アウラなき時代の芸術


今日、この前の「ら・ら・ら クラシック」という番組で
はじめて知った宮田大さんという、
優れたチェロ奏者のCDを聞いていました。

CDを装置に入れて、再生スイッチをおすと、
ステレオから臨場感ある音色が流れ出して、
ビックリしました。
去年のCDですが、録音技術者の腕前や、
テクノロジーの進歩はものすごいものだと
感心しました。

そして、次のようなことを思い出していました。

ある60代の音楽プロデューサー氏が、
自分のブログに次のようなことを
書いておられたそうです

うろおぼえですが、

「CDを1枚製作するために、これまでだと
1500万くらいの予算があった。
しかし、最近は60万でなんとかするように言われる。
それではとても”真面目な音楽づくり”ができない。
音楽を続けるべきか、自分は悩むようになった」

それをよんだ、あるヒトが

「そんな製作態度は老害そのもの」

と噛みつきました。

その噛みついたヒトいわく、その音楽プロデューサーさんが
真面目な音楽づくりに金が必要という態度はけしからん、と。

現在ではことさらに設備投資に金をかけなくても、
誰でもフツーに手に入るパソコンと
ソフトでなんとかなる…などなどの発言もあったようです。

これに基づいて、さらに思い出すことがあります。

それは、日本の浜松市楽器博物館に所蔵されている、
通称・”ブランシェのチェンバロ”についてです。

”ブランシェのチェンバロ”とは、
チェンバロの名製作者だった
18世紀のフランソワ・エティエンヌ・ブランシェ2世
という職人の手による歴史的なチェンバロで
ヴェルサイユ宮殿などにも置かれていた(らしい)楽器のこと。
この楽器が浜松市にある理由や、
楽器そのものについては、こちらをご覧いただくとして、

最近は、ローランドの電子チェンバロなんかも
ものすごくイイ音を出すようになってるんですよね。

たとえば、この電子チェンバロが、
もっともっとよくなって、99%、
ブランシェのチェンバロの音色を摸倣できたとする。

しかし、そのブランシェのチェンバロの摸倣がそこまで
出来たとして、ブランシェのチェンバロ
そのものの価値は失われることはないんですね。

まさにそれは、唯一無比のアウラゆえだといえます。

話が、(音楽の)複製芸術について、に戻りますが、
私見ですが、音楽がデーターの一つとして
扱われるようになった時点で、
この手の問題は確実に生じてきただろうなぁ、と。

もともと1930年代に、ドイツの哲学者のベンヤミンは
当時、出回りはじめたレコードや、印刷などの”複製芸術”と、
”(オリジナル)芸術”の違いについて本を書いてますよね

”優れた芸術作品を前にして人が経験するであろう畏怖や
崇敬の感覚を指して「アウラ」という語を用いた”

ってウィキにはあるけど、この優れた芸術作品イコール絵画なら
オリジナルであり、音楽なら生演奏というところでしょうか。

興味深いのは、複製芸術の技術が発達した現在ほど、
CDは売れなくなり、ライブにのみ集客するという現実があること。

CDを友だちから借りても、
しょせんは(劣化させて)テープに落とすしかなかった
90年代くらいが、クラシック、ポップスとわず、
アートとコマーシャリズムとテクノロジーの
三角関係最高の蜜月だったんだろうなーーー…と思います。

最近はCDからCDを作ることができる。
しかも複製に複製を重ねても、
芸術=音楽=データ自体は劣化しない。
そこには、もはや、アウラもへったくれもないのですね。

芸術は、とくに(複製)音楽は
どんどんアウラを削ぎ落とされていってる。
アウラのない芸術にヒトはお金を落とさない。
そこに畏怖の念などないからです。

音楽=データにしてしまった、(複製技術による)音楽産業は、
みずからの手で、解体されてしまったんだと思うわけです。

書籍の世界も、他人事ではありません。
悪い言葉でいうと粗製濫造されて、ぽんぽん点数を
出さざるを得ない今の状況については、
やはり考えないとダメですね。

さてさて、これからどうなるか。
by horiehiroki | 2012-06-25 00:34 | 日々