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カテゴリ:読書( 68 )

アイデンティティ2

「若者」とは誰か アイデンティティの30年(浅野智彦著)という本を読みおえて。

この本でいちばん考えさせられたのは、アイデンティティに自己同一性という訳語が与えられているということの意味です。


「個人」から「分人」へ というサブタイトルをもつ新書を平野啓一郎さんが出されたそうなんですけど、その個人のコアが”アイデンティティ”なんですよね。思えば。
読書としては楽しめましたが、社会学的な本にありがちな「そのテーマ話すのに、その例なの?」という疑問で一杯になって、ちょっと違う所に意識が流れていってしまいました。

しかしこの本では、たとえば仲間以外の”他者”とのコミュニケーションに長けてない(とされる)「オタク」論にかなりのページ数を費やし、また、たとえば1980年代からあらわれはじめた「一人の友だちに全てを期待しすぎない。友だちをTPO別に持っている」というような事実が、コミュニケーションの新次元として扱われ・・・・

まぁ、オタク研究については、日本の社会学の中ではとても大事みたいなのですが、ココでそれを持ち出す意味はちょっとわかりにくかった。

・・・けど、実際に僕が知ってる19歳の男の子はものすごく饒舌で一日中情報を発信してるんだけど、彼がいま厳密には何処にいて、情報を発信している時以外は何をしていて、何を目標としていて、何がしたいのか。そういうことがまったく分からない・・・そういうタイプの世間との向かい合い方をしてる若い子たちがたくさんいるんですよね。他者とのコミュニケーション欲はすごいんだろうけど、自分を出したくない。
というかコミュニケーションに自分を介在させたくないのかも・・・なんて思います。

彼もいわばアニメとかそういうのが好きなオタク的傾向はあるんでしょうけど、それってもはやオタクだからディスコミュニケーションって話でもないだろう、と。

で、今、僕(堀江)は、「シュタインズゲート」というアニメを見てってるんですが(それこそアニメに詳しい友人に教えてもらって)、ここに出てくる岡部なる人物の言語がもっのすごいディスコミュニケーションな言語なんですね

今や浜崎あゆみよりもCDが売れてる(笑)宮野真守が声なんですけど、正直いって上滑り感がものすごい。というか出てくるキャラ全部が全部、ディスコミュニケーションな人たちばっかりです(w
そもそもそういう人たちばかりが集ってるけど、彼ら自身はコレで交流できてるの?!ってぼくは訝しくて。

とくに宮野さんがやってる役(主人公)が重症。

得意とする分野の演技みたいですけど(デュラララとかもそうだったので。あんまり詳しくないけどw

今、エピソード5とか6なんですけど、コイツが出てこないと(主人公だから)話すすまないし、でも出てくるとホントに気持ち悪いので(スイマセン)見ているモノとしては苦悶してしまい・・・みたいな。

てかこのアニメ、宮野真守が9割喋って終わりやん、みたいな。

言葉はもはや理解を得るためのツールではなくなってきてるんですね。
むかしは”ただしい”言語=理性を象徴してたりしたんでしょうけど。

理性 言語 狂気 の関係ってやつですよ(フーコーがいうみたく)

むしろ趣味別に色んな友だちがいることはそこまで奇異な現象かということも自分の中ではまったくピンとこなくて驚きました。
そしてそういう色んな自分の側面があることを、多重人格的と昔は呼んでいたらしいことも、まるで考えたこともなかったので、わりと驚きました。

そういうこういうで、ここで示されてるコミュニケーションの前提と、自分の中でのリアルなコミュニケーションの姿とはちょっと違う気がしてきまして。

しかし、それゆえ、ぼくみたいな人間こそ古典的な意味での自己同一性としてのアイデンティティを失っているのでは。そういう文脈でアイデンティティはもはやないのだ・・・というこの本で示された指摘は「じぇじぇっ」と驚きながらもナットクせざるをえないというかなんというか。

でもね、そういいつつも、これってアイデンティティ全般の話のようでいて、いわゆる近代的自我をベースとした近代的アイデンティティってやつの崩壊なんだと思うんです。

あくまで。


たとえば、「分人論」を説いた平野さんは恋愛は分人しないほうがいい(かも)と仰ったらしいですが、平安時代なんかの貴族は完全に「分人」して生きてますよね。光源氏なんてのは最たる例です。
彼が複数の女性を前にして涙ながらに繰り返される「自分がたり」には客観的にみて、統一が一切ありません。でも光源氏は光源氏として一個人なんですよ。ソレは疑いもない。
本音と建て前なんて近代的な言葉以上にTPOによって出す自分を変え、チョイスして生きていってた。
平安時代の恋愛の在り方なんてその最たるものです。

そもそも「本命」あつての「浮気」であり、本命というコアが存在しない恋愛関係、すべてが「側室」というか、サブ彼氏、サブ彼女であってもおかしくはないのですが・・・

こういう考え方、たしかに欧米から影響をうけ、はじまった近代的恋愛美学には存在しえないでしょうね。だって結晶作用が生まれないかぎり愛は始まらない、なんてスタンダールなどがいってたことを生真面目に捉え、日本という土壌、文脈に接ぎ木していけたのがこの前までの社会でしょうから・・・

TPO別に自分のカラーがゆるやかに代わっていく、そんなほうがよほど現実的かつ「楽」に生きうる生き方のような気がしてなりません。

・・・ということで、現代社会学と歴史、文学がもうすこし有機的に出会った本もよみたいなぁっておもいました。
ま、まぁ、そういうのが僕(ほりえ)の仕事なのかもしれないけど(w

by horiehiroki | 2013-10-05 11:57 | 読書

アイデンティティ

「若者」とは誰か アイデンティティの30年(浅野智彦著)
という本を読んでいます。

現代日本には、すこし古びてきた印象があるけど、まだまだ「自分探し」がとうとばれてるムードはあります。

でもここまでどうして「自分探し」、つまり本当の自分(アイデンティティ)には
わざわざ探し出してまで出会わないといけない状況が生まれてるかは謎・・・

いまやアートからサブカルにいたるまで、この手の魂の冒険を描かない作品はありません。
そもそも自分をしるために作品をつくる、なんてことも、色んな作家さんとの出会いの中で聞いてきた言葉です。


