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1818年当時の「江戸」ー吉原関係を追記

江戸時代初期から、幕末にかけ、「江戸」だとされる空間は、住民の増加、住宅地の開発……などもろもろの理由で、拡大していきました。要請をうけ、1818年、ついに幕府が定めた江戸がこの地図のとおりです。

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北は千住~板橋を結ぶライン。
西は代々木。
南は品川。
東は亀戸。

・・・どうでしょうか。
江戸城を中心として、これらの地名を円でむすんだラインを「朱引」といいました。

この中が江戸。これの外が江戸の郊外扱いです。

郊外=中野に犬小屋があったのもなんとなくわかる・・・。

江戸とは江戸城まで徒歩圏内であるべき、ということかもしれません。


早稲田に住んでた頃、丸の内まではフツーに歩いちゃう(ちょっと歩きたいときね!)って中高年のご婦人がいましたもん。
近道があるのよ!ともいってたけど、まぁ、逆に今の感覚では無理かもね(w

新大久保・大久保あたりには鉄砲隊のメンバーが暮らしており、旗本邸がたくさんありました。
・・・が、どうも現代人の私には新宿と丸の内が「イザとなれば」走って(?)いける圏内だという感覚がありません。新宿にいたときから、その感覚は同じです。・・・。チャリンコでも大変じゃないかなぁ。

いちおう当時の江戸城は現代の皇居の面積よりも広く、たとえばお堀が四谷あたり・・・上智大学くらいまで広がっていたのは事実ですけど、そこに辿り着いたからといって、本丸あたりまでいくのもさらに時間がかかったでしょうし。いちおう”平士(フツーのサムライ)”とは、騎馬を許された人々ですから、「歩く」というわけでもないからかなぁ・・・・・・・・・と色々考えてしまいますよねw

あと下町って呼ばれる東のエリアほど、キレイな碁盤の目みたいになってて、文字撮り山の手の丘陵地を生かして、思い思いにお屋敷街が開発されていった西のエリアとは道路の在り方自体が現代でも異なってるな、とか。

この朱引きがなされる100年ほど前に、同時期のパリやロンドンよりも多くの100万人以上の人口を抱えるようになっていました。その一方で、火事が多く、その類焼をさけるために住宅地より、寺社や武家屋敷の敷地を森のようにしていたため、この3割ほどが庶民の住宅に割り当てられてたにすぎないんですね。


が、同時にこの地図を見てると……まだ埋め立て地も今ほどではないため、もっと狭い土地=江戸だったんでしょうねぇ。

マイナビウーマンで、吉原をはじめとする遊女特集をかいてってるんですが、吉原が幕府に嘆願書をなんども提出したことはよく知られているお話です。

なんの嘆願書かっていうと、要するに非合法の売春をやめさせてくださーーい、的な感じ。あんまりエライ人=幕府につめよれないので、吉原が商売敵に押されているのは、みんなが行きにくい江戸の端っこに吉原があるからなんですよー! だから行きたい!っておもわれても、3人に2人はバレちゃうから、なかなかいけないんですよーーー!!! みたいな叫びが書いてあったりもしました。

・・・・が、江戸中期以降はいわゆる新吉原、浅草あたりでございます。

ほんとに行きにくい場所だったのか????

・・・・・・とか。地図は知識があれば、あんがい面白いですね

10月3日追記:

新吉原あたりは、現在でいう南千住駅から南に徒歩数分~5分程度の所だと思われますので、ほんとにヨシの原というか、池を埋め立てた場所だったんだなーー・・・ということがわかります。推測ですが、道はあるにはあるけど、ルートは限られてて、鉢合わせしやすい(だから見返りの松、とかそういう手合いの何かがあるんですわな)。だからバレやすい、行きにくい。

それにしても千束池の巨大なことよ・・・!

しかし、そのわりに吉原って統計上は9年に一度は全焼してるんですねぇ。





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by horiehiroki | 2014-10-03 08:00 | 歴史・文化