アイデンティティ2

「若者」とは誰か アイデンティティの30年(浅野智彦著)という本を読みおえて。

この本でいちばん考えさせられたのは、アイデンティティに自己同一性という訳語が与えられているということの意味です。


「個人」から「分人」へ というサブタイトルをもつ新書を平野啓一郎さんが出されたそうなんですけど、その個人のコアが”アイデンティティ”なんですよね。思えば。
読書としては楽しめましたが、社会学的な本にありがちな「そのテーマ話すのに、その例なの?」という疑問で一杯になって、ちょっと違う所に意識が流れていってしまいました。

しかしこの本では、たとえば仲間以外の”他者”とのコミュニケーションに長けてない(とされる)「オタク」論にかなりのページ数を費やし、また、たとえば1980年代からあらわれはじめた「一人の友だちに全てを期待しすぎない。友だちをTPO別に持っている」というような事実が、コミュニケーションの新次元として扱われ・・・・

まぁ、オタク研究については、日本の社会学の中ではとても大事みたいなのですが、ココでそれを持ち出す意味はちょっとわかりにくかった。

・・・けど、実際に僕が知ってる19歳の男の子はものすごく饒舌で一日中情報を発信してるんだけど、彼がいま厳密には何処にいて、情報を発信している時以外は何をしていて、何を目標としていて、何がしたいのか。そういうことがまったく分からない・・・そういうタイプの世間との向かい合い方をしてる若い子たちがたくさんいるんですよね。他者とのコミュニケーション欲はすごいんだろうけど、自分を出したくない。
というかコミュニケーションに自分を介在させたくないのかも・・・なんて思います。

彼もいわばアニメとかそういうのが好きなオタク的傾向はあるんでしょうけど、それってもはやオタクだからディスコミュニケーションって話でもないだろう、と。

で、今、僕(堀江)は、「シュタインズゲート」というアニメを見てってるんですが(それこそアニメに詳しい友人に教えてもらって)、ここに出てくる岡部なる人物の言語がもっのすごいディスコミュニケーションな言語なんですね

今や浜崎あゆみよりもCDが売れてる(笑)宮野真守が声なんですけど、正直いって上滑り感がものすごい。というか出てくるキャラ全部が全部、ディスコミュニケーションな人たちばっかりです(w
そもそもそういう人たちばかりが集ってるけど、彼ら自身はコレで交流できてるの?!ってぼくは訝しくて。

とくに宮野さんがやってる役(主人公)が重症。

得意とする分野の演技みたいですけど(デュラララとかもそうだったので。あんまり詳しくないけどw

今、エピソード5とか6なんですけど、コイツが出てこないと(主人公だから)話すすまないし、でも出てくるとホントに気持ち悪いので(スイマセン)見ているモノとしては苦悶してしまい・・・みたいな。

てかこのアニメ、宮野真守が9割喋って終わりやん、みたいな。

言葉はもはや理解を得るためのツールではなくなってきてるんですね。
むかしは”ただしい”言語=理性を象徴してたりしたんでしょうけど。

理性 言語 狂気 の関係ってやつですよ(フーコーがいうみたく)

むしろ趣味別に色んな友だちがいることはそこまで奇異な現象かということも自分の中ではまったくピンとこなくて驚きました。
そしてそういう色んな自分の側面があることを、多重人格的と昔は呼んでいたらしいことも、まるで考えたこともなかったので、わりと驚きました。

そういうこういうで、ここで示されてるコミュニケーションの前提と、自分の中でのリアルなコミュニケーションの姿とはちょっと違う気がしてきまして。

しかし、それゆえ、ぼくみたいな人間こそ古典的な意味での自己同一性としてのアイデンティティを失っているのでは。そういう文脈でアイデンティティはもはやないのだ・・・というこの本で示された指摘は「じぇじぇっ」と驚きながらもナットクせざるをえないというかなんというか。

でもね、そういいつつも、これってアイデンティティ全般の話のようでいて、いわゆる近代的自我をベースとした近代的アイデンティティってやつの崩壊なんだと思うんです。

あくまで。


たとえば、「分人論」を説いた平野さんは恋愛は分人しないほうがいい(かも)と仰ったらしいですが、平安時代なんかの貴族は完全に「分人」して生きてますよね。光源氏なんてのは最たる例です。
彼が複数の女性を前にして涙ながらに繰り返される「自分がたり」には客観的にみて、統一が一切ありません。でも光源氏は光源氏として一個人なんですよ。ソレは疑いもない。
本音と建て前なんて近代的な言葉以上にTPOによって出す自分を変え、チョイスして生きていってた。
平安時代の恋愛の在り方なんてその最たるものです。

そもそも「本命」あつての「浮気」であり、本命というコアが存在しない恋愛関係、すべてが「側室」というか、サブ彼氏、サブ彼女であってもおかしくはないのですが・・・

こういう考え方、たしかに欧米から影響をうけ、はじまった近代的恋愛美学には存在しえないでしょうね。だって結晶作用が生まれないかぎり愛は始まらない、なんてスタンダールなどがいってたことを生真面目に捉え、日本という土壌、文脈に接ぎ木していけたのがこの前までの社会でしょうから・・・

TPO別に自分のカラーがゆるやかに代わっていく、そんなほうがよほど現実的かつ「楽」に生きうる生き方のような気がしてなりません。

・・・ということで、現代社会学と歴史、文学がもうすこし有機的に出会った本もよみたいなぁっておもいました。
ま、まぁ、そういうのが僕(ほりえ)の仕事なのかもしれないけど(w

by horiehiroki | 2013-10-05 11:57 | 読書