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カテゴリ:読書( 68 )

立花隆さんの「読書脳 ぼくの深読み 300冊の記録」がおもしろいです。

読書脳 ぼくの深読み 300冊の記録_e0253932_72122.jpg



「週刊文春」での書評連載をまとめたシリーズものの一冊なんだけれど、ただの書評コラムの限界を超えて、色んなジャンルの専門書の優れたダイジェストになっています。

で、本書の中でも触れられており、ぼくが特に興味深く感じたテーマがあります。
それは本を熟読している時の脳の動きは、インターネットで調べ物をしている時の脳の動きとまったく違う云々ということで、「ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること」という邦題の翻訳書で触れられているテーマなんですね。立花氏いわく、この本の原題は「浅はかな人々」というような感じで、日本語版はタイトルからして、卑俗なウケ狙い、大失敗してるのだそうです。

さて。
本という形態のメディアを熟読するときにだけ使われ、鍛えられる脳の部分があるんだそうですよ。インターネットを見ている時にはまったく機能しない部位だそうです。



確かに現代のようなネット全盛時代って、情報がインフレーションを起こしている=情報がどんなものでも基本的に気軽に手に入りすぎるから、逆にだれも調べなくなってしまった。それこそ、ダイジェスト(まとめ)だけをよんで、すべて理解した気になっている→数行以上のまとまった文字列も読めなければ、理解できないというレベルの「バカ」まで、しらずしらずのうちに増加。それはネットしかやっていないから。
脳の認識能力・機能低下に由来してるのかもよ、

というような論理の流れ。これまで考えたコトのないひとでも、なんとなくですが、わかりますよね。

さらにここで、みなさんに紹介したいのが次の雑学というか、統計です。

多く稼く人ほど、多く読書しているという記事。
何年も前からネット上でよく見ますよね。

20-30代の日本のビジネスパーソンの一ヶ月の平均読書冊数は1冊未満・・・・・・どころか実際は限りなく0に近い数値(1ヶ月あたり、0.26冊!)。それが、”30代で年収3000万円の人は1カ月間で平均9.88冊”だとかなんとか。

ここで注目したいのは、よく稼ぐ人=優れた人。頭のいい人だ、と仮定すると、
「優れた人間(頭のいい人)はたくさん本を読む」という、おなじみの格言がうかびあがってきます。


でもね、じゃあ
「本をたくさん読めば、優れた人間になれる」というと・・・・失礼ながら、微妙に無理な気がするんです。
学校で教えてることと違いますが。

ようするに、先ほど触れたように、優れた、頭の良い人間は、インターネットで調べ物をしたり、そこで「まとめ」を読んでも、それが第一歩にしか過ぎないということをわかっている。もしくは、そんな「まとめ」の情報では物足りない何かを感じるだけの知的な要素がある・・・・・ということなんだとぼくは思うのです。

つまり、それができるほど、頭のリソースが多い=優れた、頭の良い人間 

ってことなんですね。



たとえば、何人かの新人さんがはじめてトライする、困難な作業に取り組んだとします。誰でも最初は時間がかかります。ところが、同じようなことを繰り返していると、明らかに作業が早くできるようになる人と、そうでない人がハッキリ分かれてくるはずです。早く馴れてしまった人には余裕がうまれ、その余裕時間をつかって、まったく別の活動をしてみるなり、その作業の本質的な部分を深く掘り下げるなり、いろんなことができうるんです。

ただボケーっとインターネットを見ているだけで、「何もしない」、という選択肢もあるけれど。

この段階の行動で、その人が本当に優秀かどうか、分けられるんだと思います。

液晶画面で読むだけでコト足りてしまう種類の本にしか電子書籍では人気がないのに象徴されてるように、各テーマを掘り下げた専門書に近ければ近いほど、やはり紙の本を熟読する、つまり「読書脳」を働かせなければ、知的にもう一段高いレベルにはいけない、というコトなんだろう、と。


余談ですが・・・
稼げる人は読書するだけでなく、朝の時間を無駄にもしていない、あるいは筋トレしている。・・・というようなお馴染みの統計、ありますよね。ここもポイントは一つです。

リソースが大きな人間=優秀な人ほど、いかなるときでも頭が比較的クリアな時間が多くもてるということ。
そして、次から次へと課題を回していくことができるし、簡単に疲弊なんてしない・・・ってことなんだと思うのです。

目の前のことで、永遠にワタワタバタバタしっぱなしの人と、目の前を離れた部分にまで思考・行動ができる人の違いはあきらかでしょうね。インターネットは前者でもそれなりの知識を与えてくれる重要なツールだと思いますよ。インターネットのおかげで、みんなが標準的にある程度以上の情報収集をして、作業にいかせるようになった。でも、本当はそこからこそが勝負どころ。


難しいですけどね。

知能は使えば使うほど、鍛えられるそうなので、今、できていなくても意識しつづけることで、なんらかの成長があるだろうということは思います。

今回お話したことは、MAKEPOなどでインターネット時代の書籍ビジネスについて書かせてもらったとき以来、ぼくの思考テーマの一つなのですが、紙書籍(電子書籍ではなく)とインターネットって近い将来、手を結びあう時代が来る気がしています・・・。
by horiehiroki | 2014-12-12 19:48 | 読書