そもそもアイデンティティという言葉が日常用語一般化したのは1950年代のアメリカ。
エリック・エリクソンという心理学者だそうですね。
彼は人間の人生を8つの段階に区分けし、その青年期において「アイデンティティの探求」が行われる、と。

もちろん、それのはるか昔からゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの徒弟時代」とか、いわゆる「ビルドゥングスロマン(Bildungsroman)」、青春成長物語みたいなかんじの作品群はありました。

ところが、現在においてのアイデンティティ探求の過熱化は、そうした過去の文脈とは似て非なるものであり、それは「アイデンティティそのものが失われたからだ(ジグムント・バウマンの説)」という衝撃的な論があるそうな。

アイデンティティそのものが失われた・・・というより言葉をおぎなって、アイデンティティの源泉がもはや存在しない・・・というとわかりやすいかも。

アイデンティティの源泉、それは”歴史”です。ウチにはたいした先祖もなく・・・っていう話しではないです。みんな両親、祖父母、そのさらに前の世代・・・がいたから、ここにいるんですよね。自分は一代でココまで来た!っていうはなしもきくけど、それは自分の前の世代までのありかたを”教師”がわりに、もしくは”反面教師”として使った結果のことです。

ところがそうした世代の鎖は、おおかたの人にとってもはや遺伝子リレーの話でしかなく、歴史、逸話、生活環境などなどまったく受け継がれていない・・・そういう一族もいっぱい出てきたのが20世紀~21世紀(現在)のトレンドなわけです。

かつて我々は”自我”とどう向かい合うか、なんてことを考えてました。
我おもうゆえに我あり。
でもその”我”が本当に自分自身といえるのかというと・・・・・・・ 

極端な例をだすとそういうことかと。

そもそもそういうことですよね?

失われた「わたし」を求めて、それが普通になってしまった時代の文化、アート、人生論。それが21世紀の主要テーマになるんでしょうか。

探して見つけるというより、自分をどうデザインするか。
だからテレビ、映画なんかの誰かがつくりあげたコンテンツを見てるよりも、会話、ネット通信(ツイッター、フェイスブック、ラインその他)で他人とつながり、その中でのコミュニケーションをつうじて、他人が見る自分の像を取り込んでいく。
歴史的に作られた居場所をうしなった現代人は、みずから新しい土壌を作ろうとしてるんでしょうね。

21世紀において(=21世紀においてもなお)、自分とは土から生えた芽のようなものである、と「わたし」はおもいました・・・

というように読んでていろんな論が頭の中に吹き出てきます。




by horiehiroki | 2013-10-05 00:16 | 読書

長生きは三百文の得

昨年の10月2日、日本を代表する俳優だった大滝秀治さんは亡くなられました。
そのほぼ1年後、この感想をブログにアップすることになる偶然にちょっとビックリしてます・・・。

「長生きは三百文の得」は、最晩年の大滝さんのトークをまとめた文を中心に、近年の舞台や稽古光景の写真などが載せられてる本です。大滝さんの顔が、北魏様式のホトケ様に見えてしかたありません。
もともと母親が読みたがりまして、取り寄せた本でしたが僕自身も興味深く拝読しました。
いや、ほんとに拝読っていったほうがいい内容なのです

長生きは三百文の得_e0253932_1231940.jpg



大滝さんは、深いことを、楽しく軽やかに語っています
死を目前とした老俳優の言葉・・・を期待してると肩すかしな部分も良い意味でありますね(笑
どこまでも自由自在で上機嫌な感じ。ここらへんがとてもよかったです。

大滝さんを妊娠中にお母さんが飲んでいたクスリのせいで、大滝さんは子どもの頃から髪の毛が灰色。でも誰もそれを理由にいじめることはなかった・・・という彼の言葉に、昔の日本人はえらかったんだな、などとわれわれは思ってしまいます。
しかし、すべてがすべて、そういうわけでもなかったんでしょうね。
学校の面接試験で(髪が灰色で、おそらく眉も灰色だったんでしょうか)、すこしでも息子の見映えをよくしようと考えたお母さんが、トイレで何本もマッチを摺って、そのススで息子の眉を描いたんだそうです。すると先生が大滝少年の顔を長い間無言で見詰め、あげくに「・・・・・・君は眉毛を描いてるの?」と言ったそうな。

お母さんは大滝少年を連れて面接室を飛び出ていき、泣いたそうです。

ほかにも若い頃の病気が原因で肺や耳などなどに色んな障害が残ってしまったそうです。これはぼく、初めて知りました。
稽古場では補聴器などを最初は使うけれど、その後は微かにしか聞こえなくても、生で向かいあうことが大事だという信念で外して演技をするそうです。

生で向かい合う・・・ってホントに凄いことだし、特権的なことだとおもうんです。
ちょっとズレるんだけど、この夏、よい機会をいただいて、母親と小林旭さんによる「夢コンサート」にいってきたんですね。浅丘ルリ子なんかも出演で。どっちかっていうとルリ子狙いなところが我が家にはありましたw アキラとルリ子って往年、映画なんかでカップルになることが多かった伝説の組み合わせじゃーないですか。

そもそも小林旭といえば、とにかく豪快、豪快、悪くいえば、例のハイトーンボイスの歌謡曲に象徴されるような大ざっぱなイメージがあったんだけど・・・笑・・・・・・実物の彼の姿を直接拝見すると、純粋にビックリさせられました。凄い人だなぁ、と。

実物の小林さんは知的な人で、もちろん豪快な男性でもありながら、頭の回転がすごい。今では若い歌手からベテランまで耳にイヤホンをつけ、歌詞忘れとか進行に失敗しないようにしてステージに立つものだけど、小林さんはいっさいそういうことしなくて、完璧にすべて、回すんですよ。
しかも、アドリブをいれつつ。
昔からのスターってすごいですわ。これくらいの能力とカリスマがある人以外はスターになれなかったんだとも思いますが。

脱線・・・でございました

大滝さんの耳が聞こえにくいという「属性」ですが、めんどうなことばかりではなく、自分にしか感じられない音楽の姿もあるはず、とベートーヴェンをはじめクラシック音楽を愛する大滝さんは語ってもいて、これが印象的でした。

