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八重の桜(19)~

今日は、ちょんまげでベルばら・オスカル様風衣裳の慶喜さんにハラハラさせられました…。
頭はマゲのままですし。

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ばらは、ばらは美しく散る… そしてつねに他人事。

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ガクガクブルブルが止まらない(※毎度の御約束)


あのフランス式の軍服なんですが、わりと史実です。
ただ、ああいう服装をしてたのは事実なんだけど、和宮はすごくいやがったり。
そもそも幕府はフランスと手を結んでおり、だんだんと江戸城の軍政を中心に西洋風のよそおいなども入りこんできてたんですね。
それを和宮や天璋院(篤姫)はものすごく嫌がりました。
戦争が最終局面にさしかかり、もはや徳川存続事態があやういということになった時、和宮(そして篤姫)に、なんとか皇室にとりなしてほしいと江戸城入りする慶喜なんですが…………

和宮は、あんな軍服を纏っていた男とは面会できないというようなことまで(最初)言ってます。

(会えないポイントはそこかい!っていうツッコミはナシ。ヒトを操る才能に長けており、また大奥では悪評の高い慶喜にたいし、和宮は面会を拒絶することで自分のペースを掴もうとしたのだと)


なお、ベルばらではオスカル様があの手の軍服を来てるけど、あれは実際のところナポレオン時代以降のフランスの将校用の衣裳なんですよね。つまり革命前には着てるわけもない。

それはともかく、鳥羽・伏見の戦いについて整理しましょうか

世界大百科事典によると


鳥羽・伏見の戦

戊辰戦争最初の内乱。

王政復古ののち,西郷隆盛や大久保利通らの討幕派は,公議政体派を抑え,将軍徳川慶喜に辞官納地を命じた。


(※これが前回までの内容です)

これを受諾しない慶喜は大坂に退いて主導権回復を策し,また新政府内部でも慶喜と妥協する公議政体派が勢力を回復しつつあった。



(※ここが、今回のドラマで、二条城から裏口を通って脱出、というあたりです。公議政体派というのは改良型の幕藩体制を支持する人たちのことで、ドラマでいう岩倉さんみたいに「皇国を更地にもどして・・・」なんてことは現実的ではないと思う人たち。つまり、フツーの感覚の持ち主です)

危機感を強くした西郷らは,関東で挑発を工作し,これにのった幕府は,江戸の薩摩藩邸を焼討ちし,挙兵入京を決め,1868年1月26日(慶応4年1月2日),幕兵,会津・桑名両藩兵ら1万5000人を鳥羽伏見街道から北上させた。


ココを補足しますね。


いわゆる江戸の「薩摩藩邸焼き打ち事件」について。


1867年(慶応3)10月ころから、西郷隆盛の指示で小島四郎(相楽総三(さがらそうぞう))らは浪士数百名を同藩邸に糾合、「御用盗」なる名目で市中およびその周辺で辻斬(つじぎ)り、強盗火付けをはたらき攪乱(かくらん)工作を行った。

この挑発行為を憤慨した市中取締の庄内(しようない)藩兵を中心に幕府・諸藩兵は、12月25日早朝薩摩藩邸と支藩佐土原藩邸を襲い、焼打ちした。薩藩留守居(るすい)役篠崎彦十郎(ひこじゅうろう)ら数十名が闘死、浪士取締益満休之助(ますみつきゅうのすけ)は捕らえられ、伊牟田尚平(いむたしようへい)、小島らは藩船翔鳳(しようほう)丸で兵庫まで逃走した。この報が大坂城中の旧幕臣、会津・桑名藩士らに伝わるや鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いが始まった。〈原口 泉〉 →日本大百科事典より


・・・んですけど、要するに薩摩藩が江戸であばれまくったと。
ドラマでもあったけど、アヤシイ人たちが薩摩藩邸に入っていったと。それを庄内君が見ていたと。
ついに我慢ならんということで、薩摩くんの子分(笑)のさどはら君の家まで燃やされた、とw
葵学園で有名な(?)光景でございますねw