つげ義春全集

今年の夏の終わりにかけて、自分が純粋に「楽しみ」として読んでいた本は、評伝「寂聴伝」と、原田康子「挽歌」、「つげ義春全集」全9巻でした。これらの書物はいずれも刺激的であったので、そのうちブログに記事を書くこともあるかとおもいますが、つげ義春にはものぐるおしいほどに惹きつけられる「何か」があったので、興奮を忘れないうちに残しておこうかな、と。

つげ義春の作品に最初にまとまったカタチで触れたのは、今年の芸術新潮の特集でした。

それまでは、イラストやヒトコマだけの引用でつげ義春について知っているだけで、道幅のせますぎる通りにビッシリ面して建った、古びた木造家屋の間をすりぬけていく時、わー、つげ義春っぽい・・・なんて感じているだけでした。


その程度の人間に、なにが作用して、つげ義春に全集を読み終えさせるほど固執させたのか・・・というと、昭和という時代の空気感だったのです。

つげ義春全集_e0253932_43479.jpg


つげ義春の画の才能・・・というか画の雄弁さにはひれ伏す思いになります。
なんなんだろう、この圧倒的な存在感・・・

同時に、そんな絵でしか、かたりえない時代というテーマがあると思います。

時代にはそれぞれの空気、その重みがあります。
天才の仕事を定義すると、その時代の空気にふれて、輝けるか、ということでしょう。天才の歯車と時代の歯車の両方が重なった時、才能は火花と散る……のですが、つげ義春のどこまでいっても出口のない天井の低い作風というか、テンションの低さもまた、昭和らしさだと。

つげ義春のおそらく最新インタビューを芸術新潮で読みましたが、体長も優れず、息子が引きこもりなので、書くことはもうないと言い切っており、その潔さには驚きました。
たしかにつげは漫画を書くことに苦心して何度も筆を置いているんですが、もう書かないと言いきる背景には、彼に漫画を書かせてきた昭和の空気とその重さは、もうどこにいってもなくなってしまった。モデルのいない、テーマのない画家がもはや描けないように、彼にはもう漫画をかく意味がなくなっているんだろうなぁと思えてならないのです。

自分も多少若く見えますが、昭和後期に生まれた人間でして、小学校高学年くらいの時に昭和が終わり、その後くらいから、自分の意思で芸術というものに「目覚めた」のをハッキリ覚えています。具体的には中学にあがろうとする春休み、モーツァルトの没後200年だかを祝って、ラジオやらテレビやらでしょっちゅう彼の音楽が流れている時期があったのです。その時、モーツァルトのトルコ行進曲とか、それが納められたイ長調のソナタを聞いて、生まれてはじめてその音楽に触れたような感動を覚えたのを記憶してます。
その当時のモーツァルトの在り方と、昨晩、偶然テレビで聞いた、レオ・フセインなる若手指揮者(とはいえ、僕より1つ下なだけ)の演奏するモーツァルトの「ジュピター」とでは、まったく在り方が違うんですよねー。

1991年と2014年の間を流れる、長い長い時。

それこそプルーストが「失われた時をもとめて」の最後で、なんという長い、長い時・・・というような慨嘆のことばで長編をしめくくっていた…気がします。僕が通読したのは大学生のころで、それから今にいたるまでも
長い、長い時がながれている。

時間そのものがテーマになっている芸術はワーグナーなり、プルーストなり、いろいろありますが、つげ義春の作品の本質も、時間そのものなんだな、と思われてなりませんでした。

そして僕はつげ義春の作品に、失われた時間を見出している。

つげ義春全集_e0253932_4355389.gif


しかも見たこともなければ、体験したこともない、失われた時間に強い共感・・・郷愁すら感じている。

芸術新潮には彼が撮影したひなびた温泉の風景が映し出されています。
また、第九巻は別巻として、彼の紀行文などのエッセイと、イラストの仕事が納められている(↑の画もそれです)。この二つは両方とも芸術としていまなお、生命をなまなましいカタチで保っており、同時に失われた時そのものでもある。
・・・・・その眩暈がするような、相反する感覚をさらに煮詰めたのが、彼の漫画です。
つげワールドの魅力というか魔力ですね。すくなくとも僕にとっては・・・

つげの写真やイラストには、自分が(というか日本人の圧倒的多数が)触れたこともない不思議な風景が息づいています。そして、土門拳が戦後、田舎を撮影した写真には感じないリアルさが・・・・・・1970年代後半にうまれた自分とほぼ同い年のそれらの作品からは、濃密に感じられるのです・・・









by horiehiroki | 2014-09-16 10:10 | 読書

女と男のヌード

芸術新潮の8月号は、女と男のヌード と題して、30年ぶりだかにヌードが特集されてたらしいんですけど。こういう感じで。

女と男のヌード_e0253932_141669.jpg


でもね、全てが全て、え、これがヌード画なの? 
っておもうくらいに印象が薄かった。

同誌でいうと「つげ義春」特集のほうがなぜだかエロさを感じてしまったくらい。




女と男のヌードという特集だけあって、たしかに裸は描かれてるけど、タブーのない世界で裸を描くって無意味なんだなってことしか思えなかったんだよね

裸見てるのに服着てるのと同じ「ニュートラルさ」って、ある種、特筆すべきことかもしれないけど。
もっというと壁紙の柄と同じくらい、

「ふむふむ。で、それが?」的な感じ。


要するに、服着てても、裸でも同じ・・・壁の模様みたいな感じ・・・、という状況が世界的なものなのか、日本の現代アート的なものの特色なのか、はたまたアレが描かれてるため、想定されうる検閲のピーを自主規制で押さえようとした編集部の姿勢によるものかはわからなかったけど。

タブー(外的要因)もフェチ(内的要因)もあきらかでないヌードというのは、オブジェに過ぎぬのだよ。

さらに、ヌードを描くこと、鑑賞することの敷居ってここ何年かで、ほんとにフツーの行為にまで成り下がったのが日本の「なぅ」な状況、日本ではあるとおもうんです。

その中で、「自称芸術家の女」として某氏がタイホされたり、男性の局部が写ってることを理由に白い布をかけさせられたり・・・って官憲の検閲機能だけがとーとつに、虚しく存在してることの不思議さですね。

いやらしいんではなく、うつくしいのだ!(それはもっともにんげんてきなものである!