ぼくにもかるい色弱の傾向(青とか緑系、らしい)があって、それでも昔は絵を描いたり、今はアートに関する仕事なんかもしてるわけなんですが。自分にしか感じられない色彩もあるのかな、と考えることもあります。


さらにこういう大滝さんの「属性」があり、そのことが逆に他の人とは違う、特別なオーラを彼にまとわせてるんですよねー。
晩年になればなるほど。
それを活かしたのが「くだらん!」のキンチョーのCMであり(w、この前TVで放送されてたのを親と見てたんですけど、高倉健がひさしぶりに主演した映画「あなたに」・・・などの出演作だと思います。

「あなたに」は、高倉健演じる主人公が、妻(田中裕子)の遺骨を彼女が生まれた九州の漁師町の海に流そうと、バンで関東から車旅をする映画です。
彼は刑務所にお勤めなので、休みが取れず、定年後に夢見ていた妻との旅行がこういうことになってしまったわけですが・・・この時、大滝さんは漁師の役で出演、大雨がふってるけれど、この日でないとダメなんです。なんとかお願いしたいと頼む主人公を前に、ハッキリと「それはできない」と拒絶します。
ところが嵐も行きすぎた翌朝、もう一度出直してきた主人公の顔を見て、「よし、船を出しましょう」と。
今日も船は出さないというかと心配してきた周囲は、あまりの変化に驚きます。
高倉健演じる主人公が「私の中に、まだ妻と(遺骨を海に流す形で)別れる意思が定まり切れていないことをあの方は見抜いていたんだ」と後で説明するんですねー。

けっきょく、どういう順番で撮影されたかはわかりませんし、順撮りの現場のほうが少ないとも聞きますが、その場その場をどう生きるか。どう存在するか。俳優ってせんじつめるところ、どう演じるかが問題ではなく、どう空気の流れを変えるか・・・ってことなのかなって想像します。

それほど、夜と朝での大滝さんの雰囲気の違い、存在感の違い、まるで絵の具を変えたかのように、変化がハッキリと伺え、すごかったんですよね。
こういう文をぼくが書いてるのも、大滝さんが好きな俳優としてあげる中に、ローレンス・オリィエなどに混じって高倉健が入ってる所に驚き、映画の例のシーンをハッキリと思い出せる自分がいたこともあったからです。

演技というものに興味のある方はぜひ読んでみてください。
by horiehiroki | 2013-10-03 10:56 | 読書

いせひでこさんの作品

母親の勧めで、パリにすむ女の子が本を装丁する職人と出会う「ルリユールおじさん」という作品を読み、美しい絵、そして短いけれど的確に対象を描き出した文章にひかれました。

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その後、「チェロの木」という作品に触れ、深く感動したわけです。

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森と共にくらす三世代にわたる家族の歴史。そして主人公の男の子がカザルスを思わせる老チェリストと出会い、音楽への深い想いやチェロという楽器への愛という三つの柱・・・さらにはルリユール~でもそうでしたが「老い」というテーマも濃厚にかんじさせつつ、ふつう大河小説が扱う深い主題を、絵本というメディアで簡潔かつ見事に表現した作品でした。

こういう作品を生み出せる「いせひでこ」こと 伊勢英子さんは日本を代表する文学者だと思います・・・。

先日は、彼女の手によるさし絵がいくつか入る以外は、文章がメインの「マキちゃんのえにっき」、そして「グレイがまってるから」を続けて読みました。

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マキちゃん~ は・・・ あえていうとわりとシビアな話だなと感じました。
絵本や児童文学には二種類のおかあさんがいます。
現実にはほぼ御目にかかることのないくらいに、やさしいあたたかい、ふわふわしたお母さんです。
もうひとつは怒るけど、子どものことをちゃんと愛してるお母さん。
現実は圧倒的に後者のほうが多いはず。
マキちゃん~はマキちゃんが3歳から6歳くらいかな、彼女の成長を描く内容なんだけど、実際に伊勢さんの娘さんの一人がマキちゃんであり、絵や文章を描く仕事をしているおかあさんが伊勢さんを思わせるように作ってあります。
で、お母さんはマキちゃんも大事なんだけどアーティストである自分の人生も大切。
仕事のしめきりというものもあるけど、自分「が」描きたい絵、文章があるから、マキちゃんにはイイ子にしてもらって、早く寝てもらいたいんですよね。だからときどきドライな対応をしています。
でももうすぐ4歳で大きなお姉ちゃん、でもまだ3歳のマキちゃんはそれが寂しい。みぞおちあたりがズーンとつめたく感じる、なんて描写で始まるこの作品ですが、いわば心の涙であるそれが「おねしょ」として出ちゃうんですけども。

そうじゃない日も、いきなり起きて!!とおかあさんに布団から放り出され、その乱暴さにけっして保育園は嫌いではないけどいきたくないとグズったりするマキちゃんを、おかあさんは「お留守番してなさい!」と、ひとり家に置いて(笑)、おねえちゃんだけを連れていってしまうなんてシーンもあるんですね。
でもマキちゃんは一人になって自分の気持ちを整理し、おかあさんのことを理解しようとする。

ーーー多かれ少なかれ親と子の関係って成長してもこういうところがあり、子どもに知恵がつくと関係には逆転するところもありつつも、親が子どもを傷つけたり、その逆もあったり・・・と色々難しい所は多いわけです。
ぼくなんか親と同居してるんだけど、いまだに親の取説がわかりません。親もぼくの取説をもってないなんて感じるんだけど、そもそも取説なんて人間にはないのですねー。
マキちゃんシリーズを読むことで、わかりきっていたはずの親と子の関係にも、あらたな地平が開ける・・・というような、そんな感覚を持ちました。
こういうのは、おとなが児童書を読む理由のひとつでしょうね。
おとなが優れた児童書を読んだときにだけ与えられる知恵だと思うんです。

人間の子どものつぎは、ハスキー犬の子ども・グレイとの生活を描いたシリーズもあります。
これはおもしろいけど、見てるだけでたいへんそう!
伊勢さんは”他者”を受け入れられる器の大きな人なんだなぁ・・・。

白川静が自著の中で紹介している、昭和初期に書かれた中島竦(なかじましょう)著「書契淵源」という書物の一節によると「文」とは、人の形をかたどった漢字であることは間違いないといいます。

