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「憂いの佐倉君」4-2

つづき。

で、次に漫画に描かれた時期の佐倉きゅんの中の人たちについて・・・


□堀田正信(1631-1680)

それで、殉死した正盛のあとを継いだのが正信です。20歳くらいの時。
堀田正盛の長男 通り名・興一郎。 官位 従五位下、上野介

「新訂寛政重修諸家譜 10」の記述によると、彼の父・正盛が病気になったら、物凄く家光は気にかけて、自分自身が見舞にきたり、あるいは正盛の同僚たちを派遣したり(おなじく家光の愛人をしていた阿部重次なども含む)。

懇切丁寧な対応をとり、正盛が元気になればなったで贈り物をもって来宅したり、その後、お返しの品を受け取ってかえったり(・・・・・女子校的プレゼント交換をおもわせるなにか・・・・・)。

正信はあとで述べる弟・正俊にくらべてずいぶん、経歴的には地味なんだけど、「新訂寛政重修諸家譜 10」の記述をみてると、親の七光りで、父・正盛が存命中は堀田家の嫡男として、個人の裁量というより父親の七光りで、それなり以上の恩顧を受けていたのでした。

しかし、家綱時代になると、それがぱったりと途絶えたんですね。

20歳の時に、家光が死去、父・正盛が殉死。


その後、徳川家では11歳の竹千代が将軍家綱として就任すると、正信の弟・弟の正俊は竹千代の小姓だったこともあり、兄をおしやって正俊のほうが出世していくんでした。

また、正俊は三男でありながら(二男、四男は、御家の事情で他家に養子にやられていた)、分家して大名として独立していたのですが、老中、その後大老にまで出世していったんです。

それなのに正信は溢れる忠義心をもちながらも、まったく重用されず。


「忠義心」のうちわけですが・・・・


慶安4(1651)年家光に殉死した父の跡を襲って(=継いで)佐倉10万石を領す。のち積極的な家臣団の拡大,武備の増強を企てながら,幕府への奉公を誇示。外祖父の酒井忠勝からたしなめられたという。
所領では「佐倉惣五郎」事件の伝承を生んだ苛酷な年貢増徴を図る。

家光政権の功臣であった父の跡を継ぎ,老中が城主となるべき城にいながら,幕政に参画できない焦燥と過剰な自意識が,時代錯誤の武断的な藩政として現れた様子。




所領では「佐倉惣五郎」事件の伝承を生んだ苛酷な年貢増徴を図る。

この部分も、実はあんまりよくわかってなくて、将軍に直訴したとかいうけど、そんなことが出来るのか…と思います。厳重な身分社会ですからね…

ちなみに・・・

さくらそうごろう【佐倉惣五郎】

近世の義民の代表者とされる人物。佐倉宗吾とも呼ばれる。しかし確実な史実は乏しい。生没年不詳。下総佐倉城主堀田正信が1660年(万治3)に改易になった事実があり,その当時領内の公津台方村に惣五郎という,かなり富裕な農民がいたことは明らかである。また正信の弟正盛の子孫正亮が1746年(延享3)に佐倉城主として入封して後,将門山に惣五郎をまつって口の明神と称し,1653年(承応2)8月4日に惣五郎とその男子4人が死んだとして,1752年(宝暦2)はその百回忌相当のため,口の明神を造営し,以後春秋に盛大な祭典を行った。




※また正信の弟正盛の子孫正亮 …というのは誤記。

正盛ではなく、正俊。
ただしくは正俊の子孫です。

正俊の子孫が堀田の本家も継ぐことになったんだけど、その時には堀田家内のタブーとしてなんの情報も正盛についてはなくなってたと思うんです。で、周りのヒトがこういう話があったらしいんですよ! っていう進言をして、佐倉さんが正盛を呪ったから、頭がおかしくなって、最後はハサミで自殺なんて行動に出たという説を、正亮も信じちゃったんでしょうね。


正信がどの程度、経済的認識があったかどうかは不明。
彼はおもに江戸にいて、ドリームをふくらまし、鼻息もあらく「江戸幕府を狙うものを討つ! 軍備拡張のため、人材確保のため、もっと金出せ!」って江戸から指示してくる正盛のため、国家老が年貢を引き上げていった・・・というのはよくわかる気がします。
徳川幕府の行き先をどうするか、って議論があった時代だとおもいますし。

