えられねばならない・・・という大河のお約束に対し、朝ドラの自由さが表現に重みとかドラマ性を生んでしまっているというのは皮肉としかいいようがないかもしれませんねぇ。

☆本日中に画像うpします。 また見てくださいね
by horiehiroki | 2015-01-26 10:56 | 大河ドラマ | Comments(0)

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與那覇潤(よなは じゅん)さんは1979年生まれ。僕と同世代(彼が二歳年下)の歴史学者さんだそうです。

こちらの「中国化する日本」という本の著者であるということを、先日の新聞広告で知り、なんとなしに興味を持って開いたところ、なるほど、なかなか面白い本でした。

まず、本の題名にもなっており、本文でも何回も出てくるキーワードの「中国化」ですが、これはある意味、誤読→炎上してでも一般化するよう、狙って付けられたものだと感じましたw

與那覇氏による中国化、という言葉の説明を、僕が理解できた範囲で書いていくと、

階級の頂点にたつ為政者(中国の場合は皇帝)が、
側近たちを、その実力をはかる試験(中国の場合は科挙)によって、徹底的に、選ぶ社会。・・・のことです。

その中央集権型国家が、その後の中国はもちろん、全世界的な当地のルールになっていく、と。

えーと、たとえば唐の時代にも科挙はありましたが、名門貴族のお坊ちゃまなどには抜け道がありました(その一方で、貴族の御曹司にまじり、白居易のように低い身分から難しい試験に合格、官僚詩人になったというような例もありますよね)。

そういう手合いの貴族勢力がリストラされたのが宋時代以降の中国王朝である、と。

ようするに門地とか家柄とか関係なく、誰でも、実力一本、試験の出来だけで選ばれる、という前提を作ってしまったということ。かくして側近たちの地位の世襲はほぼなくなり、同時に、階級の頂点にたつ為政者の地位は世襲ではあるが、民衆から罷免されれば、首のすげ替えが可能(革命)。


本書の感覚でいえば、現在のアメリカの大統領制と、「ぼくはエリートになる!」という自由意思と、学力選抜によるエリート選出のシステムも「中国化」されたもの、だといえるよね、というようなのが與那覇氏の発想です(なお、実際的な”影響関係”の有無について議論は、ナシ。「中国化」とはある種の社会がゆきつく先の一つだから、文化、文明をとわず、どこの社会でも「中国化」にいきつきうるのだ、というようなイメージで全体的に論がすすめられている

中央集権国家ということにプラスで、われわれが自由主義的とかなんとかよんでいたソレは、もともとヨーロッパ近代などよりも以前の中国の宋の時代にうまれ、その中国文化の中で歴代、極端なまでに実行されていたシステムであり、こういう社会のあり方を「中国化」と呼んでもいいんじゃないの・・・・・と、そういうイメージの論調だと思います。


が、

その中国で20世紀初頭までおこなわれていたエリート選抜の科挙の試験内容は、「複雑なルールに支配された漢詩の作り方」を丸暗記出来ているかどうか・・・というようなことでして。政治論でも経済論でもなんでもない。

ホントにその試験内容がエリート選抜システムとして実用的だったか・・・というようなことなど、細密な部分にはこの本は「ポップにして真摯、大胆にして正統的」、さらに「(歴史を理解するための)新しいストーリーを描きなおす」・・・というようなことを目的としてるので、ほとんど触れられてはいないようです。

だから「中国化」という言葉は全てを包括する概念というより、思索を深めるため鍵、文字通りのキーワード、として考えられるべきです。

ここで思うのは、科挙・・・ほどではないにしても、一昔前までやたらと厳しかった受験戦争というようなツメコミ型の試験で合格できる人材というのは、為政者にとってもっともコントロールしやすい性質をもってるんですよね、という点。

実生活から乖離した無意味におもえることですら、目標をたてて、長年、がんばって勉強して、鬱にもならずにマスターできる・・・というような。

だから宋から清までの中国の王朝が科挙を使い続けた(元の時代に一時的にストップされたにせよ)、その理由は、その試験内容とその試験を切り抜けた合格者が、いろんな建前を抜きにしていうと、為政者にはもっとも使いやすいタイプだったんでしょうね。

羊のように従順で、あたえられたタスクを文句も言わずにこなしてくれる。政治を志してる人材なのに試験内容は詩学で選抜されてしまうという前提が、なにより買い手(為政者)の利益しか考慮していない。
それが優秀な政治家は芸術家でもあるべきだ、という美名で覆い隠されているだけ。

