新シリーズ「憂いの佐倉君」ー2


前記事に人気が集まってるので、時間を見つけて記事をかきました。

森先生のブログで、先日から新シリーズ「憂いの佐倉君」がはじまっております。


余談ですが、ぐそぐそとした情念の話がぼくは好きです


くわしくはウチの前記事と森先生のブログで。

で、今回はその続きと+αのお話をしようかと

森先生の漫画でも出てきてますが、佐倉君に対してだけでなく
家光と家綱はセイジの方針がまったく逆でした。家光と家綱は方針がまったく逆。

家綱はよくもわるくも官僚機構の長!みたいな感じ。
自分自身がリーダーシップを取るというより、家臣の決定を尊重し、みたいな傾向がやや強め。

でも先代の家光はよくもわるくも親分肌で、すきなヤツにはすきなことをやらせる、的なドンブリ勘定だったんですな。人生が。

あとね、家光(三代)と家綱(四代)の将軍交代劇の影に、
尾張君こと尾張藩の中の人・徳川義直との軋轢もちらほらみられまして。


ほら、江戸君の中の人(将軍)って、実子があれば基本的にその子が継いでいくんだけど、尾張君の中の人、もしくは紀州君の中の人も、家康さんの実子の家柄なわけで、いくら将軍=上様でも、適任者ではない!!!って判断されちゃうと地位がやばくね?! みたいなことになっちゃったんです。
まだいろいろと固定されてない、江戸幕府初期特有のあやうさ。

徳川家光(将軍) 1604年8月12日うまれ ーーーー 1651年6月8日死亡

徳川義直(尾張藩主)1601年1月2日うまれ ーーーーー 1650年6月5日死亡

ね、しかも、ほぼ同世代なんですわ。


家光は家康の孫です。家綱は家光の側室がうんだ子。

ところが、義直は家康の直の子、なんですね。

だから義直は自分より、甥のほうが偉くなっててイライラしてた。
さらにある種の(佐倉君とか)寵臣に寵愛をそそぐ家光の方針に、イライラしてる家臣も多々いたわけですよ。

(だから、漫画にあるとおり、四代将軍・家綱はそのガス抜きを行ってる。
中の人がかわって、もじどおり人が変わったような江戸さんに佐倉君は、はじきとばされる。)


三代将軍・家光なんですけど、しょっちゅう重病で倒れました。乳母。春日局をヤキモキさせたというアレです。

中でも1634年のこと。江戸君の中の人・家光さんが重病!っていうときに、
なんと尾張君の中の人・義直は、江戸城からも至近距離にあった、尾張藩の上屋敷に大軍を率いて名古屋から上京なさったと。

尾張藩上屋敷=現在の市ヶ谷あたりです。


歴史用語なんですが、上屋敷=表のカオは各藩の迎賓館みたいなもの。一方で、多数の藩士を収容できるシェルターでもありいざとなったときは要塞代わりでした。とくに重要とされる藩の上屋敷ほど、江戸城の周辺に固められていたんですね。


もともと江戸城を守るための要塞(その名の通り、カナメのスポット)として作られたのが、現在市ヶ谷の自衛隊駐屯地とかあのあたりの土地だったんですが、そこを大軍の、しかも反乱軍にセンキョされたら、もう江戸城は終わりです(尾張名古屋だけにw

幕府だけでなく、江戸全体が騒然として、尾張様が御謀反かっっっ?!?!
みたいな凄い雰囲気が漂ったんですけど、義直は
「その気はなかった お見舞いお見舞い  あれっ、びびっちゃたあ (ゝ。∂)~☆」
などとヌラヌラ交わした。

義直は家康公の子どもで、とにかくえらい人だから、周りの人間はきつくは言えない。

お見舞いってw

ンなわけないよねw

たぶん色々と”整わなかった”だけ、なんだと思う。
いつでもこういうことやってあげるから。
覚悟してなさい?
みたいな意思表示にせよ、
ただのイヤがらせにせよ、ね。
KYな行動でござった。



しかし、この後、当然ながら、江戸君は尾張君を警戒するようになり、その地位はじょじょに落ちていった、と。
「おまえのクビなんかかんたんに飛ぶんだぞ」と言いたかっただけ、ってもそのKYな行動がきっかけで、尾張君はよけいにイライラさせられるハメになっていくんでした。

それがもう一度爆発するのが、六代将軍・家宣が亡くなり、さらにすぐにその子・七代将軍・家継が亡くなるという将軍交代劇が頻発した時代のことであります。また機会あればお話しましょう


で、





そういうこういうで最近、宣伝わすれてましたが、県民性の源流、藩民性について
かかせてもらいました「藩擬人化まんが 葵学園」(集英社)もご購入、よろしくですわー。
マジでマジで。


by horiehiroki | 2013-11-12 20:39 | 作品紹介