伊勢さんのトコロのふかさ、そしてひろさが、短いけれど深い世界に触れた文を備えた絵本に結実したんだなぁ、と思います。
最近の彼女の作品には「うけつがれる」というテーマがよく出てくるようです。
自分も何を次の世代にうけついでもらいたいのか。うけつがせることができるのか。そう言うことを考えてもよい年齢になってきたのかもしれません・・・

by horiehiroki | 2013-09-29 10:00 | 読書

「ももクロ論」

この前、打ち合わせの席で、「ももクロ論 水着と棘のコントラディクション」というご本を頂きました。
内容は清家竜介さん(早稲田大助教授)と桐原永叔さん(「IT批評」編集長)のふたりによる、それぞれ独立した二章からなるご本です。

「ももクロ論」_e0253932_3482196.jpg




アイドル論、ももクロ論ひいては芸能論、現代日本社会論につながる文章で興味深く読みました。

有楽出版製作・実業之日本社から発売中です。

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(世間の考える、ももクロのメンバーのイメージ)


ももクロこと「ももいろクローバーZ」は名前だけ知ってたけど、これまでは「なにやら触れてはいけないカホリ・・・うさんくさい臭」がプンプンとかんじられ(笑)、今回、この本を読むためにヨウツベで応援動画なるものを見た程度、なんですが、うん、本の著者さんのおっしゃりたいことはよくわかりました。

あと、この本にはAKBはももクロの比較対象として出てくるけど、パフュームはまったく出てこないトコ。これが正直いって興味深かった。


(パフュームのメンバー)
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女性が女性のアイドルに対して感じる感覚と、男性が女性のアイドルに対して感じる感覚はかなり離れがあるようですね。

連続テレビ小説「あまちゃん」にも、「(アイドルが)ださいくらい(のことは)、我慢しろ!」ってアイドルになることをイヤがりはじめたユイちゃんに、アキちゃんが憤慨するシーンがあったけど、

アイドルとは、ださくあるべき

ものだと感じます。


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(「あまちゃん」内に登場した、”ご当地アイドル”「潮騒のメモリーズ」)



というか

アイドルとはださいものだ

っていうテーゼが確実にあるんだと思う・・・すくなくとも日本社会において。

パフュームって、声自体がピッチ操作されてる以上に、色んなトコでアイドルにもっとも必要な「ダサさ」が去勢されてますよね。ダサさが抜き取られ、念入りに再創造されて、振付だのなんだのに付与されてる感じ。

だからこの本の文脈ではパフュームはアイドルじゃなくて、アーティスト<パフォーマーなんだろうと思います。

アイドルってたぶん少女のほっぺとか、眉毛のまわりの産毛的な存在そのものであり・・・そうあるべき・・・・とかなんだとおもいます(笑)

たとえるなら。たぶん余分を極めた存在だと

アイドルは歌手ではなく、アイドルでなくてはいけない。

だからアイドルは歌は下手でよいし、踊りも一生懸命やってる程度でいい・・・んじゃなくて、一生懸命が透けてみえないアイドルはアイドルとは呼べないのですね。

っていうことなんだとおもう

アイドルっていうのは、子どもが小さな大人として機能しなきゃいけなかった近代以前の社会には存在しなかったとおもうんです。

近代、近現代、現代・・・となればなるほど、(増えていった中流以上の家庭の)子どもにはモラトリアム期間が与えられた。その結果生まれたのが日本でいう若衆・女衆の文化ですわ。そこの文脈の現代的な結実が、日本のアイドルであろう、と。

そしてこの本をくださった有楽出版のSさんによる

男性にとってのアイドル像(清純、かわいい、守ってあげたい)
女性にとってのアイドル像(不幸、したたか、大人のおもちゃ)


・・・というまとめは非常に刺激的でした。

今回は、男の網膜とか皮膚感覚では女に感じられてる何かを感じることはできないのだ・・・とかそういうことではなく、ですよ。


この相反する二つの要素を兼ね備えた少女こそ、ホンモノのアイドルだということです。

平均年齢10代前半だったかのももクロに対するぼくの感じた「手をだすべきではない」「触れてはいけない」というのは、この手の若い少女が商業ベースにのっかって笑顔を作ってきた伝統へのちょっとした違和感からでした。

でも結局、動画を見てみると、そういう従来のローティーンのアイドルたちとは全然ちがうパフォーマンスが繰り広げられていた。ももクロはたいへんメッセージ性のつよいアイドルです。あなたがスキなの♥ とか、お客さんを疑似恋愛に陥れるような構造にはまったくなっていない。

ぎゃくに子どもであることを全面にだし、子どもというヨリシロをつかってしか生まれ得ない、特有の神懸かりなオーラが飛び出てるんですよね。



コココ コーコ コッコッコー
コココ コーコ コッコッコー
コココ コーコ コッコッ コッコッコッコッコー
コーコ コーコ☆ナーツ
コココ コーコ コッコッコー
コココ コーコ コッコッコッコーー
コココ コーコ コッコッ コッコッコッコッコー
コココココココ コココココココ
ココ☆ナツ ココ☆ナツ



って・・・・呪文ですし。


「ももクロ論」_e0253932_841288.jpg


これとか。神がかってる。色々と。


だから、ももクロは、男性/女性の見るアイドル像の二つをあるいみ兼ね備えてるだけでなく、軽々と飛び越えてるのも分かりました。
おじさん世代が安心して(?)スキになれるってのもよく分かる。


ちなみに、男性/女性の見るアイドル像、これをがもっと露骨に、いや完璧なカタチで現れてるのって二次元、アニメの世界ではないでしょうか

前々から、なんでアニメの登場人物ってあそこまで家庭環境に恵まれてない人が多いんだろう?っておもってたんですが。たとえば綾波レイであったり、「魔法少女まどか☆マギカ」の人々ですよ。


男性にとってのアイドル像(清純、かわいい、守ってあげたい)
女性にとってのアイドル像(不幸、したたか、大人のおもちゃ)


これらをナチュラルに兼ね備えてる感じ。

魔法少女~ こと「まどマギ」が自分はかなりハマって見てたんだけど、残酷な運命の中で彼女らの闘う姿(キャラごとのカラーわけがももクロっぽい)ってほんとに神々しいんですよ~

