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立花隆「武満徹・音楽創造への旅」

とくに音楽関係の執筆のオファーがあるわけでもないんですが、通常のお仕事にくわえて今上帝の退位発言、現実とバーチャルの世界が本格的に連動したポケモン、すごいオリンピック、吉田選手の銀メダル……その他もろもろで世の中が騒然としておる中、ぼくは夏の自由研究として立花隆「武満徹・音楽創造への旅」を熱心に読んでいました。

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著者がジャーナリストの立花さんなので、20世紀の”クラシック”の音楽事情のウラ側、”現代音楽”、もしくは”音楽”とか”芸術”の世界に生きている魅力的な人々の群像……といった要素が強く浮かび上がり、他の武満論とはかなり違った本になっていました。たぶん普通に単行本化しようとしたら、2000ページ以上の大部だったと思います。この本、ページのスミまでギリギリに文字を詰め込んだ二段組みでデザインが組まれてるんですよね。それでいて内容が乱れている、校正が出来ていない印象もないので(さすが!)、おそらく立花隆でなければ出せなかった本だと思います。
ただし読んでも読んでも終わらない。でもすごく面白いことがかいてあるので、斜め読みが出来ないという厄介な本ではありました。

個人的にもっとも興味深かったのは、自作をほぼ全て失敗作というまでに「厳しい」彼が自分で評価している曲と、他者(世間)が評価する音楽がほぼ、ずれているという点。
たとえば「地平線のドーリア」という曲があるんですが、これを武満徹は(世間的には代表作とされている)「ノヴェンバー・ステップス」という琵琶・尺八の独奏と、オーケストラのパートを持つ曲よりもずっと高く評価しており、小澤征爾などにもCDには「ノヴェンバー・ステップス」とカップリングとして、それを演奏してくれ……と頼むに頼み込んで、ようやく演奏・録音してもらった。しかし、その後、小澤はノヴェンバー…ばかり演奏して、「地平線のドーリア」については「正直、ぼくにはわからない」とすら言われてしまった……というようなエピソードが載っています。
それでもこの曲には何種類か録音があるのですが、この本に収録されたインタビューが録音された時点では、武満は演奏の出来に満足ではないらしく、再録音を考えているというようなことをしきりにいっています。
たしかに……キャッチーとはいえない音楽かもしれません。
しかし、二種類録音を単純に聞き比べた限りでも、まったくアプローチ次第で違う様相を見せる音楽だな、ということはわかりました。若杉弘の指揮では音楽の背景は確実に「秋の野」であり、チチチチチというヴァイオリンに出てくるモチーフは虫の音として表現されているのですが、小澤征爾の指揮では、このチチチチチという部分は、ごくシンプルに演奏されるだけだけでした。
あくまで武満の音楽をあくまで絶対音楽・純粋音楽として小澤は捉えており、そのモチーフも解釈したのでしょうね(両者の演奏はYOUTUBEでも聞き比べられると思うので、興味ある方はどうぞ)。いずれも武満には理想の音ではなかったようですが。

また……「ノヴェンバー」は、独特の音階を持つ邦楽器というと、西洋の音階を持つオーケストラというまったく違う世界が共存してしまうという意味で、武満のような鋭敏な耳の持ち主には、非常に気持ち悪い音楽になっているようです。
この曲を(この曲を初演した小澤征爾たちの演奏で)、聞き直すと、邦楽器の部分とオーケストラの部分の異なる音階が交じり合ってなどいないし、むしろ対立している。そしてその落差というべきものが、どうにも「気持ち悪い(初演をたまたま聞いた、永六輔の評)」……と思えるようにワザと作ってあるようです。この曲を邦楽器のソロとオーケストラのための音楽として仕上げてよいものか、と武満自身、すごく迷ったというのが実によくわかった気がしました。