みたいな、愛のコリーダ的な主張っていうんでしょうか。それってタブーもフェチも濃厚にあった時代だとおもう。日本において「禁断の・・・」って言葉が”枕詞”として、いまだ現役だった時代の話?


もちろん、あれらをもっていくと、とてつもない破廉恥な絵画と受け取られる文化がこの世界の上にあることは想像できるのだけれども。

ヌードは現実の一部にすぎず、それは村上春樹の小説で濡れ場が、ホントにとーとつに始まるあの感じ、と似てるかもしれない。


なー。






 (告知) 2016年7月20日 乙女の美術史 日本編 文庫版」、カドカワから発売! 書き下ろしの「恐い世界史」は三笠書房、王様文庫から9月発売予定…






by horiehiroki | 2014-09-03 01:08 | 読書

「やまもも」の児童詩

クーネルの13年5月号を読んでいて出逢いました。高知の児童詩をまとめた「やまもも」から。

ジョン  中井寿雄くん(小学校五年)

ジョンは、
山ももの木の下に
自分であなをほって子どもをうんだ。

ジョンは、
山もものにおいのするやわらかい土に
横になっている。
子犬は、
そばでおよぐようにしてはっている。
まだ目があいていない。
乳にかぶりつこうとして
鼻にどろをつけた。
子犬は、
すてられることもしらず
生きようとして乳をのんでいる。

ジョンは、
去年も山で子犬を六ぴきもうんだ。
あか土で白い毛をあかくして
子犬をだいていた。
父に子犬をすてられた時、
ジョンは子を必死でさがした。
山へ走ったかと思うと、田の方へ走った。
ぼくはそのすがたを見ていられなかった。

もうジョンは、
子どもをうむのは、今年で最後だろう。
ジョンは、山からかえらず
子のそばについている。
おとうさん、
おかあさん、
ジョンの子を
一ぴきでも家においてやってください。
ジョンと子犬は親子です。

(1979年)


すごいでしょう。

子どものころから、気持ちをもっと「言葉」にしていく習慣があったらなぁ・・・とおもいます。
今のコミュニケーション不全の世の中にいると。



by horiehiroki | 2014-08-19 10:00 | 読書

ティナ・シーリグさんの「20歳の時に知っておきたかったこと」という本を読んでいます。
(参考:http://www.slideshare.net/tkanaya/ss-8481661)
かなりベストセラーになった本みたいですね。
「創造性」の重要性について説いた本です。
でも、昨今のマスコミの不調はまさにその「創造性」を失ってしまった結果だと思うんですよね。

そしてこの本を読みながら、ムクムクとアタマの中を想念が膨らみ、色んな記憶が飛び交うわけです。

大昔の話です。
今はどうかしりませんが、90年代の中盤以降、小論文なる科目が入試にさかんに導入されていた時期がありました。

その多くは短い文章を読ませられ、
「◎◎についてどう思うか、述べよ」
という問題文があって、XXXX文字内で論旨をまとめるのです。

たぶん、普通の試験問題では計れない「創造性」を見るため、とかなんとかいってましたが、この小論文自体が、もっとも「創造性」とはかけ離れた科目だったんだなぁと思えてならないのです。
たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチが残した膨大な研究ノートの中で、アートと科学が融合している様についてえんえんと述べた論文の一部をあなたが読ませられたとしましょうか。
ちなみに論文を自分で選ぶことはほぼ、できないのです。


あなたはそれを読んで、ダ・ヴィンチよりもミケランジェロのほうに、科学的な見地がむしろあるように思うと感じました、とします
ダ・ヴィンチは教会のルールではタブーとされてきた人体の解剖を行い、その中で肛門あたりの筋肉のカタチが、どうにもお花のように見えて仕方ない……なんて妄想力たくましい人でしたが、ミケランジェロはとにかく筋肉の構造自体が好きで好きでたまらなく好きな人でした。
だから、女性を描く時ですら、筋肉の位置や動きを「科学的」に表現するため、男性モデルを使用したんですね。ミケランジェロの科学的見地もある種の妄想力に支えられていることは事実でしょうが・・・・・・・・みたいなことをあなたは思いつき、「小論文」で書いていったとします。
ボクなら書いてしまいそうですが、そうすると、0点にちかい点数がつけられましたw
いや、大学入試では点数ついたかもしれませんが、すくなくとも模試などの時点では。

「テーマずれ」っていわれるんですね。「テーマずれ」はぜったいのタブーであり、不合格を意味する、恐ろしい評価でした。

つまり、その論文が「レオナルド・ダ・ヴィンチが残した膨大な研究ノートの中で、アートと科学が融合している様」だとしたら、そこだけ、それだけを「XXXX文字以内」であれば、所定の文字数の9割以上を費やして、永遠に語り続けなければならない。