ヨウツベでももクロ見てたら、まどマギも見たくなったですわ。
でもまどマギは”一つの完成系”であるのに対して、ももクロはつねに発展途上。ここらへんが彼女らを応援したくなる魅力のひとつなんだろうと。


彼女らは魅力的ではあっても、性的でありすぎてはダメなんですよね。(一部のファンむけの商品になってしまう)

女性のアイドルは未完成でなくてはいけないから・・・・逆にいえばけっきょく、いつまでたってもモラトリウム的存在でなくてはいけない。「女」になってしまうと神って下りなくなるんだとおもいます。

この本の中でも中世以来の日本の歴史における芸能者の伝統につらなるであろう、ももクロの面々について考察が加えられていますが、芸能って、現実社会の中で現実的な価値を与えられない、与えられてはいけない
存在だとおもうんです。
このあたりの文脈が現代のアイドル・ももクロに繋がるんだとおもう。いわばプロの少女。少女であることのプロ。

そこらへんが男のアイドルとは根本的に違うんだろなーって思いました。

この本の中にも「(水着がNGである、ももクロの面々)性的な目で見ることに対する罪悪感がファンの中にもある」という一節があったけど、たしかに爆発的なエネルギーを発する彼女たちの・・・・・・巫女とかなんとか神懸かり的な要素を失わせるものがそういう性的な眼差しなんだろう、と。
彼女たちは穢れなき若さ、そのものなんだよねーと。

だから、完全にアイドルでありながら、同時に、既存のアイドルの殻には閉じ込められない何かに成長していっている・・・ような不思議な状態が生まれてるんだと思います。


今年の4月に発売されたアルバムは、PVだけ見てると、この本でも指摘されるとおり、棘のついたマスクを被っていたり、ちょっとアヴァンギャルドで比較的オトナっぽい感じでしたけど(たとえば、前山田さんの提供した楽曲に顕著な、ポンポンはずむようなリズムがカットされてる)。


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(さいきんのももクロ)

表面の変化に対し、その表面をいかに受け入れるか。・・・というようなお話も色々とされていました。
ファンは大変だなぁ(笑


余談ですが、パフュームの新曲も今頃ききましたが、これまでのパフュームの楽曲に顕著な、ハウスミュージック的な、四つ打ちでみぞおちにボンボンいってるリズム音が抑えられ、メロウな印象がうまれていたのはと面白かった。パフュームはどんどんメロウになっていってますよね。


そして・・・
これを書いていってる時、最近読んだ「スタッキング可能」という小説の内容が思い出されてしかたありませんでした。

「ももクロ論」_e0253932_3483956.jpg


松田青子さんの力作です。

会社員を演じている人々(多かれ少なかれ誰もがそうだろうけど)をぱきぱきした文体で表現しています。ギャグっちゃギャグ、毒っけある内容といえばそうなんだけど、むしろ淡々と、それらをほの明るく表現。”乾パン”みたいな読後感です。

この中で「女であること」に対する部分はおもしろかった。

会社にいるときくらい、女であると痛感させなくてもいいじゃないか、というような


自分が”女”であることを女が持て余す・・・そんな飽和の時代なのかもね、と。

”少女”について書いていて、思い出しました。また機会あればレビュー書きます
by horiehiroki | 2013-09-17 03:35 | 読書

東京の空間人類学

陣内秀信さんの名著「東京の空間人類学 (ちくま学芸文庫版)」をいただきまして。ちらほら読んでいってます。

土地の高低による街の性格差、これはおもしろいですよね。

ぼくが家を買うときには、ほんとに坂の上の物件を推奨されました。地盤的な問題です。

たしかに家を買うには、つきつめれば建物ではなく土地を買うのだっていう意識が必要です。

でも地震対策だけが最初にありき、だけではちょっと寂しいところもありますわいな。


この本には土地の高低による地域差で、街の性格がかわってくる江戸から現代にかけてのゆたかな日本文化のあり方が考察されています。これは興味深かった。
壁をはりめぐらし、その向こうに広々とした森や田園地帯といってよいような丘がひろがる大名屋敷に代表されるような、ひっそり住まうことがステイタスの山の手に対し、下町はコミュニティの中にいかに目立って住まえるかという意識が盛ん。

それで、ハデな立派な店構えを大通りに構えるのが最高のステイタスとされた、と(住居部分は質素なんですって。

山の手の人は坂を下り、下町で経済活動に消費というかたちでくわわり、また経済活動とは別の世界である山の上に戻っていく・・・という繰り返しだったそうです。

これは為政者層がビジネス活動に積極的にかかわらない日本独特のシステムだと。

なお、いわゆる現在の(小さめの)庭付き一戸建て(数十坪~百坪)は、江戸の御家人の住宅の基本構造を踏襲してるそうです。


それで思い出すのは、新宿の中井にある林芙美子(作家)の旧邸が文学館になってるんだけど、これが平地と坂の間にちょうど位置してるんですね。


かなり坂が急なエリアなんだけど、その坂がキツくなる直前までが林さんの土地になっています。

竹藪などが目立つ、旅館みたいな家なんだけど、この坂の途中の家は大名家の下屋敷なんかの作り方を踏襲してるみたいなんですよねー。
規模でいえば、何千坪が一般的な大名屋敷のコンパクト版です。
これは自分がじっさいに訪問してみて思ったことで、この本にはかいてないことですが・・・。

坂の途中に住まうと、水を高いところから低いところまで流して、おもむきのある庭を造れるのがよいそうです。
大名家がわざわざ坂の途中に屋敷を持ちたがったというのは、地形を活かして水の流れを人がおっていける、廻廊式庭園にするためだったそうですが。
林芙美子って家を造るにあたり、ものすごく勉強したそうですが・・・つきつめると、大名になりたかったのか(w



そしてこの本、水の都市としての江戸の通称・下町を描いてる部分が美しいのです。坂の下の街ってことですね。水辺の。
たしかに現在の下町のガヤガヤした雰囲気とはちがって、江戸時代は将軍のお膝元であるというプライドが、静かな町並みを作っていたのであろうことは(関東大震災までは雰囲気が現存してたそうです)、数々の浮世絵でもわかります。

けれども、気になったのはやはり地震による災害。建物は潰れなかったんでしょうか?
やはり気になるのは低地ゆえの地盤の問題です。江戸時代の地震といえば、たしか一杯あったような・・・っておもったので調べてみました。


江戸時代の主な地震



1605年 慶長地震  ・・・ ”慶長大地震(けいちょうおおじしん)”は慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称。豊臣家の滅亡~徳川家の天下取り、など非常に動乱の多い時期に起きているので、昔の人は不安だっただろう、と。


とくに1605年の地震を”慶長地震”と称し、東海・東南海・南海連動型地震型です。マグニチュード7.5~7.9(あるいはそれ以上)!

