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中国化する日本(追記あり)

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與那覇潤(よなは じゅん)さんは1979年生まれ。僕と同世代(彼が二歳年下)の歴史学者さんだそうです。

こちらの「中国化する日本」という本の著者であるということを、先日の新聞広告で知り、なんとなしに興味を持って開いたところ、なるほど、なかなか面白い本でした。

まず、本の題名にもなっており、本文でも何回も出てくるキーワードの「中国化」ですが、これはある意味、誤読→炎上してでも一般化するよう、狙って付けられたものだと感じましたw

與那覇氏による中国化、という言葉の説明を、僕が理解できた範囲で書いていくと、

階級の頂点にたつ為政者(中国の場合は皇帝)が、
側近たちを、その実力をはかる試験(中国の場合は科挙)によって、徹底的に、選ぶ社会。・・・のことです。

その中央集権型国家が、その後の中国はもちろん、全世界的な当地のルールになっていく、と。

えーと、たとえば唐の時代にも科挙はありましたが、名門貴族のお坊ちゃまなどには抜け道がありました(その一方で、貴族の御曹司にまじり、白居易のように低い身分から難しい試験に合格、官僚詩人になったというような例もありますよね)。

そういう手合いの貴族勢力がリストラされたのが宋時代以降の中国王朝である、と。

ようするに門地とか家柄とか関係なく、誰でも、実力一本、試験の出来だけで選ばれる、という前提を作ってしまったということ。かくして側近たちの地位の世襲はほぼなくなり、同時に、階級の頂点にたつ為政者の地位は世襲ではあるが、民衆から罷免されれば、首のすげ替えが可能(革命)。


本書の感覚でいえば、現在のアメリカの大統領制と、「ぼくはエリートになる!」という自由意思と、学力選抜によるエリート選出のシステムも「中国化」されたもの、だといえるよね、というようなのが與那覇氏の発想です(なお、実際的な”影響関係”の有無について議論は、ナシ。「中国化」とはある種の社会がゆきつく先の一つだから、文化、文明をとわず、どこの社会でも「中国化」にいきつきうるのだ、というようなイメージで全体的に論がすすめられている

中央集権国家ということにプラスで、われわれが自由主義的とかなんとかよんでいたソレは、もともとヨーロッパ近代などよりも以前の中国の宋の時代にうまれ、その中国文化の中で歴代、極端なまでに実行されていたシステムであり、こういう社会のあり方を「中国化」と呼んでもいいんじゃないの・・・・・と、そういうイメージの論調だと思います。


が、

その中国で20世紀初頭までおこなわれていたエリート選抜の科挙の試験内容は、「複雑なルールに支配された漢詩の作り方」を丸暗記出来ているかどうか・・・というようなことでして。政治論でも経済論でもなんでもない。

ホントにその試験内容がエリート選抜システムとして実用的だったか・・・というようなことなど、細密な部分にはこの本は「ポップにして真摯、大胆にして正統的」、さらに「(歴史を理解するための)新しいストーリーを描きなおす」・・・というようなことを目的としてるので、ほとんど触れられてはいないようです。

だから「中国化」という言葉は全てを包括する概念というより、思索を深めるため鍵、文字通りのキーワード、として考えられるべきです。

ここで思うのは、科挙・・・ほどではないにしても、一昔前までやたらと厳しかった受験戦争というようなツメコミ型の試験で合格できる人材というのは、為政者にとってもっともコントロールしやすい性質をもってるんですよね、という点。

実生活から乖離した無意味におもえることですら、目標をたてて、長年、がんばって勉強して、鬱にもならずにマスターできる・・・というような。

だから宋から清までの中国の王朝が科挙を使い続けた(元の時代に一時的にストップされたにせよ)、その理由は、その試験内容とその試験を切り抜けた合格者が、いろんな建前を抜きにしていうと、為政者にはもっとも使いやすいタイプだったんでしょうね。

羊のように従順で、あたえられたタスクを文句も言わずにこなしてくれる。政治を志してる人材なのに試験内容は詩学で選抜されてしまうという前提が、なにより買い手(為政者)の利益しか考慮していない。
それが優秀な政治家は芸術家でもあるべきだ、という美名で覆い隠されているだけ。

主権者が、自分の仕事を助ける、最優秀の歯車を探しているにすぎないということですね。それが権力一局集中時代における登用試験・科挙のもっていた本当の意味だ、と。

(ちなみに日本では装束や儀式の知識の深いひとが低い身分から出世したりもしましたので、この手の登用制がまったくなかったわけではないです)



宋の時代は我が国でいえば平清盛・後白河法皇がタッグをくんで「新しい世をつくろう」としていた時代で、ちょうどこの時代、我が国では院政という(天皇経験者の称号のひとつである「院」たちのうち、特に有力なひとりの「院」が政治の実権を握り、現役天皇や朝廷、その他をグイグイ動かす)政治形態がスタートしています。で、これを與那覇氏は、(宋との)経済活動のため、というようなことを言っています。