つまりそれのどこに「創造性」があったのかな・・・と思えてならないんですよねー。
結局、どんな課題を与えられても、一瞬の乱れもなく、相手の言うことにだけ、できるだけ早く、的確に反応する、パソコンみたいなタイプの受け答えができるように、徹底して嗜好を躾け(しつけ)られる経験、それが小論文でした。

ティナ先生も番組でよくいっていましたが、旧来の教育は価値を作ることではなく、価値の再生産が重視されすぎている。
前提こそが命であり、それを覆すことは0点とする思考回路を植え付ける。小論文の試験とはまさにソレ…悪い言葉でいえば思考の去勢行為だったとおもうのです。

一方で、最近、企業家になることを目指す(各分野で研究をつづけている)学生たちに発想力をやしなってもらう様をフィーチャーした「スタンフォード大学 白熱教室」という番組があったことを思い出し、その主催者であるティナ・シーリグさんという女性のクチから何度も「クリエイティヴィティ(創造)」という言葉が零れるたびに、ニホンの入試の小論文にぼくが感じていた違和感をヒシヒシとなぜか、思い出していたんですよ。

ティナ先生は「課題」として、「5ドルを元手に、◎時間でできるだけたくさん稼いでください。しかし5ドルを封筒から出すと30分以内に使いきらねばなりません」として、学生のグループの発想力を問います。

ここで、小論文的教育を受けてしまったわたしは「5ドルを使う」という前提を死守することしかできませんでしたw
正解はいくつでもあるでしょうが、もっとも稼げたグループは前提として与えられた、5ドルには手を付けず(小論文的にいう「テーマずれ」ですけどね!)、無料で出来る何かを考える……ということに踏み出しました。
ティナ先生曰く、前提は「提案にすぎない」といいます。
たしかに入試なんてハコの外ではまさにそうなるはず。
なのにいつの間にか出来ない人間になってしまってるんですってば。

たとえば、週末になると異常に混む、でも予約できない人気レストランに行列し、人当たりのよい女性が列に並ぼうか悩んでいるカップルに「わたしたちがかわりに並びましょう」ともちかけ、その代価を受け取る・・・・・・というシステムで何百ドルも稼いだそうな。

要するに小論文に代表される教育で育てられるのは、他人の価値観を受け継ぐ時にだけ有効な思考回路なんですね。
一方で企業家だけでなく、クリエイターという人は価値をつくらねばならない。

クリエイティヴィティとは「ある種の誤解から生まれる」とすらいう人がいましたが、よりよいクリエィティヴィティとは、どれだけ「テーマずれ」できるか・・・ということにあるんだろうな、と思えてならないのですわ。
だからどんな教育を受けてきたか、とはどんな種類の足かせを発想力にあてはめるのが上手かったか・・・ということですらあるのです。

ほんと色々考えさせられますね





by horiehiroki | 2014-05-11 01:36 | 読書

田渕句美子さんの
「異端の皇女と女房歌人」 式子内親王たちの新古今集
という本を読んでおります。

式子内親王といえば、百人一首にも入った
「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする」
の歌の読み手として非常に有名ではありますが、
実生活があまりにも見えてこない、ナゾの女性でもありました。
そういうナゾが彼女の魅力の秘密でもあり、
自分も漫画「うたもゑ」なんかの中で、悲恋の皇女としての
キャラ造形を試みたりもしました。

「異端の皇女と女房歌人」 式子内親王たちの新古今集_e0253932_4593519.jpg

↑「光琳かるた」の式子内親王のふだ

しかし、本書は歌の解釈と彼女の人生をむやみに合体させるでもなく、
式子という「異端の皇女」のどこが「異端」=「ユニーク」かを説いています。
身分の高さをものともせず、自分の親しい人(身分的には臣下であっても)に見舞の歌や手紙を送ったり、記念のアルバムに相当する絵巻物などを作って贈ったりする式子さんの在り方は、非常にフランクな人、常識を気にするような人ではなかったのかもしれない……と思われてならないです。
その一方で、甥にあたる後鳥羽院(後鳥羽天皇の父・高倉天皇は、式子内親王の弟)が、式子を慕い、式子の暮らす御所で蹴鞠の会(日々、静かにくらしている式子の暮らしを、一瞬でも華やかに、にぎやかにしてあげようと思ったようですね)の時の様子を見ていると、だいたいどこの家でも浮気な女房が御簾のハジ近くで、どんな公達が鞠を蹴っておられるのかしら?!とソワソワしている姿が見られるのに、式子の御屋敷では女主人である式子をはじめ、ほかの女房たちも誰もそんな行いはしなかった…という記録が「源家永日記」という史料にあるそうです。
もっとも、この「源家永日記」、物語風の記述を採用している部分があって、似たような文体、内容で、ほかの内親王の屋敷の催しを書いていたりもするんで、どこらへんまでが真実かは不明だそうですが。

歌の「読み方」&「詠み方」も、当時の貴人は基本的に公の場に出す歌は、「お題」にそった「題詠」をするため、そこに本人の心情がどの程度反映されてるかは不明・・・というようなことがいわれたりします。
「忍る恋」というお題で詠まれた、あの有名な「玉の緒よ絶えなば絶えね」…の歌だけど、基本的に「忍る恋」というお題自体が、とくに恋の初期における、苦悩する男性の気持ちを読むべきテーマだった…という指摘を踏まえ、本当は恋いこがれる式子の姿ではなく、「源氏物語」で女三宮に絶望的な恋をして死んでいく柏木の姿などを想像すべき…という指摘は、非常に面白かったです。