しかし、地震動による被害はほとんどなく,津波が房総,伊豆,紀伊,四国,九州を襲ったことが大きかった…とされるようです。


1611年 慶長三陸地震・・・三陸沖 マグニチュードは推定8.1。

1703年 元禄地震  (関東)・・・元禄16年11月23日南関東に起った大地震。震源は房総半島野島崎沖。マグニチュード7.9~8.2。



1707年 宝永地震 ・・・1707(宝永4).10.4に関東甲信越から中国・四国・九州の広い範囲で起ったわが国最大級の地震の一つ 東海道・紀伊半島を中心に倒壊6万戸、流失2万戸、死者約2万人。


これに関連した地殻変動で、富士山が中腹から噴火。

江戸の街まで火山灰はとどく。
なお、1703、1707年の地震ともに綱吉の時代



1854年 安政東海地震・南海地・・・
1854(嘉永7/安政1).11.4に東海・東山・南海道で起った東海地震と,その翌5日に畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道で起った南海地震の総称。

2日続きで広い範囲に地震が起ったことになり,どちらの地震による被害か区別できないものが多いが,東海地震では沼津から伊勢湾にかけての海岸沿いの地域の被害が大きかった。





・・・ということで、これらのほぼすべての大地震に巻き込まれてる東海エリアは大変でしたが、江戸が凄まじい地震の犠牲になることはあまり、なかったのかも。
最初、壊れたら作り直すしかないというある種の諦めというか、無常感というか、そういうのが江戸人の心にはあって、水辺の街は作られていったのかな・・・と思うんだけど、どうやら違うようです。火事のほうがよほど深刻だ・・・という意識が水辺の街作りを加速化させたのかもしれません。

なお、江戸時代に隅田川沿いの寺院周辺土地の商業的賑わいは、ルール厳守の町奉行ではなく、寺社奉行の管轄地だったがゆえの自由さがあって生まれた・・・そうな。

江戸時代は一般的に寒冷だったんだけど、夏は相応に暑かった。
ということで、川縁が好まれたところもあるようですよ。


大阪というと現在でも道頓堀など、水辺の繁華街が盛んだけど、あれと同じイメージで江戸の歓楽街も運営されてたんですって。それが残ってるのは大阪だけってのが寂しいですけど。


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◇◇◇堀江宏樹の新刊もよろしくおねがいしまーす◇◇◇

東京の空間人類学_e0253932_0453714.jpg


百人一首 うたもゑ

(日本じゃ)世界三大美人なんていわれてる小野小町。でもずっとモテる、恋をし続けるということは、あるいみ「たったひとりの誰か」に出逢えてないってことなんです。平安時代、百人一首に収められた歌人たちの歌をベースに展開する、絵空事ではないリアルにして美麗な恋愛絵巻まんがですー。

藩擬人化まんが 葵学園


大河ドラマでもそうですけど、江戸時代はなぜ「ああいう社会」なのか? なんで現在でも県民性は「ああいう風」に存在してるのか? …みたいなことが漫画+文でザックリと理解できます☆

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by horiehiroki | 2013-08-14 09:26 | 読書

縄文美術館

縄文美術館 という本が面白かったです。

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ひらたくいえば、小川忠博さんが撮影しつづけてきた、縄文時代の土偶や土器の写真集なんですが、これだけいっぱいまとめることで(※ほぼカラーで600点あまり)、本当に色んなものが見えてくるんですよねー。

編んだ髪を結い上げたヘアスタイルを持つ土偶。きわめて珍しいとはいえ、出産中の姿を模したと考えられる土偶や、子どもをおんぶする土偶。塗られた朱(赤色)がのこった土偶。
表紙にもなってるけど、スマイルする土偶・・・


縄文時代という日本語と、土器の茶色から勝手に渋くてワイルドな時代を想像してるけど、そもそもモダンアートみたいな(モダンアートそのもの、ではなく「みたいな」、というところが、重要)、当時の土偶や土器のフォルムからは、現代日本人以上の鮮烈なセンスでみんな生きていたんじゃないか、と。

そもそもアスファルトを縄文人は素材として使用してるんですね。ぼくアスファルトって人工に作られた何かだと思いこんでましたよ(w

縄文時代とひとくちにいうけど、関東や東北では微妙にトレンドがちがっていたり、そのトレンドが広がっていったり。
そういうあたりも透けて見える、おもしろい本でした。
なにより驚いたのが、あのハデな模様のついた土器をつかって実際に煮炊きしていたというのが、土器の底にこびりついた食物で分かるとかなんとか。


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by horiehiroki | 2013-06-19 20:52 | 読書

絵本「地獄

最近、「地獄」に再会しました。

絵本「地獄_e0253932_20334822.jpg


絵本ですが。

今回は縮小版なんですすが、1980年が初版なので・・・
たしかに初版直後のコレを、巨大絵本として体験し、
そのあまりの恐ろしさがトラウマになって残ってます。

今でもこれをお母さんが子どもさんに読もうとしたら
表紙を見せただけで泣いてしまう子がいるくらい、悪夢な内容なわけです。
ある「明け方」、地の底に主人公のおっさんがひきずりこまれるところから始まるんですが・・・澁澤龍彦なんかも参加してる内容なので、もうそれそれは責め苦が具体的なんです。

本当の主役は千葉のある村に残されてる、江戸時代の作者不明の地獄絵。

その画をベースに編集してるんですが、飛び散る血しぶきよりもなにも、地獄におちた人間の無表情さがよけいに怖い。いくらズタボロの肉塊にされても死ぬことすら叶わないのが最大の恐怖だと本文でも語られるんだけど・・・ひとの目は死んでるんです。あきらめきったよーな目。
表紙の写真の右でも、確認できますよね。カラダを牛にされた上で責めさいなまれてるんでしょうかね?


