八重の桜(39)~「妻のはったり」と川崎尚之助について

まず今日は、あさくらゆう著「川崎尚之助と八重」(知道出版)を読んだ感想からー。

とりあえず過去の記事もご参考まで


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あさくらさんの仰るとおり、川崎尚之助(1836 -1875)については、大河ドラマが始まるまではほぼまったく、真実が知られていなかった・・・ということが良く分かりました。

川崎尚之助はもともと”正之介”と名乗っていたそうなんですが、会津藩で勤めるようになるにいたり、初代藩主の保科正之と同じ漢字を使うのは憚られる…という理由で尚之助に漢字を改めた、と。

これでフッとあらためて思われるのは、尚之助とは(たぶん)通り名で(=通り名にすぎず)、いわゆる西郷隆盛における吉之助とかそういう扱いなんですよね。
西郷さんは下級藩士だけど、いちおう(というと失礼だが)諱がある。
また、八重さんの兄である山本覚馬は「幼名を義衛と称し、諱を良晴といった」らしい。幼名=通り名っていってもよい場合があります。彼の場合は恐らくそうだったんでしょう。

諱(いみな)がない(っぽい)、もしくは幼名=諱がわり? というところからも彼の実家の身分、立ち位置がなんとなく透けて見える気がします。

出石藩士(兵庫県・豊岡市あたり)だった川崎尚之助の実家・川崎家については1726年頃から(寺の過去帳から)存在が確認できる、と。

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興味深いことに、最初から川崎という苗字付きだそうです。ただ、出石藩に川崎家が藩士として出仕するようになったのは1781年から1789年にかけての天明年間から。

川崎尚之助の父にあたる、川崎才兵衛がその人生の中で、紆余曲折はあったにせよ「小役人」という、士族に準するステイタスを手に入れたんですね。

八重さんの実家である山本家は上流武士である上士ですが、あまり経済的にはユタカではなかったはずです。
川崎家の収入は、その半分以下。

いちおう、サラリー額は上昇していったんですけど、幕末の最大時で九石取りだそうな・・・
下級武士のサラリーが基本的に10石以上であることを考えると、やはり武士というより武士に準ずる存在、下級武士にもギリギリとどかない「小役人」というステイタスに身分社会の中で据え置かれてしまったのだと思います。

川崎家の売りは知性。
それを当時の感覚では十分以上に評価されていたようです(経済的にはアレでしたが)。

たとえば1866年、出石藩に朝廷への貢献に対する賞与の品が贈られることになりました。
このとき、京に駐在していた出石藩の面々の中で、川崎尚之助の父・才兵衛は副代表として選ばれ、公卿である飛鳥井家に向かったそうです。飛鳥井雅典は武家伝奏だったと。幕府の意向を朝廷に伝えるお仕事です。簡単にいえば。両者の折衝役。

この賞与をうけるとき、出石藩の”京都組”における代表者の家格は100石取り以上、つまり”中流武士”でしたから、それを考えると、”小役人”レベルである才兵衛の抜擢はかなりの評価といえます。

身分や賞与ではいちおう低くすえおかれていたけれど(藩の財政難ゆえでしょうね)、才能としては低い身分の者でも高く評価される・・・そんな空気が(ことさらに明治維新で活躍したわけでもない出石藩の)武士社会にも、生まれはじめていたのがわかります。

川崎尚之助が生まれたのは1836年だから、父親が飛鳥井家にむかったときちょうど30才・・・つまり彼が八重さんと会津でようやく結婚しようとしているときに、父親の才兵衛は川崎家当主として現役の活躍を見せてたんですね。

出世も簡単なことではなく、貶められたり、身分を下げられたり色々あったようです。

よくもわるくもそういう環境に川崎尚之助は育ち、四男だったこともあり(ちなみに三男は、八重の兄とおなじで”覚馬”という)、長兄が父親のポストを引き受けるであろうことがわかっていましたから、残りの男子はべつにやるということもないのが見えていたんだろう、と。