それはともかく、このコトで内戦が始まったんです。この内戦を戊辰戦争といいます。
その一番最初が、今回のドラマのクライマックスの鳥羽・伏見の戦いなんです。……ああいうナマナマしい描写だと足がすくんで戦意消失しそうです。




新政府も大久保らの強硬論によって4000人の薩摩・長州両藩を中心とする兵を出した。両軍は,1月27日に鳥羽と伏見で衝突し,装備にまさる新政府軍が幕府軍を1日で退却させ,淀藩や津藩の寝返りによって,30日には戦闘が終了した。この結果,新政府内での討幕派の主導権が確立し,西国の大名や大坂の豪商らが新政府支持に踏み切った。 


要するに人数は多かった幕府軍だけど、密貿易とかで稼ぎまくった薩摩の金の力をつかった新装備に負けてしまったというお話です。
なお、これらの(実家)薩摩の暴走に、江戸城大奥の篤姫は非常に心を痛めていました。


しかし、この時、幕府は小さな争いで負けたのではなく、たとえるなら大きな支柱を破壊されてしまいました。

これまでは外国諸国に対しても
「外交は(なんだかんだで正式政府である)われわれ徳川幕府が仕切ります」なんて言ってるシーンがあり、そういう風に扱われてきました。

なお、この事件の前年の慶応三年(1867)、パリで万国博覧会が行われました。見本市みたいなイメージです。日本も出品してるんですよ。でも幕府が日本を代表して出品するっていうのに、薩摩などが勝手に自分は自分で出品しちゃってる。外交の窓口になろうとして、必死に暗闘しつづけてきたんですよね。

そして今回のドラマ。

敵を目前として「先に鉄砲を撃たないこと」に会津藩の人々はこだわっていましたよね。

一部の藩が内乱を起こしてるだけ、というのが幕府のオフィシャルな姿勢でしたから。

タテマエ的には。

幕府からみれば、都の治安を乱してる薩摩に対し、「勅令」をかかげて、入京しなおすことは作戦だったんですけど、薩摩は「とおしません」という。
この小競り合いが発砲事件に発展、戦闘が行われるようになったのが鳥羽・伏見の戦いですが、規模はともかくこの戦い負けることの大きさがわかりますよね?

幕府ー・・・

ドラマでは今日までの内容が慶応四年の1月3日、4日までの話。

鳥羽・伏見の敗戦で逃走した幕府軍は、”味方の中の味方”にも裏切られはじめます(・・・・というのが来週のドラマの内容かと)

なお、ここからの約二週間で、日本史は一気に塗り直されてしまっています。恐るべきスピードで変わるときは変わるんですね・・・。


さて。


今回は身分が高い方とその他の人々がえらく親密にコミュニケイトしておりました。八重と竹子さんたちの元に照姫さんがあらわれたり。

いくら非常時とはいえ、あそこまでエライ人にお目通りは叶わないんだけど、そこらへんはまぁ、ドラマだからさあ。

竹子さん(黒木メイサ)が、歌を読んでましたけど、言い伝えでは、あの歌は彼女が戦死する時の歌なんですよね。

竹子は辞世の句として有名なあの歌を。 ・・・とNHKの公式HPにはございますが。

今回みたいな形で詠みだしたほうが自然といえば自然な気もする。

ウィキペディアを見たら、わりと流通してる晩年の写真ではなく、比較的若い時期とおもわれる八重さんの肖像写真が載ってますね。↓
少女時代から米俵を持ち上げてたというパワフルさもかんじられるけど、はにかみやさんな所も透けてみえるようないい写真だと思います。

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そして、ちょっと面白かったのが、

>以前は会津籠城戦前に(川崎)尚之助と離婚したというのが通説となっていたが、実際に離婚手続きが取られたのは明治4年(1871年)旧暦12月のことである。

だそうです。参考文献としてあげられてるの読んでみようかな。
by horiehiroki | 2013-05-20 00:26 | 大河ドラマ