正信の時代の佐倉藩は12万石(10万石、15万石とも)くらいですから、そこまで貧乏ではないにせよ、飢饉も多かった江戸時代ですからね。殿様は善意に燃えてたとしても、お金がかかることを一杯されると困ったでしょう。


それはともかく、正盛は不遇のままの29歳の時、1660年10月8日、突然幕政批判の上書を幕閣(保科正之ら)に提出。

その後、無断で佐倉へ帰城したとされます。

幕政批判については、この頃起きた、明暦の大火にたいする幕府の対応がなっていない!という痛烈な言葉の連続でした。

明暦の大火の被害は、江戸時代最大のもので、なんと江戸城もほぼ消失。天守閣ふくむ、江戸城のほぼ全域が被害に遭っており、多数の大名屋敷はおろか、庶民のすむ家屋も全滅状態という恐ろしいものでした。

ところが、その復旧作業が庶民たちの家屋ではなく、大名屋敷などのほうが優先的に再建されていくことに、堀田正信は憤ったんですね。自分の全財産を幕府に差し出すから、それを復興予算に使ってくれ、とも言いました。そして、佐倉藩に無断で帰ってしまったんですね。

まぁ、ものすごくイイことをしてるようで、幕府の方針=将軍の意思をひとりの幕臣の身でありながら、全面否定するという暴挙にかわりはなく、これは罰せねばならない、ということになってしまいました。

さらにこんな「恐ろしいこと」をする藩主を、彼の家臣たちはうけいれてくれませんでした。
田舎の家の門を家臣はあけてくれなかった…ともいいます。反抗的態度の藩主なんか、わたしたちとは関係ないので、罰するなら、正信さんだけを罰してくださいね!という家臣達に、正信は衝撃を受けたでしょうね。

しかし、堀田家先代の堀田正盛は先代・家光の愛人であり、またその政治家としての功績も考慮すると、死罪(切腹)にはさせなくてよいだろう・・・ということになりました。
というか、兄にかわって実力者になっていた、堀田正俊の口添えもあったのだと想いますよ。

こうして命はたすかったものの正盛は父親から受け継いだ佐倉藩の領主をクビになってしまいます。そして、閉門蟄居させられてしまったんですね。

その場その場で、いろんな問題行動をおこし、また御家の事情にまきこまれ、関係者をつぎつぎと閉門(自宅謹慎みたいなもの)に追い込み、最後は徳島藩主・蜂須賀綱通に預け替えられました。

おそらくこの配流生活の中で彼は「忠義士抜書」「楠三代忠義抜書」「一願同心集」・・・・・・と、歴史に学ぶ武士の心得的な本を書き始め、武士とはなにか、忠義とはなにか!?(裏テーマは主君への愛とはなにか) を永遠に問い続けたようです。

なんだか泣けちゃいますわ。

正信の父・正盛は愛され上手であるいっぽうで、冷静な計算家でもある。

でもその子の正信は、ホントに坊ちゃん育ちの情熱家というか、真面目一本でね。
幼いんです。考えかたが。
戦国時代ならそのまっすぐなところが愛されたでしょうけれど、武士が戦闘によってではなく、政治によって生き残っていかねばならない太平の世には向かない人物だったと想います。

そして、漫画でも描かれたみたいに、ハサミで喉をついて自死です。死ぬことが彼の武士としての、堀田家の嫡男としてのアイデンティティだったんだろうなあ


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寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ) という徳川家臣名事典みたいなのがあるんですけど、その中にも、かなりの詳しく書いてあるのが堀田正信。特に何かを成し遂げたという一生ではなかったんだけど、彼の自殺は刀を取り上げられてるがゆえ、ハサミでの喉突き自殺でしたが、ほんとの義腹に相当するんじゃないか。

純粋なる主君への愛による切腹(疑似行為)であって、父親・正盛のハラキリみたいな商腹の側面はホントになかったとおもう。だからこそ、おそらく影で人気はあり、大老にまでなった弟・正俊の記述なんかよりもこの寛政重修諸家譜の記述が多いのだと思います。

いちおう正信についての寛政重修諸家譜の全文はgoogle bookかなんかのサービスを利用すると、ネットでも読むことができます。「寛政重修諸家譜10 堀田正信」で調べてみてください




なお、アツい兄・正信とはまったくことなり、正信の弟・正俊は経済政策に定評がある「数字に強い男」でした。




3 につづく


by horiehiroki | 2013-12-01 21:25 | 作品紹介