さらに裕福な家とちがって、ニートとして成人男子をいつまでも養えるような経済力が川崎家にあるというわけでもない。

だからこそ、(父親が出世に熱を上げている藩の中だけでなく、)広い外の世界を知ろうとして、尚之助は遊学の旅に出て、その結果、山本覚馬と知り合い、会津にいくことになった・・・・・のだと思います。

自分の意思で分家しちゃったイメージでしょうか。

こういう場合、本家にも尚之助の記録ってほとんど残らないみたいなんですよね・・・・。

さらに川崎家の家屋敷は1876年に火事で燃えてしまったことがあり、川崎尚之助についてもあまりにもよくわからないことが多いようで。

一方、八重さんがうまれた山本家は川崎家の二倍程度のサラリーしかないわりに、上士つまり会津藩でも上流の家という扱いを受けていたそうな。
さらに山本家は養子が多く、たとえば八重さんの父・権八は150石取りの家。
八重さんの母・さくは、250石取りの家からお嫁にきているんですね。

すくなくとも山本八重、山本覚馬の前の世代までは、実家のステイタスが、収入よりも重視された会津藩・・・って気風がわかって面白いです。
だからこそ、そういう縛りの中で育ちながらも”才能で人を見るということが出来た”山本覚馬(尚之助を連れてきた)、山本権八(八重との結婚を尚之助に許した)・・・・というひとたちの感性の柔軟さについて知ることができて貴重な経験でした。

他にも色んなコトが書いてあるんですが、尚之助と別れて山本覚馬と同居するようになった八重は、(ドラマで見た以上に)覚馬を背負ってあちこち動き回っていたようです。

そもそも山本覚馬はこの本によると80㎏を超えて体重があったそうな。

あと覚馬は青春時代も独特で、ヤンキー風味のケッタイなかっこうで歩き回り、月代もそらず惣髪にして(ドラマで西島さんが月代をそってて、尚之助が惣髪だったけど、そうではなかったのカモ)、
超個性的な行動で有名だったそうですよー


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惣髪=この尚之助さんみたいな髪型のこと。


八重さんと同じ重量級のガチムチだったんですかねぇ。。
晩年のものとおもわれる細面の目を閉じた写真からは想像もできないけど。

こういうところからも、少女時代から米俵を担いでいたという八重さんの姿って信憑性が出てきました・・・。
最後に、八重さんと尚之助さんが東京で会ったというシーンが大河にも出てきたけど、あれは吉村康(よしむらやすし)さんの小説の中の創作だそうですよ・・・。



さて、ドラマです。今日は打ち合わせで時間がないので(w、駆け足になっちゃいますが。


同志社英学校の創設から4年。襄(オダギリジョー)は、アメリカの教団からの資金援助を危険視する日本政府から廃校を命じられ、外国人教師たちからも伝道教育の強化を迫られていた。板挟みになり苦悩する襄を、学生たちは弱腰と非難。八重(綾瀬はるか)は襄をかばうため、あるウソをついてしまう。
 外国人教師たちの提案を飲んで習熟度別クラスを解体し、新たに伝道専科のクラスを設置しようとした襄に、学生たちは激怒。ストライキが起こり、学内が不穏な空気に包まれる。
 生徒を退学にすべきという声があがるなか、襄はすべての罪は校長の自分にあると、自分の手を杖で打ちつけてわびる。騒動の首謀者となった猪一郎(中村蒼)は、けじめをつけるため退学を申し出る。



今回は・・・ジョーが手をバンバン殴って、しかも杖が折れた・・・と。
もともと(欧米文化においって)昔、悪い生徒の尻とか手を叩くことは学校での日常茶飯の行為でしたけど、自分の手を叩いてしまうアレは新島ジョーの悪いクセだったというようなことが言われてますよね。
でもじっさいに杖がくだけちって、それが「新島先生の杖」として伝わってるのには驚きました(w

オダギリさん、あれ、ほんとに自分の手を叩きまくったから腫れ上がってしまったそうです。
サイトに迫真の演技をお楽しみに!とか書いてありますけど、ほんとに叩いてたそうな。
ガラスの仮面か。


中村蒼さん演じる徳富蘇峰が中退してしまいました。
最近、キャラがどんどん入れ替わります。。



by horiehiroki | 2013-10-10 10:03 | 大河ドラマ