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「朦朧」の時代

佐藤志乃さん著、「朦朧」の時代という本を読みました。


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明治期の日本画の歴史を変えた、「朦朧体」を巡る問題について触れられています。

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↑の菱川春草の「菊慈童」に対して、「キレイ」と現代人は感想を持ったりするが、当時、これらの”朦朧体”を使用した絵は極論すれば「汚いモノ」として批判を浴びたんですね。

拙著の乙女の美術史(日本編)でも触れた内容ですが・・・

岡倉天心ないし菱田春草といった”日本美術院”の人々が、「朦朧体」で描いた作品には当初、すごい拒否のコトバが雨あられと浴びせられたんですね。

売れないどころか、拒絶された、と。
この本では拒絶された内容が詳しく分かるわけです。

”朦朧的表現”は、19世紀イギリスのターナーの絵なんかにもありますよね。


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ターナー『パリ、ポン・ヌフの眺め』


あと印象派。

余談ですが、先日お伺いした山内さんの個展で、「風景からえた印象を・・・」と僕がお話すると、山内さんは注意深く(?)そのコトバを避けて、お答えくださった記憶があります。印象って、かなり、ある種の固定化されたイメージを持つコトバになってるんですね。




西洋でも写実的な表現以外の表現が出てくるたびに拒絶反応が多々あったのは事実です。

ただし、日本みたいに、西洋以上にあたたかい季節特有の空気にふくまれる湿度や、その湿度ゆえに遠くまで運ばれてくる花の柔らかい香りなんかも表現できる朦朧体にはポジティブな評価があってしかるべきなのに、批判されたのは、(海外の場合とおなじく)画とはこうあるべきである! という固定観念がゆえ、なんですよね。

どうやら日本人の場合、それ(固定観念)=絵とはキレイでクッキリした色をもつべきもの、というようなんです。

たとえば、浮世絵が「錦絵」と呼ばれ、大人気を博していくのも、色がハッキリしててキレイ、という感動が購買意欲を誘ったらしいですよね。

明和2年(1765年)に江戸の俳人を中心に絵暦が流行し、絵暦交換会が開かれるようになった。その需要に伴い鈴木春信らが多色刷りによる東錦絵(吾妻錦絵)を編み出したことで、浮世絵文化は本格的開花期を迎えた(WIKI)


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ここで思い出すのは大河ドラマ「平清盛」の画像の薄汚さへの批判。
古来から、日本人って色味へのコダわり、感性の鋭さ。
作品の色彩へはとにかく、リアルよりもキレイさに固執・・・という傾向は今にいたるまで続いているのかもしれませんし、そういうことが、天心・春草の時代にはもっと露骨にあったのかもしれません。

この本の103ページ以降、当時の評が載ってるんだけど、

朦朧たる色彩=あるかないかわからない薄塗りの色彩 
朦朧たる画=輪郭線がはっきりしないタイプの描き方

これらが「いい加減な描き方をしている!」「ごまかしている!」という批判につながるわけです。
朦朧といっているより「ごまかし画」と言い切る場合や、朦朧とした輪郭の人物を「おばけ」などと表現する場合も多々あったようです(これを聞いて、画家は激怒)

また色彩面だけでなく、表現面でも天心・春草の絵は「ヌエ画」、いろんな流派、さらにはキモノと洋装を組み合わせたファッションが批判された新島八重みたいに、和洋折衷の画風の組み合わせはあたかも不純であるかのように激しく批判されてるんですね。

これ、明治人の感性、美意識に直に触れ得るような気がします。
われわれとしては、朦朧体ってリアルだと思うんですよ。
とくに高温で多湿な日本の温かい季節ってああいう感じがする。
でも、最低でも当時の日本人には、鮮やかさに対する執着があった。
現実でそう見える(=感じる)以上に、湿度など感じられないハッキリしたものの描き方が理想とされていた。
そういう表象へのこだわりが、絵を描いたり、絵を見る人には多かったのかもしれない。
思えば狩野派にしても土佐派にしても、朦朧たるもの、曖昧なものは伝統的に描かれきませんでしたよね。

おもえば
強い絵。
もっといえば強度のある絵です。それらは。

その源流?として思い出すのが下のような”白描画(はくびょうが)”です。

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参考:尹大納言絵巻(いんだいなごんえまき)の一部




そう考えると、平安時代~鎌倉、室町時代なんかに墨の黒と紙の白だけで描かれた、白描画の世界も未完成なんかじゃなく、むしろ、そういう高い強度が感じられるがゆえに(あと経済的な条件もあり)この表現法をわざわざ選んで作られたものだったのかもしれない・・・そもそも着色された当時の源氏物語絵巻(通称・国宝絵巻)なども非常に、明晰なカラフルさがあったものですしね・・・・


などと考えがひろがりました。


あいまいな日本、なんかじゃない時代のほうがホントは長かったのかも。
あいまいな日本=朦朧体=”19世紀的ロマン主義”を経由したまなざしのある日本、ってことかも。

一方で、現代でも美的な感性には輪郭がハッキリクッキリした明るさをもとめる傾向、日本人には残ってるのかも。(→清盛への「汚れてる」批判。「ごちそうさん」などに代表される朝ドラの画面の明るさ。


→参考記事


朦朧とは”真実”とはそんなにハッキリクッキリしたもんじゃないということに天心、春草たち、日本の土壌には早すぎた”ロマン派”が気付いていたがゆえの表現だったのかもしれませんね。


クラシック音楽なんかを思い出すんですが、ロマン主義時代の姿があらわれていく18世紀後半~19世紀になるほど、朦朧とした音色のフルートがもてはやされ、明確な響きで人気を博していたリコーダーが姿を消していくってコトが言えるんです。
今のオーケストラに、基本的にリコーダーってないでしょ?

もちろんこの本は、これらの美学的問題ではおわらず、インドに天心たちが訪れ、アジア主義に目覚める、アメリカ、ヨーロッパを周り「現代のヨーロッパには見るべきものはない」と断言した・・・・・・云々などの話にも触れています。

興味ある方はぜひ、この本をお読みください。多少、専門的な内容ではあるんですが(あとがきはおもっくそ砕けてるけど)、まぁなんとか美術好きという方でも読める域にはある、と思います



by horiehiroki | 2013-11-01 17:33 | 読書