たしかに女流歌人の詠んだ歌はなぜか、自身の体験として受け取られやすい傾向についても指摘がありますが、その通りですね……

ただし、その一方で、やはり自分が着ない服、着こなせないセンスのモードを漫画家が上手く描けないように、歌人も自分の感情のイロのパレットの中でしか、言葉を選べない、その言葉では描けないのだと思われてなりません。

それにしても最晩年の式子が、藤原定家の娘・因子に贈ったという絵巻物。四季にちなんだ歌や文学作品からの書き抜きに絵を添えたものだったらしいのですが、彼女自身が筆を取っていたかもしれないそうですね。

どんな絵を描いていたんでしょうか。見てみたかったなぁ。


by horiehiroki | 2014-05-05 01:49 | 読書

カテリーナの旅支度

内田洋子さんの「カテリーナの旅支度 イタリア二十の追想」を読みました。

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お勧めです。

描写は簡素なのに、イタリア各地の風景が鮮やかに脳裏をよぎります。
不思議ですよね。
行間にイタリアが生きている、
そう喩えるしかありません。

須賀敦子さんの随想からストイックすぎる、求道的な部分を弱めたら、内田さんになるというイメージもありますね。

読者はそう聞いて、よけいに「え、どんな小説?」っておもうかもしれません。

小さいけれど豊かな(食)生活が送られているワイナリーの主婦が、日々の雑用の中でいつしかアルコールに救いを求めるようになり、それは中毒になり、それをきっかけに夫は農業を辞める決心をする。
そこからわずか1ページ半で夫婦の再生が描かれます。
魔法のような筆致です。しかも行間に語らせるというようなことはせず、必要なだけ必要なことばがそこにある、ということ。
これは凄い匠の技ですね。

「四十年後の卒業証書」も母と娘の対立、愛憎、しかしお互いを本当は必要としているから、どこでどういうかたちで折れるかを知り尽くした女二人の物語です。
「犬を飼って、飼われて」という作品は、犬のための散財に見えて、本当は飼い主が必要としているから豪勢なペット用品を買ってしまう、というあたり。別に頼まれてもないのに「貢いで」いる。
それこそドラマ「紙の月」のヒロインたちを思わせるような虚さを、そこはかとなく抱えこんだ登場人物も出てくるんですね。

「一人暮らしなのに相棒がいる。それでもはやり独りきり」

犬と暮らす独身者のきもちってこの言葉につきるんだろうな。


by horiehiroki | 2014-02-01 10:25 | 読書

「朦朧」の時代

佐藤志乃さん著、「朦朧」の時代という本を読みました。


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明治期の日本画の歴史を変えた、「朦朧体」を巡る問題について触れられています。

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↑の菱川春草の「菊慈童」に対して、「キレイ」と現代人は感想を持ったりするが、当時、これらの”朦朧体”を使用した絵は極論すれば「汚いモノ」として批判を浴びたんですね。

拙著の乙女の美術史(日本編)でも触れた内容ですが・・・

岡倉天心ないし菱田春草といった”日本美術院”の人々が、「朦朧体」で描いた作品には当初、すごい拒否のコトバが雨あられと浴びせられたんですね。

売れないどころか、拒絶された、と。
この本では拒絶された内容が詳しく分かるわけです。

”朦朧的表現”は、19世紀イギリスのターナーの絵なんかにもありますよね。


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ターナー『パリ、ポン・ヌフの眺め』


あと印象派。

余談ですが、先日お伺いした山内さんの個展で、「風景からえた印象を・・・」と僕がお話すると、山内さんは注意深く(?)そのコトバを避けて、お答えくださった記憶があります。印象って、かなり、ある種の固定化されたイメージを持つコトバになってるんですね。




西洋でも写実的な表現以外の表現が出てくるたびに拒絶反応が多々あったのは事実です。

ただし、日本みたいに、西洋以上にあたたかい季節特有の空気にふくまれる湿度や、その湿度ゆえに遠くまで運ばれてくる花の柔らかい香りなんかも表現できる朦朧体にはポジティブな評価があってしかるべきなのに、批判されたのは、(海外の場合とおなじく)画とはこうあるべきである! という固定観念がゆえ、なんですよね。

どうやら日本人の場合、それ(固定観念)=絵とはキレイでクッキリした色をもつべきもの、というようなんです。

たとえば、浮世絵が「錦絵」と呼ばれ、大人気を博していくのも、色がハッキリしててキレイ、という感動が購買意欲を誘ったらしいですよね。

明和2年(1765年)に江戸の俳人を中心に絵暦が流行し、絵暦交換会が開かれるようになった。その需要に伴い鈴木春信らが多色刷りによる東錦絵(吾妻錦絵)を編み出したことで、浮世絵文化は本格的開花期を迎えた(WIKI)


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ここで思い出すのは大河ドラマ「平清盛」の画像の薄汚さへの批判。
古来から、日本人って色味へのコダわり、感性の鋭さ。
作品の色彩へはとにかく、リアルよりもキレイさに固執・・・という傾向は今にいたるまで続いているのかもしれませんし、そういうことが、天心・春草の時代にはもっと露骨にあったのかもしれません。