主権者が、自分の仕事を助ける、最優秀の歯車を探しているにすぎないということですね。それが権力一局集中時代における登用試験・科挙のもっていた本当の意味だ、と。

(ちなみに日本では装束や儀式の知識の深いひとが低い身分から出世したりもしましたので、この手の登用制がまったくなかったわけではないです)



宋の時代は我が国でいえば平清盛・後白河法皇がタッグをくんで「新しい世をつくろう」としていた時代で、ちょうどこの時代、我が国では院政という(天皇経験者の称号のひとつである「院」たちのうち、特に有力なひとりの「院」が政治の実権を握り、現役天皇や朝廷、その他をグイグイ動かす)政治形態がスタートしています。で、これを與那覇氏は、(宋との)経済活動のため、というようなことを言っています。

たしかに後白河は、規則にしばられる天皇の身分であれば会ったりできなかった外国からの客人に、身分は上皇となることで、直接面会できたりしていますよね。

ただし、こちらも「日本社会の”中国化”が計られた」という、単純明快な結果が多く見受けられるわけでもなく、例えばこの院政時代、「中国化」が徹底されていく中で排除されねばならない、貴族の財政基盤・・・つまり荘園制ですね。
こちらが摂関家を頂点とする貴族層から、天皇家に戻っていったというような背景は見逃せません

律令制度では日本国のモノであった土地が貴族の財政基盤を支える、”私物”と化したのが”荘園”。それが皇室・皇族の財産にきりかわったのが”皇室領”。

また、後白河はブレーンだった信西らに「まれに見る愚かな君主」という酷い評を、即位前も即位後も下されています。信西らはホントに「中国化」を進めたかったのかもしれないけれど、後白河は、いきすぎた財力・権力・政治的発言力をもつようになってしまった”摂関家”など門閥貴族に対し、主君として「維新(リストレーション)」を行いたかっただけ、ということだったとも思えますが。

(理想よりも、現実的な整合性を重んじる君主判断の結果ともいえる)


そもそもこの本にも書いてあるように、摂政・関白などという当時の宮廷社会を牛耳っていた地位自体が、古代日本で定められた「律令」には存在してない「令外官(りょうげのかん)」だったという事実も考えねばならないですね。

・・・・というようなことがどんどんと思い浮かんでくるほど、この本を読むことは非常に面白いんだけど、同時に、日本社会の「中国化」ができない理由。日本社会と「中国化」の相性の悪さ・・・というようなこともどんどん浮き彫りになっていくんですよねー。

「中国化」のひとつの条件である、門閥貴族のリストラという側面に象徴されるあれこれが、圧倒的に日本では受け入れられにくかったことがあると思いますね。

たとえば中国では百姓といえば全ての人々を指す単語だったりしますよね。劉という姓を持つ貧しい農婦が自分はその姓ゆえに漢王朝の為政者の末裔であり云々・・・・というような冒険をはじめてしまうのが中国です。またこの「中国化~」という本にも述べられていたように、中国には「父方の姓」が同じひとを助け合うという互助システムがあったとかなんとか。

日本でいえば「姓」の代わりに「名字」ともいうべきものが、それこそ院政時代以降、主流になっていきます。
「藤原」の一族として、ではなく、その一族における「近衛」とか「鷹司」の違いが日本文化では大きく捉えられる。
「源」の一族っていっても、「足利」と「徳川」ではまったく違うでしょう?

それは頂点の身分の人々だけでなく、庶民の場合でも同じか、と。村の大半がおなじ名字の家族しかいないところでも、ウチのおじいちゃんはやっぱりウチのおじいちゃん、って感覚ですわな。

たぶん日本では個々人が所属する「ある程度の大きさの団体(家、会社、●●といった住宅地)とか、目に見えたり肌身に感じられる単位のほうが重要であるという感覚が非常に、非常につよく、「姓」というような対象が大きく、大きすぎる基準を重要視することは難しいのだ、と。

いっぽうで「姓」という大きな単位を信じ、それによって優勢を保証されていると思っていられるからか、実際、中国の方の「個」の強さ・・・自分という「個」への信頼感はすさまじいなぁ、すごいなぁ、と思うことありますよ。

たとえば技術的な翻訳をやってる中国から来た人に、僕は、「おまえの日本語はヘタクソ」と怒られたことがあります(笑
先祖の話になると、だいたい皇帝がでてくるし。

たぶん、これ、他の国では、絶対にありえない感覚だと思うんですよね……。
そのカタマリみたいなのが「中華」という思想です。
まぁ、どこの国の文化も自分が世界の真ん中という感覚を持ってはいます。でも中国ほど、大々的に打ち出している文化国家は少ないのではないでしょうか・・・(そもそも中華人民共和国って名前になってるし)。