たしかに後白河は、規則にしばられる天皇の身分であれば会ったりできなかった外国からの客人に、身分は上皇となることで、直接面会できたりしていますよね。

ただし、こちらも「日本社会の”中国化”が計られた」という、単純明快な結果が多く見受けられるわけでもなく、例えばこの院政時代、「中国化」が徹底されていく中で排除されねばならない、貴族の財政基盤・・・つまり荘園制ですね。
こちらが摂関家を頂点とする貴族層から、天皇家に戻っていったというような背景は見逃せません

律令制度では日本国のモノであった土地が貴族の財政基盤を支える、”私物”と化したのが”荘園”。それが皇室・皇族の財産にきりかわったのが”皇室領”。

また、後白河はブレーンだった信西らに「まれに見る愚かな君主」という酷い評を、即位前も即位後も下されています。信西らはホントに「中国化」を進めたかったのかもしれないけれど、後白河は、いきすぎた財力・権力・政治的発言力をもつようになってしまった”摂関家”など門閥貴族に対し、主君として「維新(リストレーション)」を行いたかっただけ、ということだったとも思えますが。

(理想よりも、現実的な整合性を重んじる君主判断の結果ともいえる)


そもそもこの本にも書いてあるように、摂政・関白などという当時の宮廷社会を牛耳っていた地位自体が、古代日本で定められた「律令」には存在してない「令外官(りょうげのかん)」だったという事実も考えねばならないですね。

・・・・というようなことがどんどんと思い浮かんでくるほど、この本を読むことは非常に面白いんだけど、同時に、日本社会の「中国化」ができない理由。日本社会と「中国化」の相性の悪さ・・・というようなこともどんどん浮き彫りになっていくんですよねー。

「中国化」のひとつの条件である、門閥貴族のリストラという側面に象徴されるあれこれが、圧倒的に日本では受け入れられにくかったことがあると思いますね。

たとえば中国では百姓といえば全ての人々を指す単語だったりしますよね。劉という姓を持つ貧しい農婦が自分はその姓ゆえに漢王朝の為政者の末裔であり云々・・・・というような冒険をはじめてしまうのが中国です。またこの「中国化~」という本にも述べられていたように、中国には「父方の姓」が同じひとを助け合うという互助システムがあったとかなんとか。

日本でいえば「姓」の代わりに「名字」ともいうべきものが、それこそ院政時代以降、主流になっていきます。
「藤原」の一族として、ではなく、その一族における「近衛」とか「鷹司」の違いが日本文化では大きく捉えられる。
「源」の一族っていっても、「足利」と「徳川」ではまったく違うでしょう?

それは頂点の身分の人々だけでなく、庶民の場合でも同じか、と。村の大半がおなじ名字の家族しかいないところでも、ウチのおじいちゃんはやっぱりウチのおじいちゃん、って感覚ですわな。

たぶん日本では個々人が所属する「ある程度の大きさの団体(家、会社、●●といった住宅地)とか、目に見えたり肌身に感じられる単位のほうが重要であるという感覚が非常に、非常につよく、「姓」というような対象が大きく、大きすぎる基準を重要視することは難しいのだ、と。

いっぽうで「姓」という大きな単位を信じ、それによって優勢を保証されていると思っていられるからか、実際、中国の方の「個」の強さ・・・自分という「個」への信頼感はすさまじいなぁ、すごいなぁ、と思うことありますよ。

たとえば技術的な翻訳をやってる中国から来た人に、僕は、「おまえの日本語はヘタクソ」と怒られたことがあります(笑
先祖の話になると、だいたい皇帝がでてくるし。

たぶん、これ、他の国では、絶対にありえない感覚だと思うんですよね……。
そのカタマリみたいなのが「中華」という思想です。
まぁ、どこの国の文化も自分が世界の真ん中という感覚を持ってはいます。でも中国ほど、大々的に打ち出している文化国家は少ないのではないでしょうか・・・(そもそも中華人民共和国って名前になってるし)。

というようなことをツラツラと考えて、まだ本の途中でありますが、ショーゲキが勝ったのでブログのネタにしましたとさ。

・・・と久しぶりに歴ヲタ系の話題でスイマセn

→最後までザックリ読みましたが、與那覇氏のウリは徹底してニュートラルな視点、ということでしょうね。
たとえば明治維新について語るとなると、旧幕側と新政府側の二派に必ず、書き手は別れてこれまで言説を展開することが多いです(そしてそれはおうおうにして、語り手の祖先の立ち位置を踏襲している)。

ところが與那覇氏は徹底して、そういう血縁的文脈から離れて歴史を見ようとします。ちょうど外国人が日本史をみるように、ドロドロした「私怨の日本史」からは離れようとしている。遠いところから、原理/原則というようなものを見つけるがために歴史の細部に触れているという印象がある。これがウリなんです。


続きは、近日公開予定。



by horiehiroki | 2015-01-25 10:24 | 読書