実際、曲の中心~後半部分にかけて、オーケストラが長い沈黙に入り、琵琶と尺八だけが対話しあうように独奏するんですが、この部分の中で、日本の音階で、日本っぽい旋律を尺八が吹き始める瞬間があります。この時、「あぁ、これが本来のこの楽器の姿なんだ」と納得する一方、それまで西洋のオーケストラといちおうピッチを合わせて、鳴っていた音楽は一体なんだったんだろう・・・?と思ってしまう瞬間。そして邦楽器の独奏が終わり、西洋楽器のハープが音を引き継いだ時に感じる、愕然とするような落差…。

でも同時に、「ノヴェンバー」はこの頃の武満の音楽の中では、イントロをふくめ、ものすごく「まとまった」音楽になっていることは事実ではありますが。
このノヴェンバーを作曲中に、「ノヴェンバー・ステップス第 2 番」が完成していた……という事実にも驚きました。この二番こそが、「グリーン」という曲で、一般的にはドビュッシー的な響き云々……と言われることが多いんですが……聞き直してみると、まったくドビュッシー的とは言えない響きのように思えてきました。

武満は、本当に作品ごとにベースとなる技法を変え、新しい音を探求し続けた人なのですが、初期から後期にいたるまで、本当にどれもこれも(上手く言えないのですが)「武満トーン」で満ちた作品を作ることに成功しています。

これは本当に凄いことで、作品を少し聞くだけで、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン?とわれわれがだいたいわかるように、武満の場合はわかってしまうんですよね。

本の後半部で一番面白かったのは、例の恵まれぬ傑作(?)「地平線のドーリア」を聞いた上で、それにピンと来たという宮内庁から雅楽の新作の作曲依頼を受け、書かれた「秋庭歌」という作品の話です。
武満作品の冒頭に出てきがちな不協和音が、笙という楽器で演奏されるのですが……これが、西洋楽器の場合とはことなり、過度なインパクトをもって響くなんてことがまるでないんです。これにも驚きました。

武満自身、安保運動などに熱心な人であり、天皇制についても懐疑的だったそうで、そんな中、天皇のための音楽である雅楽を依頼されて作曲することには内心、アンヴィヴァレントな思いはあったようです。
しかし作曲はたしかに難しい行為ではあったけれど、その割にサクサクと進み、その完成された音楽も、宮内庁の雅楽部の人たちからは高い評価を得て、他の作曲家の新・雅楽の作品とはまったくレヴェルがちがっており、繰り返して演奏していくべき音楽、新たな古典というような評価まで与えたクオリティを備えて完成されました。
「秋庭歌」は雅楽にありがちなお約束を、高いレベルで破ってみせた作品だったことが評価の根本かと思います。
たとえば実際は低い音も出る篳篥(ひちりき)という楽器を、雅楽では高音のメロディを主に担当させる楽器としてしか使わないという、理由がわからないけれど古来からのお約束が厳然とある中、武満は持ち前の独創心で、低い音もどんどん吹かせてみたそうです。それを当時、皇太子だった今上帝が聞いて面白いとお感じになったらしく、武満の楽屋を尋ねて「低い音がなっていますね」とコメントした……というような話も出てくるわけです。武満はさすが!と思ったそうですが。

このように武満徹という、少しクラシックを音楽を知っている人には「ああ、ああいう作品を書いてたあの人ね…」というイメージや記憶が、実はぜんぜん正確でもなんでもないことがわかってくる内容になっており、楽しめました。
本書内には、瀬戸内寂聴も評伝を書いてた、ノヴェンバー……をニューヨークで初演した鶴田錦史(つるたきんし)という男装の琵琶奏者をメインで書いた章がありましたが、書き手によってここまで同じ人物でも違ってくるのかということは興味深いの一語でしたね……

あと、武満による休符などの細やかな指示をまったく守らず、耽美的に録音してしまったピアニストのレコード(CD?)が送られてきたら、激怒のあまりぶっこわしたよ、なんて物騒な一面も……。

長くなるのでこの辺で。

マルヨ・T. ヌルミネン「才女の歴史―古代から啓蒙時代までの諸学のミューズたち」、亀山郁夫「新カラマーゾフの兄弟」(上下)・・・・・・などなど、この夏はなかなかに読書しました。
by horiehiroki | 2016-08-19 12:22 | 読書