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つげ義春全集

今年の夏の終わりにかけて、自分が純粋に「楽しみ」として読んでいた本は、評伝「寂聴伝」と、原田康子「挽歌」、「つげ義春全集」全9巻でした。これらの書物はいずれも刺激的であったので、そのうちブログに記事を書くこともあるかとおもいますが、つげ義春にはものぐるおしいほどに惹きつけられる「何か」があったので、興奮を忘れないうちに残しておこうかな、と。

つげ義春の作品に最初にまとまったカタチで触れたのは、今年の芸術新潮の特集でした。

それまでは、イラストやヒトコマだけの引用でつげ義春について知っているだけで、道幅のせますぎる通りにビッシリ面して建った、古びた木造家屋の間をすりぬけていく時、わー、つげ義春っぽい・・・なんて感じているだけでした。


その程度の人間に、なにが作用して、つげ義春に全集を読み終えさせるほど固執させたのか・・・というと、昭和という時代の空気感だったのです。

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つげ義春の画の才能・・・というか画の雄弁さにはひれ伏す思いになります。
なんなんだろう、この圧倒的な存在感・・・

同時に、そんな絵でしか、かたりえない時代というテーマがあると思います。

時代にはそれぞれの空気、その重みがあります。
天才の仕事を定義すると、その時代の空気にふれて、輝けるか、ということでしょう。天才の歯車と時代の歯車の両方が重なった時、才能は火花と散る……のですが、つげ義春のどこまでいっても出口のない天井の低い作風というか、テンションの低さもまた、昭和らしさだと。

つげ義春のおそらく最新インタビューを芸術新潮で読みましたが、体長も優れず、息子が引きこもりなので、書くことはもうないと言い切っており、その潔さには驚きました。
たしかにつげは漫画を書くことに苦心して何度も筆を置いているんですが、もう書かないと言いきる背景には、彼に漫画を書かせてきた昭和の空気とその重さは、もうどこにいってもなくなってしまった。モデルのいない、テーマのない画家がもはや描けないように、彼にはもう漫画をかく意味がなくなっているんだろうなぁと思えてならないのです。

自分も多少若く見えますが、昭和後期に生まれた人間でして、小学校高学年くらいの時に昭和が終わり、その後くらいから、自分の意思で芸術というものに「目覚めた」のをハッキリ覚えています。具体的には中学にあがろうとする春休み、モーツァルトの没後200年だかを祝って、ラジオやらテレビやらでしょっちゅう彼の音楽が流れている時期があったのです。その時、モーツァルトのトルコ行進曲とか、それが納められたイ長調のソナタを聞いて、生まれてはじめてその音楽に触れたような感動を覚えたのを記憶してます。
その当時のモーツァルトの在り方と、昨晩、偶然テレビで聞いた、レオ・フセインなる若手指揮者(とはいえ、僕より1つ下なだけ)の演奏するモーツァルトの「ジュピター」とでは、まったく在り方が違うんですよねー。

1991年と2014年の間を流れる、長い長い時。

それこそプルーストが「失われた時をもとめて」の最後で、なんという長い、長い時・・・というような慨嘆のことばで長編をしめくくっていた…気がします。僕が通読したのは大学生のころで、それから今にいたるまでも
長い、長い時がながれている。

時間そのものがテーマになっている芸術はワーグナーなり、プルーストなり、いろいろありますが、つげ義春の作品の本質も、時間そのものなんだな、と思われてなりませんでした。

そして僕はつげ義春の作品に、失われた時間を見出している。

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しかも見たこともなければ、体験したこともない、失われた時間に強い共感・・・郷愁すら感じている。

芸術新潮には彼が撮影したひなびた温泉の風景が映し出されています。
また、第九巻は別巻として、彼の紀行文などのエッセイと、イラストの仕事が納められている(↑の画もそれです)。この二つは両方とも芸術としていまなお、生命をなまなましいカタチで保っており、同時に失われた時そのものでもある。
・・・・・その眩暈がするような、相反する感覚をさらに煮詰めたのが、彼の漫画です。
つげワールドの魅力というか魔力ですね。すくなくとも僕にとっては・・・

つげの写真やイラストには、自分が(というか日本人の圧倒的多数が)触れたこともない不思議な風景が息づいています。そして、土門拳が戦後、田舎を撮影した写真には感じないリアルさが・・・・・・1970年代後半にうまれた自分とほぼ同い年のそれらの作品からは、濃密に感じられるのです・・・









by horiehiroki | 2014-09-16 10:10 | 読書