テレビタロウ休刊に思う~メディアの変化とマスコミの終わり。
2014年 02月 25日(告知) 2016年7月20日 乙女の美術史 日本編 文庫版」、カドカワから発売! 書き下ろしの「恐い世界史」は三笠書房、王様文庫から発売中。
かれこれ10年近く、定期購読していたTV Taro(東京ニュース通信社)が、とつぜんの休刊となりました。
これはかなりビックリしました。
理由はいくつかあると思うんですけど、まず、この雑誌が映画もテレビも楽しもうという観点から、テレビで放送される映画を長年柱にしてきたからではないか、と。
長年、表紙も日本人タレントではなく、外国人スターでした。
しかし、ブラッドピットやレオ様以降、日本人が誰でも知っている海外スターは生まれていない気がします。
つまり、映画というメディアもずいぶんと退潮をしてしまったんですね。
マスコミの中にいる人間として言わせてもらえれば、ここ数年で、マスコミの人間が記事を書くために使う試写の回数は基本的に半分以下に削減されてるし、おそらくはDVDの送付が中心になりつつあるんじゃないでしょうか。
そして映画のレビューなんかを載せていた、雑誌自体が弱体化している。
雑誌というメディアも成り立たなくなってるんですねー。
TV Taroはこの両方の側面で、衰退してしまったんですな。
映画と雑誌ですが、これらの衰退は一つの大きな理由があります。
映画は、単館系の”芸術映画”以外の大衆ベースの作品の場合、視聴者、観客が共感を抱けるような主人公、ヒロインを中心にドラマを展開してきました。これはホラー、恋愛、歴史、アクション問わずの方向性です。
これは一体何か、どいうことかを、いま改めて考えると面白いことがわかります。
映画は、退屈な現実の補完手段だったんです。(あるいは映画誕生以前では、小説なんかが、その地位にあったと思われます。つまり、映画も、小説も、芸術である以前に、現実の補完手段だったということになります)
そもそも、テレビがない時代、映画を上映する映画館はかなりの田舎町にもありました。
そこで人々はなけなしのお金をはらい、3本立て、4本立てになった映画を楽しんだんです。
この時代の人々の生活の現実は、現在ほど彩り豊かなものではなかった。
映画が登場する以前、人間の生活は日本でも、ヨーロッパでも、とにかく全世界的に、自分と周囲の人間の人間関係しか楽しみがない状態でした。
とくに一部の富裕な都市生活者を除き、ドストエフスキーやトルストイの小説を見てると、地方の大地主たちが、家族とごく一部の友人達とで集まり、ときどきお互いの家を訪問し、一日を漫然と過ごさないために、ときに楽器を弾いたり、客が詩を朗読したり、そういうことで、かろうじて退屈な時間を埋めて生活してたんです。
つまり、映画は、楽器を弾いたり、詩を朗読したり、あるいは長編小説を読んだりすることで埋めてきた退屈な現実を補完する手段としてはじまり、熱烈な支持を得た。
現実を充実させる手段として。
みんなが共感できる主人公が設定されたのは、映画こそが、完璧な仮想現実たりえた時代があるからです。
・・・ところが、現在、インターネットの普及、さらにはスマートフォンなどモバイルの普及によって、仮想現実の世界は拡大し、もっとカスタマイズできるまでにになりました。
そして、映画は「ただの作品」にまでその地位をおとしました。
一時、テレビや映画は、誰かが作って流してるだけのもので、インターネットにありがちなインタラクティヴィティ、相互作用をもちにくい。
ついでに、インターネットを通じて誰かと繋がるということは、実在の誰かが、このメールないしLINEの向こうがわにいるという理由で、けっきょくは実在せず、俳優が仕事で演じているだけの誰かしか出てこない、テレビドラマや映画の登場人物よりは、魅力的だったんですね。
こうして、映画、そしてのきなみ数字を堕としているテレビドラマから、現実の単調さを補う、仮想現実としての側面はどんどん小さくなりました。
映画はどうせ、誰か、自分以外の誰かを主人公としたウソの世界です。