しかし、今回読み返して一つ、確実に救われたと思ったのは、お地蔵さん(地蔵菩薩)が地獄にあらわれ、幼くして亡くなった子が、(親より先に死んだという不孝を責められ)賽の河原で石を積み上げている…というシーンがあるのを確認できたことです。

それがどうしたの? って話なんだけど、事情があります。

巨大な地蔵菩薩が杖をさしのべ、鬼にいじめられる子どもを救おうとしてる絵だと確認出来たのですよ。
これ、幼時の記憶では、すずしげな顔のお地蔵さんが、その杖の先でつぎつぎと子どもを潰して餅にしていってる・・・!となってたわけです。

それがぼくのトラウマだったわけで。

今おもえば、GANTZみたいな光景ですけども。


なお、昨年だったか、極楽という絵本も同じ風濤社から発売されました。


絵本「地獄_e0253932_20423631.jpg



こちらは、わりとおとなしめ。

芸術はつくづく業の世界なんだろうなぁと。
どんなに美しい絵にもその絵肌の奥にあるのは、描かれるものへの執着の心であって、地獄はその業の炎がいちばんダイレクトに描ける題材なんだろうなぁ・・・
これは古今東西同じですよね。

「神曲」をベースにした絵画作品も地獄編のほうが名作が多いというのは分かる気がします…。


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絵本「地獄_e0253932_0453714.jpg


百人一首 うたもゑ

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by horiehiroki | 2013-06-14 20:51 | 読書

クラシックの演奏会のメインディッシュといえば、「シンフォニー」、つまり「交響曲」ですよね。

今のオーケストラの演奏会の前半1時間弱は、序曲の類とか、15分くらいの現代音楽とか、ヴァイオリンとかピアノののための協奏曲が演奏されます。

20ほどの休憩をはさんだ後半が19世紀後半のブラームスとかシューマンとか以降の作曲家による交響曲が小一時間ほどの時間をかけて演奏されるという構成がメジャーです。


イタリアで存在として生まれ、「見世物」「音楽ショー」と化したオペラに対抗しうる、「絶対音楽」としてドイツ(語圏)で成長し…と多彩な変遷を経たのがシンフォニー、交響曲なんです。


その歴史について振り返ったのが、 大崎 滋生「文化としてのシンフォニー」という本です。平凡社から。




専門書とおもわれるかもしれませんが、この本のウリは、18ー19世紀の音楽家の事情が分かっておもしろいところかと。

たとえば17世紀初頭のドイツでは「30年戦争」の傷跡が深く、演奏家の花形であったトロンボーン奏者も多数亡くなってしまった。
金管楽器は(当時、音楽演奏の機会が多かった)教会でカッコたる地位を占めてましたから、その高貴なる旋律楽器であるトロンボーンが確保できなくなって、「さて、どうする?」となったとき、旋律を奏でられるヴァイオリンが採用されていった、とか。

ヴァイオリンはもともとは酒場なんかで演奏するための「下品」な楽器だったんですがね。

角笛を直系の祖先とし、遠くにいる家畜にも聞こえるようなデカい音が出る、そしてつまり実用性が高い楽器とされた「オーボエ」も、その音量ゆえに楽団のアンサンブルに採用されていった…とか。

(ちなみに高貴とされる管楽器は、貴族様のご趣味にふさわしいとされたフルートでございます)

団員がすくないんで、どうにかして…という苦心のあとですね。

交響曲を演奏するために不可欠なオーケストラが成立していく時点で、どーしようもない事情がいろいろあったご様子。


そもそも現代のわれわれにとっては、協奏曲といえば、ピアノとかヴァイオリンのソリスト(独奏者)とオーケストラが掛け合いをする音楽という印象がありますが、バッハの曲には、とくにそうしたソリストがいないのに協奏曲という名前のついた楽曲があります(ブランデンブルク協奏曲 第三番・・・とか)
あとヘンデルなどには合奏協奏曲というのもあるけど、これは、そもそもヴァイオリンはじめとする弦楽器と管楽器、管楽器などなどが合奏するという行為自体が名人技のひとつと認識されていた結果によるものだと。

それからブランデンブルク協奏曲については、複数の独奏楽器があります(たとえば五番ではチェンバロ、フルート、ヴァイオリンとか)。


もともと複数の独奏楽器をもちいた協奏曲の伝統って、フランスにあるみたいなんですが・・・・・

協奏交響曲 とか日本では呼んでるものなんですが。

このプロトタイプが誕生したのも、おおぜいのソリストがいっぱいパリに集まってきて音楽を奏でたがるんだけど、演奏会に費やせる時間は限られてるので、一気に演奏させねばならないという大人の事情があったそうな。

さらに(革命前夜の)18世紀にもなると、各宮廷のおえらい方が財政難に陥りがちで、音楽団も大人の事情を抱えるところが増えてまいりました。

楽団員が、苦心をさせらてるあたりは、まるで今のフリーライターとか編集部の存亡を見てるようでした。

たとえば、マリアテレジアが即位するあたりのウィーンの宮廷では、宮廷楽団がとつぜん新入社員を募集しなくなった、と。財政難というやつです。
若い人はビックリしますし、おじさんだらけの楽団で、どうやって新しい風を入れるかに苦心する楽団上層部みたいなのは、昨今の名門出版社にありがちな光景かと思われます。

18世紀、たとえば音楽好きとしてしられるフリードリヒ大王は、彼自身がもっとも好む作曲家のスタイルによる、「オレ様のテーマ」だけを求めていた、と。
つまり、誰かの書いた曲ばかりでは駄目なんだけど、その曲ではないにせよ、まったく別の曲でもない、創造的な摸倣を、お抱えの作曲家に求めた、と。
それを聞けば「現代ではありえない音楽の聴き方」だと思うかも知れないけど、意外にあるんですよね。
この曲が好きなあなたにはコレもお勧め! なんて表示がアマゾンでもアイチューンズでも出てくるように。
まったく新しい嗜好を掘り当てることの難しさ・・・。
それはともかく、雇い主(クライアント)のために、いろいろ苦心するあたり、作曲家とか演奏家は作家とか、フリーライターとかフリー編集者と同じくらいに、見えないよくわかんないニーズに左右される、アレな感じだったのが伺えるわけです。