というようなことをツラツラと考えて、まだ本の途中でありますが、ショーゲキが勝ったのでブログのネタにしましたとさ。

・・・と久しぶりに歴ヲタ系の話題でスイマセn

→最後までザックリ読みましたが、與那覇氏のウリは徹底してニュートラルな視点、ということでしょうね。
たとえば明治維新について語るとなると、旧幕側と新政府側の二派に必ず、書き手は別れてこれまで言説を展開することが多いです(そしてそれはおうおうにして、語り手の祖先の立ち位置を踏襲している)。

ところが與那覇氏は徹底して、そういう血縁的文脈から離れて歴史を見ようとします。ちょうど外国人が日本史をみるように、ドロドロした「私怨の日本史」からは離れようとしている。遠いところから、原理/原則というようなものを見つけるがために歴史の細部に触れているという印象がある。これがウリなんです。


続きは、近日公開予定。



by horiehiroki | 2015-01-25 10:24 | 読書 | Comments(0)

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乙女の日本史文庫 第二版&第三版がまとめて送られてきました!
ちなみに左上が初版。右下が三版。
帯がどんどん替わっていってる。
ちなみに「話題の本」っていわせていただけて、うれしいですw

全国書店の「女を読む。女が読む」フェアにて
取り扱っていただいております!
第四版ももうすぐ送られてくるかなー。

以下、わざわざ記事にするまでもないつぶやき。
今季の連続ドラマの中では「ゴースト・ライター」が一番、わが家では好評です。


「才能ある子」って大体、親との関係だけで構築した自我では社会にはなじめなくて、自分を再教育していくハメになるんですが。そういうリアルなトゲをお話の中に刺しこみつつ、うまいこと作家というレアな存在を美化してて(美化してくれてて)、さすが・・・!と思いました。

自分は作家っても、いわばノンフィクション系なんですが。
自分と同じ(?)ジャンルでも、「あー、この方、ご自分だけではもう、絶対に書けてないなぁ…スタッフに骨組みは作らせて、自分で文章、弄ってる程度だろうなぁ」というのが、透けてきちゃってる方もいらっしゃいます。

それでもたぶん、机の前にはかじりついておられるはずなので、あれだけ海辺を散歩、ベランダで瞑想・・・時間を優雅につかってられるのは大家の遠野リサ先生、キモが座っててさすがだなぁ、と。あとあの家、豪邸なんだろうけど、足腰が達者でないと暮らせないのが気になりました。

そもそも僕なんかね、電車が動いてる時間にタクシー乗るなんて、恐ろしくて恐ろしくて一切できません!!!
そもそもタクシーに一人でのるなんて恐ろしくて出来ないですね!!!!(何の自慢かわからない


遠野リサ大先生はスランプ嘆く前に、携帯電話の電源OFFにしたほうがいいかもw
せっかくキムラ緑子さん演じる秘書さんと完全同居なんだし。


女性陣のこまかいビジュアルにも注目ですね。遠野リサ大先生が、普段の中谷美紀さんよりずっとずっと眉毛うすく書いてるメイク、絶妙にリサ先生の年齢を感じさせるための工夫だとおもうけど、キマってると思った・・・。

あと・・・

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タレントじゃないんだから、宣伝に起用じゃなくて、新垣さんに音楽やらせてあげてよ、とか思いましたが、どうなんでしょうか(笑
サムラゴウチさんも、「ゴーストおすぎ」とか「ゴーストサカナクション」になってますよね
by horiehiroki | 2015-01-21 08:08 | お知らせ | Comments(0)

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書籍版とあわせてお楽しみください。



で、「花燃ゆ」第三回です。

大河「花燃ゆ」第3話は15・8%!盛り返して2・4P上昇…だそうで、よかったですね。
今回は歴史的事実と、ドラマとしての演出の部分を落差なく、
第二回のアレさにくらべると、ですが、破綻無く描けてたような気がしますわ。

一視聴者として第三回は一番よかった気がしますよ。

ぎゃくにいうと、今回の内容を第一回にして、漕ぎ出すところからはじめて、回想、回想・・・と第1回、第2回の内容を詰め込む・・・くらいでよかったかもしれない。

前もお話したとおり、ホームドラマ路線=女子が好きな路線・・・ってのとは違うってことだと思いますし。


今回は吉田さんの問題行為について家族がどうかんじているか、という点もドラマの中で描かれました。ドラマという虚構でしかあぶりだしにくい部分です。手紙などから見る「史実」だと家族は、協力的なんですよね、としかいえないから(兄上だけは自分だけはお前の行為に怒ったぞ、とか言ってるけど)




