股間若衆 男の裸は芸術か(内容一部改訂)
2015年 01月 27日で、タイトルは「男の裸は芸術か 」という「大問題」をフィーチャーしてるように見せてはいるんだけど、
じっさいのところは、
1/問題を日本の近代以降の彫刻というジャンルに限定した話
2/「(性器・尻などに)猥褻物陳列罪」のある日本で、独特の進化をした性器の”ぼかし表現”
以上のテーマをフィールドワーク経由でまとめるのが圧倒的なメイン。
以上で全体が構成されています。
具体的にいわないと分からないですから、上をみてください。上の股間です。あのもりあがり。西洋のだとイチヂクの葉っぱが着いたりしますが、日本ではああいう盛りあがりなんですね
難波孫次郎の彫刻の股間ですが、こんもりした「アレ」ですね。まるでタイツかスパッツでも履いたときのような。
かといってスパッツやタイツを履いているんだ、という仄めかしはいっさいないんだけどね、というアレ。
西洋ではミケランジェロやロダンの彫像でも性器は、他の部分にくらべるとひっそり気味に表現されてはいますが、こういうふうに「こんもりした何か」というようにはなってないですね。いわれてみれば。
日本って変なの、と。
そういうことにだけ触れた本でまとまる予定だったようです。
(ここで告知) 2016年7月20日 乙女の美術史 日本編 文庫版」、カドカワから発売! 書き下ろしの「恐い世界史」は三笠書房、王様文庫から9月発売予定…
が、恐らくは編集者側の視点だとおもうんですが、こんもりした彫刻の股間の「アレ」だけでは話がただの好事家の雑学ねたくらいにしかならないから、いちおう「男の裸は芸術か」というテーマにも触れるべく、間口がひろげられてしまった。
そこで、三島由起夫ヌード写真だのなんだのが登場してくるわけです。
・・・で、今回、このブログ記事を自分が書くようになったのも、このあたりのとらえ方の「シンプルさ」にビックリしたからなんですねぇ。
今回、この本を読んでいて、「男の裸は芸術か」という大問題について、日本ではいまだ、語る段階に入っていない。鑑賞者の目が、価値観が、まったく肥えていないんだな、という事実を突きつけられた観があります。
本書にも記述として「30才からボディビルをはじめた三島さんの体格はみるみるうちに改善され、逞しく云々」・・・というくだりは出てきましたが、「薔薇刑」のこの写真(本書にも参考写真としてとりあげられた)をあらためて見ていると、
「あれっ?
ほそいなー」のひと言でした。
ついで
「昔、見たときは、すごくマッチョに思えていたんだけど」としか思えないわけです。個人的には。バカにしてるんじゃなくて、男性ヌードとしてはすごく華奢だな、と。(すくなくとも現代日本で、最高の環境をもとめて24時間式のゴールドジムに毎日通い、増量→減量をくりかえしつづける)ボディビルダーという響きがもつ仰々しさと、三島さんの少年のような裸はぜんぜん違ってるんですね。
こういう三島バディってフツーに運動経験して、その後、(区営の)ジムに週一ででも通えば、フツーに出来上がるカラダですから・・・。
三島由紀夫=ガリガリから、すごいマッチョになってしまった男 という条件反射的なイメージが作り上げている。事実とは異なる幻想が現実を陵駕し、見えなくしているほどになっているんですね。現代ですら。
それをわれわれはいつの間にか、何かによって植えつけられてしまっているのは面白いですよね。なんで三島マッチョ説は覆られないの?という。まったく男性の裸は、有名な存在(有名作品)であったとしても、大多数に見つめられていない=鑑賞すらされていないのでは、とも訝しく思いました。
また一方で、この難波孫次郎の彫刻は
めっちゃくちゃに「ごっついなぁ」、です。今回初めて知りましたが。
例の三島由紀夫の裸と、最初に掲げた難波孫次郎氏の裸体彫刻にある、徹底的な骨格的な違いとか、身体の厚みの違いがあるはずなのに、本書の中でも(サブタイはともかく、実質的には芸術論ではない本であるにせよ)、「同じ男性の裸」「同じく筋肉ムキムキ!」とか、そのシンプルすぎるセンスでしか捉えられてないことに驚愕したんですね。
自分が観じ得ないもの。知らないものを人は画像に見ることはできません。この手のシンプルでナイーブすぎる男性ヌードへの視点は、とくに美術を語る男女ともに、筋肉という存在をほとんど無視して生きてる人が多いんだろうなぁというライフスタイルがスケスケなんですわな。
女性のヌードの場合、たとえばルーベンスの血湧き肉躍る「でぶ」なヌードと、ボッティチェリの華奢な女性とはまったく別物として鑑賞されている・・・はずですが、ダイエットだのなんだの、主に女性をめぐる肉体を語る論説はいろんなレベルで社会中に蔓延している。だから見慣れてるんでしょうね。鑑賞眼ができている。
一方、男性のカラダを語るものって腹が出たから引っ込めるために飲む、特保枠の黒茶とか以外には、・・・・・・ライザップのコテコテの筋肉礼賛が過剰なCM・・・・・くらいしか思い付きませんよね。
とくに近現代以降の男性のビジュアルってほんとに貧しい評価軸でしか評価されてないことが浮き彫りになっていると思います。近代以前のヨーロッパでは、美尻だの脚線美といえば男性のものでしたからね(女性は足を見せられず、スカートで隠すしかなかった)。
男女の肉体美に関する価値づけ、意味づけ、そして豊かな鑑賞眼の有無は、近代以前と近代以降では逆転してしまった、といえるかもしれません。男性のヌードを鑑賞する目は、まったく存在すらできていないのでは、ということに気付いてしまった本でした。
折しも、(男女関係なく)性器/股間の表現をふくむヌードがアートか、否か? という問題は、現代でも、ろくでなし子さんという女性アーティストの表現物が猥褻物として彼女が捕まってしまう出来事があり、ホットな問題でありつづけているんですが。
表現の正当性云々の前に、日本にはもうひとつ問題があります。
たとえば公園や電車の中にすっ裸の誰かが現れた時に、われわれが絶対に感じる「不都合な感覚」ってのは事実だとおもうんですが。芸術という枠組みがその「不都合な感覚」をどう変えられるかどうか。
おもえばたしかにグレーゾーンなのかもしれません。
表現上の話ではなく、「性器を描くと、そこに観客の視線が集中しがちで、よろしくない感情が生まれるからアウト」とされてしまうと、それが「事実」だからです。
いずれにせよ、ライトにまとめられた本の行間から
そもそも、なぜ私たちは裸を描くのか。裸で表現せねばならない何かがあるのか?
・・・・というようなことをもっと突き詰めて考えねばならないんじゃーないの、と。
そういう点で、すっごく考えさせられてしまった一冊でした。
例の難波孫次郎の彫刻は戦後、昭和中期の勃興していく男性中心の働き手の社会のありかたを表現するのに、三島さんの三倍くらい筋肉のある男性が最適のモデルとして使われた・・・ということは分かりましたが・・・。
(告知) 2016年7月20日 乙女の美術史 日本編 文庫版」、カドカワから発売! 書き下ろしの「恐い世界史」は三笠書房、王様文庫から9月発売予定…