そもそも交響曲の大半は四つの楽章で成り立ってるんですが、それももともとはシンフォニアとして、イタリアのオペラかなんかの序曲として演奏される音楽としてはじまった交響曲の役割が踏襲されておるのです。

18世紀の演奏会では、いちばん最初にハデで明るい1楽章が演奏され(この時点、客はまだ席についてない)、メロディがゆったりとうつくしい第二楽章が演奏され・・・つまり、交響曲はメインどころか、次に演奏されるメインの別の曲のための「マクラ」とされてたんです。メインとなるのは、作曲者自身によるピアノの妙技を披露する協奏曲とか、オペラの一部とか。

で、休憩がはいると、その休憩後に、前半演奏してた第三楽章、第4楽章が続けて演奏されると。

もともと交響曲も三楽章で構成されてたりしたんですが、第三の楽章としてメヌエットが追加され、四楽章制になったと。

このときなんでメヌエットが追加されたかというと、第一楽章みたいに客を席に座らせるためには、キャッチーで、しかも客は前半の音楽を聞いて、じゃっかん疲れてるハズなんで、リズミカルかつ威勢のよいメヌエットで「さぁ、またはじまりますよー!」とのメッセージを伝えないといけなかったから、じゃないでしょうか。

思うに。

実にせちがらい。

読者をいかに呼び込むかに腐心してる現代の出版関係者の努力をおもわせてなりません。いわばメヌエットはおまけのバッグとかでしょうか。


こういう状況が一変していくのは、19世紀、音楽が音楽として洗練されていくさなかでした。ベートーヴェンにはじまり、ショパンとかリストとか、作曲家・演奏家はカリスマとなり、客に音楽を聞かせてやってるんだゾ、というように状況がかわります。

芸術家は職人とか労働者ではなくなっていったんですね。

19世紀は交響曲の時代ともよばれます。

・・・しかし。

1850年代にシューマンが交響曲第三番「ライン」を完成させ、1870年代にブラームスが交響曲第一番をようやく(20何年ウンウン呻った後に)完成させるまでの26年ほどの間に、ほかの作曲家によって作られた、交響曲は一曲も現在のオーケストラのレパートリーに残っていないのだそうです。

思えばそうですわ。

1820-1830年代うまれの作曲家が青年ー中年時代につくった作品は、すべて没になったと。
ようするに彼らにはカリスマが足りなかった、というやつです。
これ、恐ろしい話ですよね。クラシック音楽にも氷河期世代っているんだ、と。

これを氷河どころか、「死の年」だと表現したのは20世紀を代表するドイツの大音楽学者・ダールハウス先生でした。


・・・・・・というように、比較的、専門家むけの本かもしれませんが、おもしろいのです。

興味あるかたはご一読ください。


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by horiehiroki | 2013-06-12 21:42 | 読書

肉への慈悲

この前、ベイコン展を見にいったんですが、フランシス・ベイコンのインタビュー集が「肉への慈悲」と、あまりに奮ったタイトルなのにテンションがあがってしまいまして。読んでみました。

スタートダッシュというか、掴みはよくないかもしれませんが、それでも読み続けると「面白い」です。

ベイコンは不意に浮かんだインスピレイションを頼りにして絵を書く。
頭で考え出した何かを描くより、理由はわからなくても思い浮かんだという点で「純粋と思われる」、そんなインスピレイションを元に絵を書く。


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ベイコンには三枚で一つの作品となるタイプの絵が多い(参考上図)のも、そうして思い浮かべられたイメージは動的なものだから、それを描くには三枚という単位がもっとも適している…というんですね。(6枚でも何枚でも描けるけど、焦点がぼやける、とか言ってます)

面白い内容なんですが、どうも後世のわれわれにとって本当に面白いところを聞きそびれてる気がしてなりません・・・。

たとえば訳本の152ページ。

ベイコンは椅子に座ったまま、何時間も白昼夢を見ている。そこでイメージを閃く…という文脈のなかで

聞き手(デイヴィッド・シルヴェスター氏)「白昼夢では何を見るのですか」

ベイコン「とほうもなく美しい絵です」

聞き手「そうやって思い浮かんだ絵には構図があって、それに基づいて実際に描くのでしょうか」

ベイコン「ある程度はそうです」

・・・というあたりで、方法論を聞いた後でもいいので、僕なら「あなたはとほうもなく美しい白昼夢を手がかりに絵を書いていると仰いますが、ご自分の絵を美しいと感じられますか」というようなことを絶対聞くと思うんだな。

たとえば、僕がこの前、月刊美術で取材にいった「現代アート」の作者さんたちは自分の作品を「美しい」といわれて、怒り出すひとは少ないと思います。

しかし、例えば、美というものがビミョーなものになっていた、20世紀中盤~後半の「モダンアート」の文脈ではどーなんだろうとしばしば考えるんです。美アレルギーの時代。

これ、いわゆる”現代音楽”の場合でもそうで、美しい音楽はNGとする流派がありました。
アヴァンギャルドな作風でしられるドイツのラッヘンマンという作曲家は師匠のノーノに「トリルは駄目。ブルジョワ的だから」というようなことを言われ、きつく叱られたのだそうです。

この聞き手のシルヴェスター氏、そしてベイコンの態度はよくわからないけど。
すくなくともシルヴェスター氏は「美しいとは思ってない」ということはよくわかる(笑
しかし、これまでほとんど美しいなんて単語を発することがなかったベイコンが、「口を割った」のに、そこに議論をもっていかないのは・・・・・・なんとも残念でした。

ぼくからいわせれば。

美というものを定義する仕事、こういうのも今だからこそ始めてみたいですね。

わかりやすいようにはしてるけど、現代アート、現代音楽とか色んなジャンルを包括するような評論とか。



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百人一首 うたもゑ

藩擬人化まんが 葵学園

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by horiehiroki | 2013-06-06 13:35 | 読書