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エフゲーニ・キーシン

武蔵野までエフゲーニ・キーシンの演奏会にいってきました。
実は10年くらい前にも実演に接しており、その直後にも一回、外国で聞いたかな。
国内では10何年ぶりに彼の演奏会に行ったのですが、
芸風…というとアレですが、作風が変わった!という印象を受けました。

プログラムは以下のとおり。


シューベルト:ピアノ・ソナタ第17番 二長調 Op.53/D.850

(休憩)

スクリャービン:ピアノ・ソナタ第2番「幻想ソナタ」嬰ト短調 Op.19
スクリャービン:「12の練習曲」 Op.8より
          第2番 嬰ヘ短調
          第4番 ロ長調
          第5番 ホ長調
          第8番 変イ長調
          第9番 嬰ト短調
          第11番 変ロ短調
          第12番 嬰ニ短調「悲愴」



パンフレットには赤川次郎さんの「キーシンさんおかえりなさい」などと題する文が載っていて、何時聴いても、安心してキーシンのクオリティは楽しめる・・・というような内容だったと記憶します。
・・・が、今回聴いて感じてしまったのは、そういう「キーシンらしさ」から彼が脱皮しよう試みてるのではないか・・・ということです。

10何年前のキーシンが、24の前奏曲やら葬送をサントリー・ホールで弾くのを聴いた時にも思ったのですが、かつてのキーシンは「完全な音楽」を常に実現する人でした。端正で美しい、王道の巨匠の音楽とはこれだ、という弾き手の見本みたいな。

それゆえ「本編」の完全無欠な音楽と、勢い重視の「アンコール」の自由さとでははっきりと線引きが出来た記憶があります。

ところが、今回のプログラムは見ただけでも意欲的であることがわかりますよね。
逆にいうと玄人受けねらい、というか。大衆受けしないというか。

そもそもシューベルトとスクリャービンを合わせる人は少ない。
これ、フツーのピアニストがやったらお客が入らないと思うんですよねー・・・・・・というような会話が会場のあちこちから聞こえましたが、実際のところ、キーシンがなにをやりたいのか、なにをきかせたいのか、どういう方向にこれから進化していきたいのか・・・がハッキリとわかるプログラムだったんだな、と、終わった今、痛感しておるところです。

まず音色の探求ですね。
彼には抜群のテクニックがあり、端正な美音、さらにはもっとも美しいメロディラインを音のカタマリの中から掘り起こす頭脳、才能に長けています。
音の運転マップがアタマのなかにぜんぶそっくり入ってる人ですわ。

だから複雑な音楽であればあるほど、キーシンらしさは際立つんですけれど、あえてそれをシューベルトにぶつけてみたんですねー。
これまで完全無欠であることを最重視した作りの音楽から一歩離れて、今、その会場でしか弾けない音楽をつくっていってるイメージがありました。

なんとなくですが。

なんかね、同じ武蔵野の大ホールで何度もリサイタルを開催してたんですが、ついに今回はチケットがなかなか売り切れないんだー、このひとーって思っちゃった、あるピアニストがいたんですけど(「巨匠」枠の人)、彼なんかは何時聴いても「同じ」なんですよね。どこで、いつ聴いても完全に同じ。上手いんだけど何回か聴いたらもうよろしいわ、みたいなことみんな思うんだな、と思っちゃいました。

で、キーシンに話もどりますが、
シューベルトの17番って音楽の評定はひじょうに単純明快でシンプルなんだけど、左手と右手の「対話」は複雑で、そこら辺のギャップをいかに音楽として聴かせられるかが勝負だと思います。
わりと苦戦してるのかしら、と思うところもありました。意外にも。
じゃっかん第一楽章、第二楽章ではコントロールが出来てないところがあって、「?!」と思ったんですが、第三、第四楽章と音楽がすすむにつれ、方針を変えたのかな・・・と思い始めました。天才も試行錯誤するんですねぇ。

そういう意味で、従来の「キーシンらしさ」が発揮されたのはやはりスクリャービンだと思います。
会場のウケも抜群でした。
第二番のソナタは正直いって、美しいメロディが膨大な数の音符の中に埋もれて響くように弾かれることが多いのですが(それゆえまとまってない印象を与え、CDなんかでは続けて収録されてる第三番のソナタで、「あー第二番でいいたかったことがやった言えたね?」なんて印象をあたえがちなんですけど)、キーシンの場合はそういう散らばった音符と音符をつなぎ合わせて、一本の線をつくりあげていくだけの構成力があるのですよ。
そこらへんはものすごいし、過去においても、未来においても、彼以外、誰にもまねできないと呻らせられました。

さらにおもしろかったのはこれまでの端正な弾き方以外に、ビックリするくらいに自由な指の角度で鍵盤を叩いたりして、「新しい音」を追求していたところですね。
オーケストラでもモーツァルトの音、シューマンの音、そしてマーラーの音ってあるんだけど、ピアノではそこまでの違いを出すことは難しいかもしれない。
ショパンでもなくリストでもなく、スクリャービン、それも初期のスクリャービンの音。
キーシンはそこら辺にもチャレンジをしてるのかなー・・・とも思いました。

スクリャービンの練習曲の第8番 変イ長調はシューベルト風でしたし、同じくスクリャービンのソナタ第二番の左手と右手の対話なんかも、前半のシューベルトのソナタの一部で「予告」されてたわけで、スクリャービンってよくいわれるようにショパンやらリスト以外の残響なんかも感じうる音楽かもしれませんね。

アンコールの第一曲として「シチリアーノ(ケンプ編?)」が弾かれたんですけど、彼がシューベルトで表現したかったこと・・・ってほんとうはバッハ(それも出来たら編曲ではなくて、バッハの音楽そのもの)でしかできないんじゃないかな・・・と思ったり。でも21世紀の音楽事情、そして今のコンサートホールでは「難しい」かもですねぇ。

アンコールの第二曲は、8つの練習曲~.嬰ハ短調,Op.42-5
これは凄まじいです。音符の量が!
自分でも弾いてみようと思ったけど、読譜すら困難(w
大好きな曲ですけれど、メリハリのある音楽としてこれを実演で、しかもキーシンの演奏で聞けたのは幸せでした。

アンコールの最後の最後は大サービスで英雄ポロネーズ。
近年めずらしい勇壮なポロネーズでした。リズムにすごくコダわりのある、男っぽい華やかさのある演奏でしたね~。
全体として、19世紀生まれの巨匠が”完璧”に演奏できたら、今のキーシンの作風に近いんじゃないかな・・・とも思いました(笑







by horiehiroki | 2014-04-23 01:06 | 音楽