家のため、学問のために、「幼年時代」を奪われ、その結果、5歳のままの部分を残してしまった松陰(吉田寅次郎)・・・っていうやつ。
史実でいうと、異なるんですが。
「アダルトチルドレン」てやつですわな。ああいう描き方は分かる人には分かるから、おもしろいとおもう。

今回、打ち出されたのは、その寅次郎さんの「生きづらさ」が例の出奔騒動だの、黒船無断乗船云々に反映している、という観点です。

これは松陰さんの書いてるものをみても、モーツァルトみたいなところあるじゃないですか。天使のように純真なところと、悪魔のように苛烈な部分。そういう吉田松陰の横顔をうまく捉えてた、と思います。

これは演出ではなく、史実、ぼくが彼の書物を読んで、その思考回路に触れての感想ですが、・・・

吉田松陰って、自分が信じた一本の道を粛々と歩いていけるタイプじゃないです。
道そのものの存在意義をつねに自問してしまうタイプ。

いわば「破道」の発想者であり、学者としては今も昔も、ああいうタイプは大成するか大破するかどっちかです。


大破するほうが99%だと思いますよ。脳科学者なのに、美とは、とかやっちゃうタイプ。その学問では実際には立てられない問いをどんどん作ってしまうタイプ。同じことを繰り返していくことに意味を見いだせないタイプだからねぇ、と。「語りえぬもの」については沈黙せよ、なんて対応が出来ないタイプ。

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てかこんな不穏なわかれ方して追いかけてこないとでもおもったんだろうか。

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そして、花燃ゆ名物になりつつある
出てくるたびに目がおよぎまくって
困惑している兄上()

この点については、そのうちもっと触れることになるとおもうので、今日はこれまで。

あと、女子向けに坊主アタマではないビジュアルの久坂さんが出てきました、が、いろんないみで「ごちそうさん」って感じですわなー・・・。

これまで試聴した中では必ず、8時30分過ぎたあたりから御約束の女子タイムが始まるんだよね。今回は久坂さんと深夜→早朝まで黒船見学・トレッキングをやってるシーン。
願掛けしてたんじゃ!!→おみくじをもう一度引く、とか、とか個人的にはすごく好きな演出でした。
はぐれてしまって、「またねぇ!!」「またなぁ!!」のやりとりとか。

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「そういう人が私は好き!」
「す、すき?!」

とかの下りね。

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走り去っていきましたが。


こういうやりとりで、目くじら立ててるようでは、人間として器がちっこい。あきまへんよw

大河はフィクションなんですから。フィクションを通じて真の一面がうかがい知られたらいいんでおますよ。


・・・まさに女子タイムですが、由美かおるの入浴シーンに相当でしょうかね。そういうのになるといいなぁとおもうんです。良い意味で。数字云々より、ファンがついてくれるか、どうかがホントの意味での瀬戸際だとおもうんですよね。

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ちなみに! 
おみくじの大吉や凶といった区分は(推定だそうですけど)第18世天台座主 良源(912~985)の定めたルールに従ってるお寺が多いんだそうです。そして、そのルールで、たいていは山口県で製造され、某通信販売会社を経由して用意されたおみくじが、いろんなお寺の境内では使われておりますのやで。

順番は


大吉―吉―中吉―小吉―末吉―凶

です。

ぼくはことしは吉でした、が、一番多く配合されてるのがたしか吉でしたw
by horiehiroki | 2015-01-20 08:08 | 大河ドラマ | Comments(0)

1月15日発売、「コミックジーン」2015年 02月号上 にて、「第九の退魔師」が連載スタートしました。クラシック音楽ベートーヴェン~ブラームスまわりの人間関係&オカルトをベースにしたバトル漫画です❤ 

宣伝ビジュアルの解禁です。

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夏前くらいから打ち合わせをかさね、キャラ、世界観の設定など、ベース部分に、堀江も色々と関わらせていただきました。漫画は漣一弥先生です!

(予告)

もうすぐPIXIV上にて、「試し読み」も可能になるようです。
by horiehiroki | 2015-01-20 03:03 | お知らせ | Comments(0)

ヒトメボというウェブの「お嬢様タイプにはギャップ、体育会系女子にはロマンチックに! 坂本龍馬に学ぶ、タイプ別女性の口説き方」 というコラムで取材を受けました。女子的には、危険な女たらしをどう避けるかのマニュアルとしてご活用くださいませw
by horiehiroki | 2015-01-19 22:00 | お知らせ | Comments(0)