この本の103ページ以降、当時の評が載ってるんだけど、

朦朧たる色彩=あるかないかわからない薄塗りの色彩 
朦朧たる画=輪郭線がはっきりしないタイプの描き方

これらが「いい加減な描き方をしている!」「ごまかしている!」という批判につながるわけです。
朦朧といっているより「ごまかし画」と言い切る場合や、朦朧とした輪郭の人物を「おばけ」などと表現する場合も多々あったようです(これを聞いて、画家は激怒)

また色彩面だけでなく、表現面でも天心・春草の絵は「ヌエ画」、いろんな流派、さらにはキモノと洋装を組み合わせたファッションが批判された新島八重みたいに、和洋折衷の画風の組み合わせはあたかも不純であるかのように激しく批判されてるんですね。

これ、明治人の感性、美意識に直に触れ得るような気がします。
われわれとしては、朦朧体ってリアルだと思うんですよ。
とくに高温で多湿な日本の温かい季節ってああいう感じがする。
でも、最低でも当時の日本人には、鮮やかさに対する執着があった。
現実でそう見える(=感じる)以上に、湿度など感じられないハッキリしたものの描き方が理想とされていた。
そういう表象へのこだわりが、絵を描いたり、絵を見る人には多かったのかもしれない。
思えば狩野派にしても土佐派にしても、朦朧たるもの、曖昧なものは伝統的に描かれきませんでしたよね。

おもえば
強い絵。
もっといえば強度のある絵です。それらは。

その源流?として思い出すのが下のような”白描画(はくびょうが)”です。

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参考:尹大納言絵巻(いんだいなごんえまき)の一部




そう考えると、平安時代~鎌倉、室町時代なんかに墨の黒と紙の白だけで描かれた、白描画の世界も未完成なんかじゃなく、むしろ、そういう高い強度が感じられるがゆえに(あと経済的な条件もあり)この表現法をわざわざ選んで作られたものだったのかもしれない・・・そもそも着色された当時の源氏物語絵巻(通称・国宝絵巻)なども非常に、明晰なカラフルさがあったものですしね・・・・


などと考えがひろがりました。


あいまいな日本、なんかじゃない時代のほうがホントは長かったのかも。
あいまいな日本=朦朧体=”19世紀的ロマン主義”を経由したまなざしのある日本、ってことかも。

一方で、現代でも美的な感性には輪郭がハッキリクッキリした明るさをもとめる傾向、日本人には残ってるのかも。(→清盛への「汚れてる」批判。「ごちそうさん」などに代表される朝ドラの画面の明るさ。


→参考記事


朦朧とは”真実”とはそんなにハッキリクッキリしたもんじゃないということに天心、春草たち、日本の土壌には早すぎた”ロマン派”が気付いていたがゆえの表現だったのかもしれませんね。


クラシック音楽なんかを思い出すんですが、ロマン主義時代の姿があらわれていく18世紀後半~19世紀になるほど、朦朧とした音色のフルートがもてはやされ、明確な響きで人気を博していたリコーダーが姿を消していくってコトが言えるんです。
今のオーケストラに、基本的にリコーダーってないでしょ?

もちろんこの本は、これらの美学的問題ではおわらず、インドに天心たちが訪れ、アジア主義に目覚める、アメリカ、ヨーロッパを周り「現代のヨーロッパには見るべきものはない」と断言した・・・・・・云々などの話にも触れています。

興味ある方はぜひ、この本をお読みください。多少、専門的な内容ではあるんですが(あとがきはおもっくそ砕けてるけど)、まぁなんとか美術好きという方でも読める域にはある、と思います



by horiehiroki | 2013-11-01 17:33 | 読書

昨年の入居以来、ずずずずずーっとトイレにまつわる不具合に悩まされてるんですが、今回はついに盛大に水漏れをはじめまして。
そのリフォーム会社を問い詰めた所、最初に派遣した職人がまったくの素人以下で工法自体が盛大に間違えてた、云々。

大きな会社に頼むってのも厳しいっすな。
結局、誰が来るかわかんないから。どういう基準で職人を選んでるのか、問いつめてやる予定です。

今回酷いのは、再工事のレベルだけでは済まなくなってるってこと。
ヘタしたら家自体が傾くトコでした。

自宅監禁時間が多いです。

ということで、色んな本を(すごい騒音と震動を感じつつ)読んでるんです、が。




・ヘンな日本美術史

ヘンな日本美術史、月下上海 など_e0253932_2053195.jpg


人気画家・山口晃さんの著作です。
”本業”の画以外にも、硬派な筆イラストで
色んなトコで作品を目にする機会が多い山口さんですが
実は上野の「油画科」(ようするに油彩科)の出身なんですねー。

で、この本は某カルチャースクールで「私見~」と題して
トークした内容にプラスしたそうで、
「江戸時代の絵はあまり好きじゃないので抜かした」
とか独特な構成になっております
雪舟への愛はヒシヒシと伝わってきましたが(笑

この本と並行して読んでた中に「文様の名前で読み解く日本史」というものがありまして、これを読んでると、起源は遥か昔の時代にあったとしても、いかに現代人の考える「日本美」が、江戸時代のひとによって完成されてるかがヒシヒシと伝わるものでしてね。