インターネットは当初、バーチャルリアリティの世界だ、などといわれてきましたが、そうではなかったんですね。
ようするにインターネットのバーチャルリアリティこそが、実世界の現実を補助するもんだったんです。
どこでもかしこでも、好きな人、友だち、家族などなどと縦横無尽につながる、自分「が」主人公の世界を作りうる手段、それこそがインターネットだった。
つまりインターネットは、あなた自身を、1人1人を自分の人生という物語の主人公にする手段だった。
映画やひいてはテレビなどなどの、自分以外の誰かにむりやり自分を投影して、楽しむ・・・なんてややこしいことをしなくても、LINEなり、ツイッターで自分が主人公になる世の中では、やはり人間関係こそが、人生こそが、最大のエンターテイメントになってるんですねー。
要するに生きていること自体がエンターテイメントになってしまう時代、それを超えるリアルなエンターテイメントを提供することは難しいでしょう。
いくら3Dの映画を作ってもね。
リアル、それこそが多くの人間のもっとも求める何かでしょうから。
だから映画を観るより、ドラマを見るより、LINEで自分が好きな誰かと話をしてるほうが楽しいって気持ち、よく分かります。
雑誌の退潮も理由は同じところにあるようです。
たとえば、昔、アンアンとノンノの読者の頭文字を取って、アンノン族なんて若い女性がいました。最近では、森ガールなんて言葉もありましたが、雑誌が、誰か、架空の理想とする読者を作ってしまう。
もともと、雑誌はそうやって発展してきました。誰それって芸能人こそが理想だ、という前提を編集者がつくり、読者もそうなるには・・・を考えるのがさすがに古くなると(ここらへんが、映画とかテレビが呈示できる仮想現実世界モデルの限界でもあります)、今度は雑誌毎に、架空の読者を設定するんです。
こういうモデルは女性誌では「小悪魔ageha」くらいまで、今では「美STORY」の美魔女みたいに、物議を醸しつつも(そして今では基本的にネタにしかなってないけど)、存在感を保ってきました。
一説に「美魔女」たちは、若い頃、なりふり構わぬオバチャンたちを「オバタリアン」などといって笑ってきた世代の人々だそうです。
自分たちが中年女性になったとき、美魔女というカテゴリーが提唱され、それに飛びついた、と。
この手の、もはや古典的ともいえる、カテゴライズマーケティングが有効な最後の世代かもしれませんね。
しかし、これらの手法も、インターネットがもたらす、各人それぞれを主人公にしてしまう世界では、どうも色褪せすぎてしまいました。けっきょく、みんなのための雑誌は、誰のためのメディアでもない。
個人が個人なりに情報を発信し、受け取りあう、つまり個人がメディアを有するようになってしまった現代で、古典的なマスコミのプロダクトが軒並みに苦戦してしまう理由はよーーーくわかるんです。
昨今のマスコミが、映画業界だろうが、テレビだろうが、もちろん出版だろうが、どれもこれももはやパッとしないのは、マスコミが生み出すもの、けっきょくは誰でもない誰かのためにしか存在しえない存在でしかないからでしょう。
マスのためのコミュニケーションがひろいあげようとしても、落ちる部分は大きい。そのネットの編み目は大きすぎるのです。
いっぽう、インターネットのネット(編み目)はとてもこまかいです。
自分のためだけの、コミュニケーション手段なのですもの。
今、マスコミが作っているすべてものは、現代アートと同じような限定された顧客層に受ける何かになっていくだろうなぁと僕は思います。
無くなりはしないけど、作品ってそもそもその程度の価値、じゃないですか。
ビジネスとして、どうやって生き残っていけるか。
ココが思案のしどころじゃのぅ~(ツルタロウ
官兵衛はたぶん本日中にレビューかきまーすw
バタバタしておりまして!
(告知) 2016年7月20日 乙女の美術史 日本編 文庫版」、カドカワから発売! 書き下ろしの「恐い世界史」は三笠書房、王様文庫から9月発売予定…