「憂いの佐倉君」4(再編集)

ちょっと遅れてしまいましたが、佐倉君の中の人たちのことを復習してみましょう。 今回は僕がやたらと惹かれる部分があったので、ちょいマニアックですw

佐倉藩主が堀田家の時代・・・

堀田正盛(1609ー1651)

家光が正盛が倒れた際に見舞に寄越した、阿部重次は正盛と同じ家光の小姓あがり。阿部重次も家光の死去に伴い、殉死。この人が、上様に愛された肌を世人に見せることはできない!っていって、着衣で切腹した男性ですね。詳しくは拙著「夜と愛の日本史スキャンダル」をどうぞ

これは自分たちの男色の関係がホンモノであることを証明するための自害だったといわれていますが、
堀田家は春日局の義理の子の一族。それを足がかりに、権力者・徳川家との関係をふかめ、なりあがった一家でした。

もともと、徳川家と敵対関係にあった豊臣家方についてた時代もながく、もともとは1000石程度の旗本(やや上流の武家)程度の地位だったんですね。

それが家光の寵愛を受けて一気に勢力拡大をした。それが堀田正盛の代のお話でした。
じつは武士の切腹には3種類があると当時から言われていました。


義腹・・・主君への愛という、殉死本来の意義からの切腹
論腹・・・同僚が切腹するだろうから、それに置くれてはみっともないとして、切腹
商腹・・・自分が主君に義理だてて切腹すれば、「なんて忠義モノの子だ」として、子孫が得をするだろうとおもっての切腹


の3種類で、堀田さんの切腹にはこの1-3全てが当てはまったと思います。中でも三番目の商腹という観点は絶対に見逃せないですね。ようするに徳川家の武将として、正盛は堀田家の位置づけをなんとか確定させたかったのだと想います。

実は徳川幕府初期は、幕府の中心人物たちの間でも地位の移動が激しく今では幕府の実力者とはいえ、その全てが大昔から徳川家につかえる武士というわけでもなく、意外となりあがったばかりの家もたくさん含まれてたんです。つまり、平和にはなったけど、今度は幕府の中で勢力の奪い合いという戦がはじまってた。

2 に つづく


by horiehiroki | 2013-11-30 10:32 | 作品紹介