だからあくまで”画家の感じる美”について語るって本でもないし(そういうのは画家さんは作品で語るものですしね)、山口さんのこの著作はこの著作で興味深いし、彼自身の感性の見取り図といってよいものにしあがってました。

けっこう興味深かったのは、伝・頼朝像の顔の白さの理由は? となると
自分の場合はお化粧とか、そういうところにばかり感心が行くんだけど、
山口さんの場合は、・・・まぁ、読んでいただければわかるように
視点が違いまして、ほぅほぅと思えました。

山口さんは伝統的な手法、ビジュアルで書いてるようでいて、やはり現代アートのヒトなんだな、という当然のことが分かるというかなんというか。

あと、この本、「好きではなかった鳥獣戯画」みたいな感じの章題でいちおう古代から始まるんだけど、いかにも「山口さん、やっぱり鳥獣戯画好きなんでしょ?」と作風から判断されて振られたテーマだったんじゃないかと想像したり。

色んな意味で作り手の事情と気持ち、ってのが透けてみえるご本でございました。



・月下上海

ヘンな日本美術史、月下上海 など_e0253932_2056484.jpg



早大を卒業後、シナリオ作家として活動(しようとしたが、けっきょく挫折的なインタビューは新聞で拝読)、現在は丸の内新聞事業協同組合の社員食堂にて勤務中の山口恵以子さんの新作です。
2007年に作家デビューを果たした後、本作「月下上海」で2013年、松本清張賞(第20回)を受賞するまでの著作が(すくなくとも著者略歴に書いてい)ないということは、いろいろと試行錯誤なさってたんでしょうかね・・・
それはともかく、母親が読みたがりまして、私も拝読させていただいた次第です。

母親は「少女小説みたい!」っていって・・・装丁がソレっぽいですわな・・・半分くらいで止めてしまったんですが、たしかに商船事業で成り上がった八島財閥の一人娘で、美人で、流行画家、広壮な邸にすみ、夫は五摂家に次ぐ家柄の公家華族の血とフランスのダンサーだかなんだかの血を引く音楽家(で美形)・・・・・・・・などなどという設定がまさにソレなんだけど、作家・山口さんはこの女性を(当時としては)わりと高齢な女性として書いています。

そのリアルさがけっきょく本作をただの少女小説ではなく、大人向けの小説として読ませるだけの背骨になっていくのが中盤以降。私の母上はそこに辿り着くまでに(不幸にして?)ページを閉じてしまった一読者ではありました。
ヒロイニズム、ということばありますよね。ヒロイン主義というか。要するに出てくる男全部がヒロインに(濃淡こそあれ)好意のベクトルを向けて、ヒロインが色んなオトコの間をフワフワする、というような話。好意のベクトルが憎しみに向かってる男性もいたりするのも御約束。

ただし後半部、愛によって傷ついた女が別の愛によって救われる、なんて絵空事は描かれず、ハタで見る分には華麗な展開の結果、よけいに傷口がひらいていくんですねー

その傷口からはもう血は流れなくなって、一つの空洞になってしまってる、ような。

だけど、このヒロインが強いのは(そして魅力的に見えるとしたら)、その空洞にあらたな希望だのなんだのを詰め込んでいけるとこなんですよねー。
古い木は内部が空洞化していくそうで。色んな理由でできた穴を自力ではうめられなくなり、不安定になり折れたり倒れたり。だからそこにセメントを注入したりして治療しなくてはならんのだそうです。
この女流画家さんは、それが自力で、しかも自然にできている。
そういう女を描けたのも山口さんという作家が、平坦なキャリアとはいえない中でも、クリエイターとして有意義な年を重ねてこれたから、だとおもうんです。

by horiehiroki | 2013-10-31 13:20 | 読書

新聞で紹介されてた

「 いくつ分かる?名作のイントロ  」

という本を母親とクイズ番組みたいに”あてっ子”しつつ読んでるのですが・・・・

意外に難しい。


いくつ分かる?名作のイントロ & 夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集_e0253932_00525.jpg

※画像は書影と、監修者の中江有里さん


自信満々で正答できたのは「痴人の愛」と「人間失格」だけかも。

作者は出てくるんだけど、題名が出てこない△もちらほら…という結果におわっています。

途中まで読んだのですが、疲れて残りはまた明日。状態でございます。

ちなみに「おんなごころ」なる章があるんですが(その手の本が集められてる予感)、やっぱ宇野千代とか激しい恋愛遍歴の女性が出てくるんでしょうか?

「生と性」という章の正答率が異様に高かった僕としては(w、わりと期待しています。
親に「あんたはそんな本ばっかり書いてるから!」とかいわれて何もいえない

たーだーし、その手の恋愛中毒的な女性は、男性ホルモン優位だそうで。男っぽいんですね。生物学的には。

20代女性が「恋愛・性愛に関心がない/嫌悪感がある」とアンケートで答える比率は現在で3割程度。
「彼女らは、女性ホルモン優位な年ごろだから仕方ない」とされてるのに、性愛嫌悪の男性も2割以上、3割に迫る勢いで年々、増え続けてることにたいしては、「男性ホルモン優位な年ごろなのに」と、問題視されてる記事を先日の新聞で読みました。

でもね、嫌悪感がある人は最初から土俵から下りてるんだけど、残り7割の「恋愛・性愛に関心アリ」と表明した若い女の子って、どくとくの、めんどくささがあると思うんですよ。
昔は恋愛が最大の人生の甘味というか、贅沢品で、めったに手にはいりにくかった。
経費もかかりました。バブル時代なんて正装して大学いって車でピンヒールの女子をお出迎えして、高級シティホテルでご休憩…とか。


自分自身を”対価”に、どれくらいの”獲物が釣れる”か…これを女の子はドリルみたいに繰り返して、いつしかそういうマテリアルガールを卒業、いつしか大人の女性になれるわけです、が、その成長過程に男の子は付き合いきれなくなってしまったんだろうと。

そこまでしてでも、付き合いたい!! というのがもはや、ありえないんでしょう。「いくつ分かる?名作のイントロ」には有島武郎の「或る女」の文頭も紹介されてましたが、有島は自分自身の女としての価値をもとめ、男たちの間を渡り歩くヒロインをビョーキという視点で描きました。

結果、愛という名のもとにこのヒロインと似たり寄ったりのことを全ての女の子がするようになってしまったのが昨今の日本。
明治からこっち、ここ150年あまりの間に女の子はものすごく複雑な存在になりすぎました。大半の男の子はもう土俵から下りてしまってる。さて、ここからどう女の子は切り替えしていくのか・・・? が今後の数十年のニッポンの青春の課題かと存じます。


で、話かわりますが、夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 というのもタイムリー(?)に手元にきていて、チラチラとよんでいます。

いくつ分かる?名作のイントロ & 夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集_e0253932_01420.jpg




海外のインタビュアーたちが捉えているムラカミ像は日本人の考えるムラカミ像とはかなり異なるなぁ、と。
とくに台湾などアジア圏ではなく、欧米人のムラカミ像は確実に肌触りがちがっています。
個人的には村上春樹はぜったいに東京周辺の空気ですべてを描く作家なんだけど。
それで興味深かったのが「アニメ(たとえば宮崎駿作品)」や「マンガ」といった、日本の”新しい”文化と、日本文化に相対的に興味が薄く、アメリカのポップカルチャー(ジャズなど)にいってしまったムラカミの接点を探ろうとするインタビュアーが複数いた点。

あるインタビュアーは「現代日本はカワイイものと、効率的なものの二つのオブセッションで引き裂かれてる」なんて実に興味深いことをいうんだけど、ムラカミの回答はすごく相対論的で「カワイイへのオブセッションは日本独自とはいえない。たとえばアメリカにもミッキーがいてそれがカワイイ」とかいうんですわ。

僕なんかはミッキーのカワイサはまるで異質だとおもうんですよね。日本のアニメのキャラのカワイサとは。

まぁ、ここらへんが・・・いやこの程度が、1940年代生まれ(なんですって)の、日本人男性における「カワイイ」の認識であり、限界ともいえるのかもしれない・・・


おそらく、ムラカミが多用する寓意的なキャラとしての、「羊男」だとかなんだとか、そういう存在が外国人のインタビュアー(文学者が多い)には「カワイイ」んでしょうね。いわゆる日本でうみだされるキティちゃんとかあの手の(アメリカのキュートとは異質の)カワイサのキャラの違いを彼らは掴んでる・・・(気がした

あとアニメにかんしても「あまり見ない」と、語調をやわらかくしつつも全否定するムラカミなんだけど、一読者としてムラカミのスタイル…というか文脈、行間からイメージできる映像はどんどん、アニメ化してってる気がしてなりません。キャラはもはや、モフモフした羊男みたいなイメージや「ダンスダンスダンス」のバブル時代のイラストの域を遥かにこえ、「1Q84」なんかで想像される映像は完全にアニメでした。
しかもミヤザキ作品などとは違い、3ヶ月がワンクールの「普通のアニメ」の絵柄。

(あるインタビュアーはミヤザキ作品のキャラがある種のキュートさをもつ、なんていうけど、ここらへんは少し僕の感覚とはちがうね)

異様にエロいシーンが執拗に挿入されてくるのが気になったんだけど、それは以前のインタビューでムラカミがこたえたごとく「女性は巫女的な存在として描かれる(セックスで男性を異なる次元に連れて行く)」的な存在ではない。
なんかとつぜんエロシーンが出てくるゲームかなんかみたい。

十代の少年から「なぜあなたは年上なのに僕の気持ちがわかるの」と手紙をもらうこともあるそうだけど、
村上春樹自身が青春の巫女であるということがいえると思うんです。

その時代、時代の、日本の”二十歳”という集合意識のようなものがあるとしたら、その”二十歳”のド真ん中にピンポイントでアクセスして、その実像を持ってこれる……というような。
必然的に、彼が描く20代ないし30代の男性の精神年齢(あるいは恋愛のお作法など)はそのあたりのまま、ということです。
そういう彼らのことを中二病ってことばがあるけど、二十歳病ともいうべきでしょうかね。大二病というか。


だからこそ、作家本人は1940年代後半生まれの日本人男性にすぎず、カワイイにもマンガにもアニメにも興味がないのに、どんどんその作品の行間はアニメ化、漫画化、もっというとラノベ化してきてる映像がつまっている、と。少なくとも僕にはそう思えます。少なくとも、実写ではありえないよね。

・・・ということで、なんていうか頭から終わりまで全部よむと「正直しんどい」んだけど、現代日本のある部分を代表してる(といってもよい)ムラカミ作品について、村上自身がクチを開く珍しい機会ですから、なかなか興味深いところもあり。
示唆に富む本でした。





by horiehiroki | 2013-10-15 00:38 | 読書